なぜ、家康は江戸で幕府を開いたのか?
当時の江戸は途方もない不毛の地であった。
いまだその定説はない。
「どうした家康!」である。
しかし、地形とインフラから見ると
解は一本道となる。
天下制覇の京都
1600年、徳川家康は
関ケ原の戦いで西軍に勝った。
家康は朝廷から征夷大将軍の称号を得るため、
京都の二条城に入った。
1603年に征夷大将軍の称号を受けると、
即座に江戸に帰ってしまった。
この江戸帰還が江戸幕府の開府となった。
なぜ、家康は
あの不毛の地・江戸に帰ったのか?
150年続いた戦国の幕を下ろすには、
この家康の江戸帰還はあまりにも不自然だった。
戦国時代を勝利して、天下人となるには、
朝廷を抱えることが要件だった。
混乱の世の中を鎮静化し、
天下を制覇する象徴が京都の朝廷であった。
歴代の足利将軍、武田信玄、
今川義元、織田信長
そして豊臣秀吉を見ればわかる。
彼らの目は常に朝廷に向かっていた。
朝廷を抱え、それを天下に示すことが、
天下人になることの宣言であった。
そのためには、天下人は
京都または京都周辺にいなければならない。
(図―1)天下取りを狙った武将たち。
ところが、家康は違った。
征夷大将軍になった家康は、
京都に背を向け、
あの東の果ての箱根を超えて、
さらに武蔵野台地の東端にある
江戸に帰ってしまった。
(図―2)は、
京都文明からアルプスと
箱根を超えた江戸の位置を示す。
度し難い不毛の土地、江戸
全国の戦国大名たちは
あっけにとられたに違いない。
まだ、大坂城には秀吉の嫡男、
豊臣秀頼が構えていた。
西には戦国制覇を狙う毛利も島津もいた。
それなのに、全国制覇の
天下人になることなどに
興味がないかのように、
家康は箱根の東に消えてしまった。
江戸は、度し難い不毛の土地であった。
不毛の土地というだけではない、
日本列島の交流軸から外れ、
孤立し、情報が届かない、
発展性のない土地であった。
江戸はだだっ広い
武蔵野台地の東端にあった。
この武蔵野台地も役立たずの台地であった。
何しろ河川がない。米を作るための水がない。
その武蔵野台地の西側には、
箱根、富士山と続く
険しい山脈が壁のように連なり、
日本文明の中心の西日本との
往来を妨げていた。
江戸城の東には、
水平線が見えないほど
広大な湿地帯が広がっていた。
縄文時代、地球は温暖化で
海面は5m上昇していて、
関東地方は海の下であった。
家康が江戸に入った頃、
地球は温暖化から
寒冷化に移行していて、
海は現在の海面水準になっていた。
海は陸から離れ、
縄文時代に海だった跡に、
利根川、渡良瀬川
そして荒川が流れ込んでいた。
それらの河川によって
運ばれた土砂が、
巨大な関東の干潟湿地を形成していた。
21世紀の現在、
江戸時代の大干潟を見ることはできない。
その代わり(写真―1)で
フランスのランス川の干潟を示す。
世界遺産のモンサルミッシェルで
知られているランス川は
利根川の流域に比べて
10%にも満たない小さな河川である。
ランス川河口でさえ
このような大干潟が形成されている。
関東の河口干潟が
いかに広大であったかが理解できる。
少しでも雨が降れば、
関東の湿地帯の水は
何カ月間も水が引かなかった。
また、高潮ともなれば
東京湾の塩水が関東の深くまで遡っていた。
この劣悪な環境の湿地帯で
生えているのはアシ・ヨシのみであった。
家康はこの不毛の地に帰還した。
フィールドワーカー家康
家康がこの不毛の江戸に初めて入ったのは、
さかのぼること13年前の1590年であった。
1590年、豊臣秀吉は北条氏を降伏させ、
ついに天下人となった。
その年、秀吉は家康に戦功報償として
関東を与える、という名目で
家康を江戸に移封した。
この移封は正確に言えば、
秀吉による家康の江戸幽閉であった。
江戸の地は、
平安から鎌倉時代にかけ
秩父一族の豪族・江戸氏によって開発された。
室町時代は上杉定正がこの地を制し、
その家臣、太田道潅が
江戸に城郭を築造した。
応仁の乱からの戦国時代に
関東一帯を制したのが北条氏であった。
北条氏は上杉氏を追放し江戸城郭も支配した。
1590年に家康が
江戸城に入ったといっても、
それは荒れ果てた砦であった。
秀吉と雌雄を競う家康が
入るような城郭ではなかった。
荒れ果てた江戸城に入ったとき、
家康の部下たちは激高したと、
伝わっている。
(図―3)は、現在の東京の地形図である。
家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、
城の大修復や新築には取り掛からなかった。
江戸の町づくりに本格的に
着手するのも関ケ原の戦いの後である。
1590年、江戸に入った家康は
一体何をやっていたのか?
この時期、
家康はフィールドワークに徹していた。
家康は徹底的に関東一帯を見て歩き廻っていた。
この関東一帯の調査は
後年の検地・知行割・町割などの
政策で生かされていった。
しかし、それ以上に
この現地調査は歴史的に
重要な意味を持つこととなった。
家康はこの関東の調査で
「宝物」を探し当てていた。
それを手に入れれば、
間違いなく天下を確実にする
とてつもない代物であった。
発見した宝物は2つあった。
一つは、目に染みるような
関東一帯の森林であった。
もう一つは、大湿地の関東平野を、
日本最大の穀倉地帯に
転換させる鍵となる地形の発見であった。
日本一の緑の油田地帯
米国の歴史学者、
コンラッド・タットマン氏による
日本の歴史的森林伐採の変遷の調査は、
日本史を議論するうえで貴重な資料である。
彼は全国の寺社仏閣に入り、
縁起書類等を調べ上げた。
それら書物には寺社の創建、
改築時の木材搬入先が記されていた。
その研究成果が日本森林伐採の
変遷図であった。
(図―4)が日本の森林の歴史的変遷の図である。
この図から分かることは、
奈良時代の寺社建造のための木材伐採範囲は、
琵琶湖、紀伊半島まで広がっていた。
戦国時代には
能登半島、伊豆半島、紀伊半島全域、
高知、山口まで伐採範囲は拡大していた。
戦国時代、すでに関西には木々はなくなり、
山々は禿山だったことを意味している。
日本の歴史は森林伐採の繰り返しであった。
(写真―2)は滋賀県、京都の
比叡山の大正から昭和にかけての
禿山だった写真である。
戦国時代当時、木々が唯一の燃料であり、
建造物や道具の材料資源である。
燃料と資源がなければ、社会の発展などない。
1590年、家康は秀吉によって
関東に幽閉された。
その家康が関東で目にしたのは、
緑溢れる利根川・荒川流域であり
武蔵野台地の原生森林群であった。
家康は日本一の森林地帯、
今でいえば大油田地帯を関東で発見した。
武蔵野台地には森林は残っていないので、
(写真―3)の富士山麓の原生林で
当時の武蔵野台地を想像するしかない。
家康が発見したもう一つの宝とは、
ある小さな地形であった。
日本一の穀倉地帯
前述したが、縄文時代、
地球は温暖であり海面は上昇していた。
海水は関東地方の奥まで進入し、
当時の関東平野は海の下にあった。
6000年前より寒冷化で海面は低下し、
かつて海だった場所に利根川、渡良瀬川
そして荒川が流れ込み、
広大な干潟を形成していた。
(図―5)は、
家康が江戸に入った時期の関東地方である。
(図―5)の地形ではっきりわかるのが、
利根川は現在の関宿付近の台地で
行く手をブロックされていた。
この関宿の地点で利根川は、
向きを南に変え江戸湾に流れ込んでいた。
徳川家康はこの地形を発見した。
関宿の台地を削れば、
利根川の流れは江戸湾に向かわず、
東の銚子に向かう。
厄介な利根川の洪水が江戸湾に来なければ、
干潟を埋め立て干拓するのは簡単だ。
この広大な干潟は
日本一の穀倉地帯になる。
日本一の穀倉地帯で米を作る。
米は最高の金銭価値を持つ。
他の大名の領地を武力で奪わなくても、
膨大な財産が手に入る。
家康はこの大湿地帯の下に眠る
大穀倉地帯を見抜いた。
江戸へ帰還
関ケ原の戦いの以前から、
家康はこの利根川を銚子に向かわせる
工事に着手していた。
しかし、天下分け目の関ケ原の戦いが
開始されたので、
利根川の工事は一時中断した。
家康はその関ケ原の戦いに勝利し、
征夷大将軍の称号を受けると、
即座に江戸に戻ってしまった。
実は、家康には戦いが待っていたのだ。
人間同士の戦いではない。
人間同士の戦い以上に
過酷な関東の地形との戦いであった。
利根川の流れを東にバイパスする
「利根川東遷」という戦いであった。
家康は50年間、
天下を獲るために
人の血を流し続けて戦ってきた。
その獲った天下を治めるため、
今度は地形との過酷な闘いを開始した。
徳川家康が江戸に帰還した理由は、
関東の武蔵野台地と利根川
という地形であった。
日本一の大森林地帯と
日本一の大穀倉地帯の可能性を持つ利根川。
この二つの宝が家康の江戸帰還を待っていた。
利根川の地形との戦いは
家康が駿府へ移ってからも
江戸時代を通じて行われた。
政治体制の変革が起きた
明治政府になっても、
この利根川との戦いは引き継がれ、
21世紀の令和の時代になっても
利根川の現場で継続されている。
日本近代化の舞台:関東平野
明治になり、
日本は幕藩封建体制から
一刻も早く国民国家へ
変身する必要があった。
アフリカ、アジア、太平洋を
植民地にした欧米列国が
日本に迫ってきていた。
列国の植民地政策の原則は
「分割統治(Divide and Rule)」であった。
その国の分断を深め、
国内をバラバラにする手法である。
列国から見たら、
日本の幕藩封建体制など
分割統治にとって
これ幸いと映ったに違いない。
何しろ全国各地に権力は分散していた。
その権力は海峡と山々で
区切られた地形によって分断されていた。
ところが、明治近代化で
全国の日本人は一気に
東京に集中していった。
特に地方の次男、三男坊、四男坊は
躊躇なく故郷を後にした。
若い力と資金が集まり工業を起こし、
商業が展開された。
口角泡を飛ばし議論をして
政党が生まれ、法律が産まれ、
議会が開催され国民国家が形成された。
日清、日露戦争に辛くも勝利し、
最後の帝国国家に滑り込んでいった。
これら日本の近代化の
舞台の中心は関東であった。
関東には途方もない広い土地があった。
スポンジに水が吸われるように
若者は関東に入って行った。
(図―6)の中心の青色が江戸時代、
赤が明治、周辺の発展が大正、昭和である。
全国の人々が集まるには、
大阪、京都は狭すぎた。
関東平野が全国の日本人の力を
集中させる大地であった。
地形的に日本人の分断は避けられた。
400年前、徳川家康は
利根川東遷に着手した。
利根川の大洪水は銚子から
太平洋に流れ出し、
関東の大湿地帯は乾田化した。
(写真―4)で利根川の
洪水の70%が銚子に向かっている。
分断せず、関東に集中した
日本人は強かった。
関東平野という舞台で、
彼らは力を合わせ、
近代化と国民国家を実現した。
この舞台は400年前の家康が準備した。
【竹村公太郎】どうする家康!―大油田と大穀倉地帯― への1件のコメント
2023年6月10日 2:55 PM
東京で暮らす七割は地方出身者だそうですが、
長男まで親を残し上京する時代となって久しい。
3・11で官僚から地方不要論が堂々と出るほど
地方は顧みられなくなり、地方を供給源として長く
発展できた首都圏生活者が振りかざす競争原理と
自己責任論で、地方はますます税金泥棒扱い。
首都圏はいまも人口増だそうですが、
読んで考えさせられました。いろいろと。
関宿。この地名久しぶりに目にしました。
RNAVが主流になる前の羽田発東北北海道各線は
SEKIYADOを目指す出発方式が主流でした。
関宿にこれほど大きな歴史的要素があったとは。
毎回とても勉強になります。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
コメントを残す
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です