From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
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●●自虐史観はなぜ作られたのか、、、
月刊三橋の今月号のテーマは、「大東亜戦争の研究〜教科書が教えないリアルな歴史」です。
http://youtu.be/cx6gcrylFvc
◆◇お客様の声◇◆
”日本の問題の根本は、正しい歴史を学ばないことにあると常日頃考えています。
なぜ、他国の顔色を伺った、脚色された歴史を学ばなくてはならないのでしょう?
真実を知り、正しく理解することはイロハのイの字です。”
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おっはようございまーす(^_^)/
7月26日に紀伊国屋書店新宿南店で、評論家の中野剛志さんと拙著『英語化は愚民化』(集英社新書)を題材としたトークイベントを開催しました。
また、8月13日には、ジュンク堂池袋店で、柴山桂太さんと同様のイベントを持ちました。
両方とも、動画がアップされています。ぜひご覧ください。
『英語化は愚民化』刊行記念 施光恒_中野剛志トークショー
https://www.youtube.com/watch?v=Eb6JF3fjmaQ
http://www.nicovideo.jp/watch/1440480982
施 光恒_柴山桂太「英語化」政策で我々は何を失うのか?
https://www.youtube.com/watch?v=Yk6fHUKzqlE
中野さんとのトークイベントでは、フランスの作家アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の物語「最後の授業」が話題になりました。中野さんや私の世代ごろまでは、小学校の国語の教科書によく取り上げられていた物語です。
舞台となったアルザス・ロレーヌ地方は、フランスとドイツの国境地帯にあり、たびたび生じた両国の紛争の結果、領有権が移り変わった歴史があります。
ドーデの「最後の授業」は、普仏戦争(1870〜1871年)の後に、アルザス・ロレーヌ地方の領有権が、フランスからプロイセンに移った頃を扱っています。このとき、フランス語の授業が禁じられ、フランス人の教師である「アメル先生」は、学校を去らねばならなくなりました。この物語は、「アメル先生」がフランス語の最後の授業を行う日を描いています。
最後の授業の様子は次のように綴られています。
「そこで、アメル先生は、それからそれへと、フランス語についての話をはじめた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりしたことばであること。だから、ぼくたちで、きちんとまもりつづけ、けっしてわすれてはならないこと。なぜなら、民族がどれいになったとき、国語さえしっかりまもっていれば、じぶんたちの牢獄のかぎをにぎっているようなものなのだから…」(ドーデ/南本史訳『最後の授業』ポプラ社、2007年)。
この最後の部分は、政治学的観点から、とても示唆的です。つまり、ある民族が、たとえ他の民族に支配され、隷従状態に置かれたとしても、自分たちの言葉さえしっかり守っていればそれほど問題ではない。なぜなら、「じぶんたちの牢獄のかぎをにぎっているようなものなのだから」というところです。
言語の共有は、人々の連帯意識(仲間意識)を作り出し、団結を生じさせます。また、相互扶助、つまり助け合いの精神をもたらします。
中野さんによれば、「国力」(ナショナル・パワー)とは、「国民(ネイション)が団結・連帯して行動することによって生み出される力」です(参照、中野剛志『国力とは何か――経済ナショナリズムの理論と政策』講談社現代新書、2011年、18頁)。東日本大震災のような災害、あるいは海外からの軍事的脅威、恐慌や経済的危機を克服するためには、国力が求められます。
国力さえしっかりしていれば、つまり国民の間に連帯意識が存在し、人々が一致団結して行動することができれば、たとえ、脅威に直面したり、危機に陥ったりしたとしても、実はそれほど問題ではないのです。危機的状況を打開し、そこから脱却する可能性は大いにあるからです。
「最後の授業」のアメル先生は、こうした国力の本質、および国力と言語との関係をよく理解していたということができるでしょう。
ある民族(ネイション)が、自国の言語を大切に思い、守ることができている限り、多くの危機は致命傷にはならず、克服可能です。言語の共有が、国民の間にしっかりとした絆を作り、連帯意識や団結心を醸成できているからです。危機に直面しても、人々は一致団結して事に当たることができます。
まさに、アメル先生の言葉にあるように、たとえ他民族に一時的に隷従を強いられることとなっても、自分たちの言語をしっかり守り、団結心を維持している限り、「牢獄のカギ」をしっかり握りしめているようなものなのです。
他方、中野さんが指摘しているように、最も恐るべき「国難」とは、「国民の間で共有されるべき一体感や同朋意識が失われ、国民が分裂すること」です。
国民の間で言語的分断が生じれば、非常に多くの場合、それは連帯意識の分断につながります。日頃使う言語が異なれば、互いになかなか仲間とは認識しがたくなるのです。そうなれば、まさに国民相互の分断が生じ、「国難」に直面することになります。
(_・ω・`)
ところで、ここでいう連帯意識や一体感とは、同時代の国民同士の話だけではありません。時代を異にする国民相互の連帯意識も含みます。つまり、はるか昔の過去の世代、現在の世代、そして将来の世代をつなぐ連帯意識や一体感も大切です。
過去の世代との絆を実感できなくなってしまえば、我々は、「自分たちが何者であるか」ということ、つまりアイデンティティがわからなくなり、途方にくれてしまいます。
また将来世代との絆が見失われてしまえば、我々は、もっぱら刹那的な生き方を追い求めることとなってしまうでしょう。そうなれば、たとえば、長期的な視野にたって経済政策や環境政策を採用する動機がなくなり、社会はどんどん不安定化していくのではないでしょうか。
時代を超えた国民の連帯意識や一体感を作り出す大きな要因は、やはり言語の共有です。加えて、言語の共有がもたらす感覚の共有です。
この「感覚の共有」については、かつて、評論家の渡部昇一氏が、興味深いことを述べていました。渡部氏によれば、たとえば、日本人が他の花よりも桜を特別に愛おしむ感覚や感情は、いにしえからの和歌や俳句、文学作品に触れることによって、蓄積され、作られてきたものなのです。渡部氏のいうところの「母国語の蓄積効果」、つまり母国語に幼少のころから触れることにより、心のかたちが作られてきた結果なのです。
桜の花を前にして、盛りの時期のはかなさに愛惜の念を覚え、あるいは散り際のいさぎよさに感じ入るのは、日本人の特徴的な感覚や感情だといえるでしょう。こうしたものが形作られてきたのは、たとえば、次のように和歌に、いつの時代の日本人も触れてきたからです。
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ (紀友則)
春ふかみ 嵐の山の 桜花 咲くとみしまに 散りにけるかな (実朝)
願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃 (西行)
人恋し 灯ともしごろを 桜散る (加舎白雄、1738-1791、江戸時代の俳人)
いざさらば 我はみくにの山桜 母のみもとに かえり咲かなむ (特攻隊員・緒方襄少佐)
幸いなことに現在の多くの日本人は、これらの古くからの歌に共感することができます。たとえば私は、たとえ死んでも、西行の歌のように、桜の下で死に近くに埋めてもらえれば、いささかの心の平安が得られるのではないかななどと考えます。また、最後の「人恋し 灯ともしごろを 桜散る」という俳句に関しては、歌われている情景が目に浮かび、薄ら寂しさを感じます。
時代や世代を超えたこのような感覚や感情の共有が、過去の日本人との間の絆を感じさせます。加えて、このように得られる先人とのつながりの意識が、現在を生きる我々のアイデンティティの感覚を、人によって濃淡さまざまでしょうが、作り出しています。
上記の「いざさらば 我はみくにの山桜…」の歌の作者である緒方襄少佐は、出撃の30分前に辞世の句を残しています。
死するとも なお死するとも わが魂(たま)よ 永久にとどまり 御国まもらせ
普段、ぽけーっと( _△`)過ごしている私でも、この歌に接すれば、緒方少佐の心情に思いを馳せ、身が引き締まる思いがします。
私以外の多くの現代の日本人もそうでしょう。
やはり日本語が育む感覚・感情が、70年前の若き日本人の思いを伝えてきます。
時折、「特攻隊の人々は無駄死にに過ぎなかった」「何の意味もなかった」などということをいう人がいますが、私は、決してそうは思いません。
我々のような現代の日本人、あるいは我々よりもさらに後世の日本人が、緒方少佐などの特攻隊の人々の辞世の句を読み、それによって「俺も頑張らないかん」「私も、国や社会のために何かしなければならないよね」などという決意を抱くようになれば、特攻隊の兵士の死は、そのときどきの状況の中で何らかの意味を必ず帯びてきます。
このように、日本語の共有は、同時代の、あるいは時代や世代を超えた感覚・感情の共有を作り出し、そして連帯意識(仲間意識)の源泉となります。個々人のアイデンティティの感覚や活力の一部にもなります。ひいては、これが今後の国や地域社会を作っていくための国力のみなもとにもなるのだと思います。
(`・ω・_)
結論は、いつもの話なのですが、言語は単なるツール(道具)などではなく、我々の感覚を形作っています。また、社会や国を作っていく際の基礎となる連帯意識や相互扶助意識の源泉でもあります。
現在のように、短期的なビジネスの論理のみに目を奪われ、小学校からの英語の早期教育の推進などの英語化政策をやみくもに追求することは、結局は、日本の国力を毀損すると同時に、個々の日本人のアイデンティティの揺らぎや、虚無感をもたらすのではないでしょうか。
いつも以上に長々と失礼しますた…
<施 光恒からのお知らせ>
拙著『英語化は愚民化――日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)
よろしく〜 (^_^)/
http://shinsho.shueisha.co.jp/se/
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【施 光恒】言葉と国の力への22件のコメント
2015年9月5日 10:47 PM
うーむ、趣旨は分からなくもないですが、それほど構えなくてもいいのではないかと。。。単純に、「中国やトルコの大学生が英語話せるんだから日本の大学生ももっと話せるようになろうよ」ってことじゃないのでしょうか^_^;安易かなあ。。
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2015年9月6日 12:05 PM
個人が、英語をどのような形で勉強しようとも、それは自由ですから、構わないと思いますが、国が主導するのは、どうかなと思います。やはり日本は属国なのか、とみじめな気持ちになります。 大学の英語化含めたグローバル化も、一部企業の社内の英語公用語化も、何の意味があるのか疑問ですし、自己満足だけになってしまうのではないでしょうか。 聞いた話ですが、英語を公用語化した企業は、会議などがスムーズになって、かかる時間が短くなったそうですね。なぜなら、重要な話や、こみいった話をしなくなったから、だとか。 もっと英語が上手になればいいんだ、という考えも、あるかもしれないのですが、それはやっぱり違うと思うのです。 母国語なのですから、日本語の方が手堅いですし、細かいニュアンスも伝わりやすいですし、ミスも少ないと思います。日本語の持つ世界は、独特で、語彙も豊かで、柔軟で、日本語だから生まれるアイディアもあるのではないでしょうか。 言語は、歴史の中で積み重ねられた、価値のある遺産でもありますし、過去と未来の日本人を繋ぐものでもありますよね。そのような私たちの言語を、大切にしたい、と思うのです。 英語公用語化する企業は、日本の中で、日本人同士が、日本語を使わずに、英語で仕事の話しをする、という事で、滑稽と言っては申し訳ないかもしれませんが、それこそ「効率」が悪いと思ってしまいます。英会話が必要な場面もあるでしょうが、全て英語化するという事は、やはり違う気が致します。 施先生が仰る、「言語が人々の連帯意識を作り出し、団結を生じさせる」というのは、全くその通りだと思います。私たちは島国に住んでいて、外国語を聞く機会が多くは無いためか、実感が湧きにくいかもしれませんけれども、範囲を少し狭めて、例えば方言は、地域の共通言語ですが、実際、強い「連帯感」「団結」を感じるものです。子供が、仲間だけで使う「合言葉」もそういう意味で、似ている気がします。言葉にはそういう力があるんだなあ、と、考えさせられました。 日本には昔から、「言霊」という考え方があって、言葉に宿る不思議な力を信じていたそうなのですが、個人的には、日本語だから生まれた考えなのではないか、という気がします。母国語だからそう感じるのかもしれませんが、英語には言霊、あまり感じないのです。英語圏の方はどうなのでしょうね。 トークイベントの動画、拝見致しました。行きたかったです(泣)。中野先生もお元気そうで、本当に良かった!このような機会に恵まれている東京にお住いの方が羨ましいです。お二方の先生の語られた事すべてに共感しつつお聴きしました。
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2015年9月6日 7:33 PM
早期英語教育と英語化政策は区別すべきでしょう。> 現在のように、短期的なビジネスの論理のみに目を奪われ、小学校からの英語の早期教育の推進などの英語化政策をやみくもに追求することは施さん自身(総)英語早期教育と(総)英語化政策を混同していますね。施さんなどは早期英語教育をビジネスのためとしているようですが、早期英語教育は、それだけのためのものじゃないことはちょっと考えれば分かること。
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2015年9月7日 5:03 PM
>早期英語教育を行う家庭や私立学校も、大いにやったらいい。しかし国策として「日本総」を目指すとなると全然話が違う。早期英語教育(というより早期英語絶対音感教育)は国策(日本総)としてやるべきです。明治維新の時国を挙げて欧化に励んだのは国運がかかっていたからです。欧化で日本人の愛国心が失われたか。早期英語絶対音感教育も同様。子供の脳は柔軟。施さんや柴山さんはそこを見逃している。大人の日本語脳を無理矢理英語脳に変えようというイメージに引きずられている。
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2015年9月8日 2:22 AM
確かにドーデの話は関心しません。感傷的フランス語礼賛の皮を一枚めくれば、支配者が自らの言語を他者に押し付けるという図ですから。文科省の愚策のとおりに将来日本が英語化してしまった数十年後、ようやく愚を悟った日本人の反発に遭って出て行かざるをえなくなったアメリカ人教師がアメル先生と同じことを言うかもしれません。「英語は世界で一番美しい」と。強者はしばしば無自覚です。
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2015年9月9日 11:07 PM
まるで施さんが英語教育に反対しているかのように受け取っている向きもありますが、批判対象はあくまでも「日本総」英語化であり、「日本総」早期英語教育であることを忘れないようにすべきでしょう。英語は大いに勉強すべし。早期英語教育を行う家庭や私立学校も、大いにやったらいい。しかし国策として「日本総」を目指すとなると全然話が違う。それは愚民化であるという施さんの議論に私は全面的に賛成します。
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2015年9月10日 2:35 PM
ヒトラーをドイツ人とか口走っちゃうおバカなアカデミシャン()。そりゃ、日本語による参入障壁でも設けなきゃ、ドイツのプロフェッサーには勝てんわな。
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2015年9月11日 12:48 PM
>言語の共有は、人々の連帯意識(仲間意識)を作り出し、団>結を生じさせます。また、相互扶助、つまり助け合いの精神>をもたらします。山口組は分裂したようですが何か。構成員の大半は日本語のネイティブスピーカーではありませんでしたか。そして、これから血で血を洗う抗争がくりひろげられるという。そこに何の「連帯意識や団結」が、何の「相互扶助、つまり助け合いの精神」がありますか。それに「国語の共有」が「連帯意識や団結」「相互扶助、つまり助け合いの精神」をもたらすというのなら、そもそも、アメリカ独立革命など起こる道理もないわけだ。(そして、ラファイエット侯爵は誰のために何のために戦ったのか)まあ、ここまでならまだ許せる。「馬鹿は罪ではな」というエクスキューズも可能だ。しかし、普仏戦争をフィーチャーしておいて、普墺戦争について一言もないのは、どういうことか。当時、ドイツ統一をめぐる路線対立として、小ドイツ主義と大ドイツ主義があったというが、「国語の共有」が「連帯意識や団結」「相互扶助」をもたらすというのが本当なら、大ドイツ主義一択しかなりようがない。それなのに、当時のビスマルクたちは、小ドイツ主義をとって、同じドイツ語圏のオーストリアをたたき出すという選択を行っている。(オーストリアの側はオーストリアの側でハンガリーとかを切りすてるということをやってない)こういう都合のわるいことを伏せて自説を強弁する。これは、単なる無知や愚かさで片付けることはできない。敢えて言わせてもらえば、「恥知らずの嘘吐き」というのが相応わしい。
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2015年9月11日 10:01 PM
>フランスに>編入された>ドイツ系地>域がまたド>イツに入っ>た話だと>思っていま>す。それ重要。>中野さんや>私の世代ご>ろまでは、>小学校の国>語の教科書>によく取り>上げられて>いた何で、件のテキストが現在、採用されないのか。政治的正しさに問題があるからです。つまりは、あの状況で”Vive la france!”とかカマすことは、1945年8月15日に平壌や京城の教場で「大日本帝国万歳!」などとオダをあげることと本質的に何の違いもない。そうでなくとも、当の仏独両国がその克服を目指しているところの(言うまでもなくEUの発端はそれ)、19世紀から20世紀中葉まで続いた逆切れと逆恨みの歴史、そのらせん階段状の展開、の一局面を素朴に肯定することがいかに愚かしいか、それは、ちょっと考えればわかりそうなものです。
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2015年9月13日 2:47 AM
早期に英語を学ぶと愛国心が失われるという議論は成立しない。このへん↓を観ると、早期英語教育は愚民化だなんていう議論は吹っ飛ぶだろう。https://www.youtube.com/watch?v=GHNJ_ESP_Fc英語化は愚民化かもしれないが、早期英語教育は必ずしも英語化ではない。
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2015年9月14日 3:46 AM
このへんを観ると、早期英語教育は愚民化だなんていう議論は吹っ飛ぶでしょう。https://www.youtube.com/watch?v=GHNJ_ESP_Fc
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2015年9月14日 1:07 PM
>大瀧 智 2015/08/20 10:27 PM より:英語教育は愚民化に一言。私は海外二十年超の海外子女ですが、柴山先生や三橋先生のファンです。しかし、英語教育は愚民化と言われると、同意したいながら、やはり苦笑します。日本の英語教育は間違っているのは明らかです。何が間違っているかというと、英語教育を中一から始めるのが遅すぎるのです。逆にいえば、小学校時代に英語の聴力教育をやれば、中学や高校での英語教育はやらなくてもなんとかなります。外国語を学問と考えず、音楽と考えるべきなのです。非常に面白い意見。ただ、>小学校時代に英語の聴力教育をやれば中学や高校での英語教育はやらなくてもなんとかなります。そう問屋がおろすかどうか。しかし、英語教育は愚民化、桜がどうのこうのというレベルを抜いていることは確か。
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2015年9月16日 11:45 AM
中野さんと柴山先生との対談トークショー面白かったです英語の事業より面白かったですし為になりましたw物凄い思考力や想像力を掻き立てられました。大学ではこういう事業の方が大事だと思います。柴山先生がこれからは英語なんだよという人は品が無いという指摘や浅いレベルでの適応主義になびいていく人達への批判とか正にその通りと思いました。それに施先生がシールズのデモは何で英語のプラカードなんだとかヘイトスピーチという横文字使てレッテル貼る人が増えたとか言われましたけど、そういう横文字使ってレッテル貼る人やシールズのデモのように英語のプラカード使ってる人達は日本語で説明出来ない表現できないんだと思います。だから非常に浅いレベルの英語使ってそれらしい表現で分かった気になる自分が進歩主義的な気分でいるんだと思います。そういう深い考えはやっぱりしっかりとした母語があって事だと思います最近横文字使ってる人がそれを証明してると思いますw
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2015年9月17日 9:01 AM
ドーデの『最後の授業』でアメル先生が考えていることは仰るとおりだとは思います。でも、登場する少年の名前がフランツ君である事が気になります。明らかにドイツ系の住民です。ドーデの『最後の授業』とは、アルザス・ロレーヌ(あるいは、エルザス・ロートリンゲンでしょうか)はフランスに編入されたドイツ系地域がまたドイツに入った話だと思っています。
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2015年9月18日 12:44 AM
「英語化は愚民化」を読みました。本当に良かったです。自動車産業で言えば、英語圏なんて大したことないです。英語化して、日本中をデトロイトみたいな街にしたいのか。と、言いたいですね。考えてみれば、アメリカのロケットもフォン・ブラウンというドイツ人が飛ばしてました。そうなると英語の思考方法でモノづくりはできるのか?と疑問になります。
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2015年9月18日 7:02 PM
韓国の教育移民が盛んですが、今起きている問題として、子供が向こうの価値観に染まってしまい、韓国に戻ってこない、韓国に残った親のことななど無関心になってしまったという事例が増えているそうです。当然といえば当然。人間は、育った環境の影響から逃れることはできないのですから。幼稚園のころから、シンガポールやマレーシアで、子供を育てて英語もしゃべれる国際人にしようとしている日本の親の記事を読んだことがありますが、そうした子供達が成人して日本を「祖国」として思い、日本と日本人のために貢献したいと思う日本国民になるのでしょうか?日本語など単なる学習用語でもない、単なる台所での用足し言葉に過ぎないと考えるようになってしまったら、日本人の心などなくなっているといえないでしょうか?ある意味、教育移民とは子供を使った人体実験だといえます。言葉とは祖国であり、精神であり、日本人を日本人であるという意識を形成する基盤なのです。英語ができても、日本を祖国と思わず、日本に帰属意識を持たず、国は単なる居住区であり、国籍は単なる商売道具。そうした思考形態がグローバル人材や国際人ですかね?
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2015年9月20日 2:24 PM
どの「深さ」で反対するのか?お久しぶりです。さて、最近起きている英語化に反対するのはいいとして、では、どの「深さ」まで反対するのか?という問題が残ると思います。 (1) 政府の法案や政策レベルの反対 (2) 国民に対する、教育や文化レベルの反対 (3) 英語化推進派や軽々しく英語を使う連中に 制裁を加えるレベルの反対簡単に考えても、この程度の深さというか、層ができてくると思います。(3) は、過去に実例があります。大東亜戦争時ですが、英語を敵性言語だとして、文部省レベルで排除しようとしたことがありました。(例によって、これは「軍の強制」と言われたことがありますが、実際には軍は関与しておらず、文部省や内務省レベルだったようです)しかし、これは直感的に考えてもやり過ぎですし、英語化推進派(あるいは、一部の新自由主義者)に、 「ああいうヒステリックな『英語化反対論』はいつの 世にもあるもので、先の大戦の 『野球用語を全部日本語にしろ』から始まって、 『コンピュータ』『IT』という横文字が気に入らない。 全部日本語にしろ〜 というレベルのものまで、古今東西たくさんある。 このような時代錯誤な…」という論調で、やり返されるおそれがあります。というわけで、実際には (1) か (2) のレベルの反対ということになると思いますが、(2) であっても、場合によっては、「教育で善導」となり、英語化推進派から見たら「強制」ということで、反発されることになると思います。そのため、どのレベルで反対するのかについては、別に議論が必要になってくるのではないかと思います。個人的には、大学教育レベルの英語化を食い止めたいところです。意外なことに、コンピュータ関係の用語は、結構漢字があります。例えば、 「オブジェクトの『継承』『生成』『消滅』…」、 「クラスの『多態性』 (←これは “polymorphism” からの造語です)」 「再帰的な関数呼び出し (”recursive function call” とは言いません)」といった感じです。こういう漢字が使われるのは、恐らく、コンピュータ関係の学部が大学関係であり、論文や本などの情報が、ここを源として出て行っているためだと思います。一方、大学のような知的な世界を経ない例としては、釣りが挙げられます。(ネタではありますが、「サドンストライク」「ヤマメトラウト」でぐぐってみると、この業界の英語化が、もはやギャグのレベルになってしまっていることがわかります)このように、大学で使う用語は重要であり、その役割は、今でも失われていないのです。これを無くしてしまったら、日本の公用語が完全な英語にならなかったとしても、「ボロンロッドのエラスティシティを生かしてライナーキャスト〜」のような、メチャクチャな日本語で溢れてしまうでしょう。私は、それは(生理的に)嫌です。以上、長々と失礼しました。
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2015年9月22日 4:03 AM
私も全く同感です。よく、英語の早期教育を勧める人は、「言葉はコミュニケーションの為のツールだから、より多くの人達と共通のツールを持っていた方が良い」等と言いますが、そんな単純なものでは無い。言葉は文化であり、もっと言えば民族の魂と言っても良いものです。大和言葉の繊細な表現は、まさしく日本人の精神そのものです。なのに、その日本語を蔑ろにする人が近年増えているなと、日常会話でも感じます。テレビでも同じく。どうしても日本語では置き換えの難しい単語、或いは既に日本語化してしまっているものであれば横文字を使ってくれて構わないのですが、普通に日本語で言えば良いものまで、わざわざ横文字を使いたがる人間は、はっきり言って不快に感じます。しかも、そうゆう人間に限って、実際に言ってる内容は殆ど空っぽだったりします(代表的なところでは竹中平蔵とか)。先日も、取引相手が「プラグマティズムに染まってますね」などと宣いやがったので「確かに、実践主義を重視してます」と嫌みっぽく言い返してやりましたが。しかし、その一方で不安もあります。日本は英語での発信力が弱いのも、残念ながらまた事実と思うからです。従軍慰安婦や南京大虐殺等、特アの連中の荒唐無稽な嘘歴史が、まるで事実であるかのように世界に広まってしまったのは、奴らのロビー活動の影響が大きいのではないでしょうか。そしてそれを効果的にしたのは、英語での積極的な広報活動であると思われます。日本も英語のディベートで世界と戦えるような人材を育てる必要があるのでは、と思います。決して欧米文化にかぶれるのでは無く、日本の名誉を守り、日本の伝統や文化に対しむ深い理解と誇りを持ち、その素晴らしさを欧米にも訴えることができる、非常に重要ですが、非常に難しいことです。何故か英語が達者になると、考え方まで英米的になったりしますからね(もっとも、それこそ言葉は魂であることの証でしょうが)。日本人らしさと英語力、この二つを上手く両立させる教育方法があれば良いのですが・・・
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2015年9月22日 1:48 PM
読んでいて、後半のくだりから涙がジワーッと出っ放しでした。嬉し泣きでもなく、悲し泣きでもなく、感動というか、感慨というか、そんな涙です。英霊の皆様に対しただただ合掌するのみです。施先生の本日のメルマガに感動いたしました。
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2015年9月23日 2:59 AM
義務教育と徴兵制♪明治五年に徴兵令が施行され日本初の小学校設立、、、あとは 推して知るべし。小学校から英語を叩き込んで使い捨ての企業戦士を養成しようということでしょう。発音言語の英語と表記言語の日本語どっちつかずの使い物にもならない愚かな戦士が量産されるだけです。
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2015年9月23日 6:14 AM
>我々のような現代の日本人、あるいは我々よりもさらに>後世の日本人が、>緒方少佐などの特攻隊の人々の>辞世の句を読み、それによって「俺も頑張らないかん」>「私も、国や社会のために何かしなければならないよね」>などという決意を抱くようになれば、特攻隊の兵士の死は、>そのときどきの状況の中で何らかの意味を必ず帯びてきます。意味が我々を成り立たせているとして、その意味は今でなく大きな時間のなかで作られるのならば、残った日本人たちによろしく頼むと言ったことばは、かならずどこか、人智では測れない見えないところにまだ残っていて、それをちゃんと受け止めないと、いろいろスジが合わない、受け止めることこそが平穏なのかと思われます。今生きている人とさえ、なぜ通じるのか、悟り、この不思議なものがあると思えば、昔の人とも、未来とも、繋がりが見えてくるのかと思います。今日も素敵なお話をありがとうございました。
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2015年9月25日 1:03 AM
差別が無いって常識が無いってことだと思います、右左善悪を選択する際のバイアスが常識、日本人なら日本文化を優遇しないと有象無象の集団にしかなれないし何の蓄積もなされない。トークショーを見て感じたのは過去の日本人との繋がりの危機ですね、過去との繋がりを失うと未来も失う結果になると思います。中野さんの日本語で読めるうちに読んで欲しいという冗談に笑いましたwでもそうですよね。過去の日本人が世界を見聞きして蓄積し続けている日本語文化を捨て単調なビジネス英語を勉強させるのはなんのためか。人は金のためより生活や趣味、娯楽のために生きているのでは。米国を真似るとは超格差社会や貧しくなる自由を目指すということ。「絶望は希望を際立たせる最高のスパイス」的なマインドの社会は御免ですよ。
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