From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
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●●自虐史観はなぜ作られたのか、、、
月刊三橋の今月号のテーマは、「大東亜戦争の研究〜教科書が教えないリアルな歴史」です。
http://youtu.be/cx6gcrylFvc
◆◇お客様の声◇◆
”日本の問題の根本は、正しい歴史を学ばないことにあると常日頃考えています。
なぜ、他国の顔色を伺った、脚色された歴史を学ばなくてはならないのでしょう?
真実を知り、正しく理解することはイロハのイの字です。”
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おっはようございまーす(^_^)/
一昨日から、少し遅めですが、三日間夏休みをとっています。といってもここまで何をするわけでもなく、散らかし放題だった部屋を片付けたり、高校野球を観たりしていました…。休みはあっという間に過ぎてしまいますね。
ところで、8月14日に、戦後70年のいわゆる安倍談話が出されました。
当メルマガでも、三橋さん、佐藤さんが各々言及なさってしました。私も、お二人にそれぞれ同感するところが多いです。
特に、佐藤さんがお書きになっていた「反省と謝罪の分離」には大いに同感です。また、安倍談話が、ほぼその線で書かれていたことは、私も評価したいと思います。
さて、私も、少し思うところを書いてみたいと思います。
ちょうど談話の出された8月14日の早朝、文化放送のラジオ番組「おはよう寺ちゃん活動中」にコメンテーターとして出演しました。その際、その日の午後に発表される予定だった安倍談話についてコメントを求められるだろうと予想し、終戦50年の「村山談話」、終戦60年の「小泉談話」を比較のため改めて読み返しておりました。
「村山談話」「小泉談話」と比べると、当然ながら、安倍談話はずっとマシですね。
村山、小泉の両談話では、近代日本がなぜ富国強兵路線をとり、戦争をしなければならなかったのか、まったくわかりません。平和を志向する国々のなかで日本のみが悪意を抱き、近隣諸国を侵略し、植民地化したかのように語られます。
それに比べ、今回の安倍談話では、ほぼ冒頭から、近代日本の船出のころは、欧米列強の植民地主義に非欧米諸国が蹂躙されていたことについて、次のように言及しています。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」。
安倍談話が、近代日本が直面し続けなければならなかった背景として、欧米列強の植民地主義に触れたことは評価できるでしょう。
ただ、私見を述べれば、ここからさらに論を進めて、近代日本が船出の際に確かに持っていた理想についても、もっと言及してほしいと思いました。
その理想というのは、私なりの少々現代的な言葉で言えば、次のようなものです。
「すべての民族(ネイション)には、他国の支配を受けず、自らの文化や言語、慣習のうえに、自らの手で、自らが望む国づくりを行っていく権利がある。この権利が侵されることなく、各々の文化が花開く多元的で公正な世界秩序を作り上げなければならない」。
日本は、幕末から明治にかけての混乱を乗り越え、維新を敢行し、近代国家の樹立に曲がりなりにも成功しました。日本自身が、欧米列強の植民地主義を退け、自国の文化や言語、慣習のうえに近代国家をどうにかこうにか作り上げたのです。
維新を担った志士たちは、日本の独立維持のために奔走すると同時に、欧米列強の植民地にされ、ひどい扱いを受けていたアジア諸国の現状を大いに憂いました。日本が近代化し、富国強兵を成し遂げることによって、欧米諸国の苛烈な植民地主義からのアジア諸国の解放と独立を助太刀することを夢見ました。これは間違いのない事実でしょう。明治維新の、そしてその後も、時代状況によって強弱はあったものの存在し続けた近代日本の理想です。
無論、この理想から、近代日本の政策がしばしば乖離したのも残念ながら事実でしょう。歴史のさまざまな解釈があり得るでしょうが、おそらく西郷隆盛が下野したあたりから、この理想からの乖離が見出せるのかもしれません。近代化し富国強兵を成し遂げつつも有徳の国となることを忘れず、欧米の覇道に対抗していこうという理想を抱いていた日本自身が、そのときどきの国際情勢の荒波の中でこの理想を汚し、自らが植民地主義的な政策の追求を行った側面があることは、悲しいかな、否定できません。
非常に単純化して言えば、大東亜戦争の終戦に至るまでの近代日本の歩みは、欧米の覇道に対抗し、日本の独立を守ると同時にアジア諸国の独立を助け、その結果として真に公正でさまざまな国の文化が多元的に花開く世界秩序の樹立を実現するという維新以来の理想という要素と、日本自身がミイラ取りがミイラになるように残念ながら身につけてしまった帝国主義的な要素とが、ひとつひとつの歴史的出来事に関してそれぞれ複雑に絡み合っているのだと思います。
ですので、もし政府が村山、小泉、そして今回の安倍談話のように、歴史を振り返り、公式の声明を定期的に発表する必要があるのであれば(必ずしもその必要があるのかどうか判然としませんが)、私としては、その理想の確認と、その理想からの乖離してしまった事実の反省を行うのがスジではないかと考えます。
京都大学名誉教授の竹内洋(たけうち・よう)氏は、著書『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、2011年)のなかで、戦後の日本の国民感情には、大別して二つあるという趣旨のことを語っています。そして、戦後の日本人は、そのうちの一方、つまり半分の国民感情を隠蔽してきたのではないかと述べています。
二つの国民感情のうちの一つは、丸山真男などのいわゆる進歩的知識人が論じた「悔恨共同体」といわれるものです。つまり、先の大戦における日本の行いを一方的に反省し、「過ちを二度と繰り返さない」と念じるものです。戦後の主流の知識人やマスコミは、この「悔恨共同体」としての国民感情にもっぱら光を当ててきました。
しかし、戦後の国民感情は、これだけではなかったと竹内氏は指摘します。戦後は、ほとんど表に出されることなく、そしてきちんと意識化されたり、言語化されたりすることが少なかったけれども、「戦争はやむを得なかったと思い、敗戦を悔しく思う」感情も根強くあったと論じます。敗戦を無念に思い、「こんどこそはうまくやろう」と願う感情です。こちらは、いわば「無念共同体」としての国民感情と言い得るものです。
私は、竹内氏の指摘する「無念共同体」の国民感情とは、その持ち主にもきちんと言語化されていなかったかもしれませんが、欧米列強の植民地主義の非道さに憤り、近代日本の歩みにも、そしてその一つとしての大東亜戦争にも少なくとも幾分かは正当化できる理想があったはずだと思う感情だと言えるのではないかと思います。
村山談話は(小泉談話も大差ないですが)、「悔恨共同体」にのみ根差しており、「無念共同体」の側面はなかったことにしています。
私は、戦後○○年談話という公式の声明が、国民感情の一面だけに根差しているというのは望ましくないと思います。できる限り、国民感情全体を救い上げ、それをきちんと意識化し、言語化し、整理していくものでなければならないでしょう。
安倍談話は、村山談話、小泉談話よりも、一歩進んだものであり、だいぶマシだったと思います。
ですが、まだ不十分な点が多々あります。
私の観点から言えば、近代日本は、欧米列強の不当な植民地主義のなかで、先にあげた理想、つまり「すべての民族(ネイション)には、他国の支配を受けず、自らの文化や言語、慣習のうえに、自らの手で、自らが望む国づくりを行っていく権利がある。この権利が侵されず、各々の文化が花開く多元的で公正な世界秩序を作り上げなければならない」という理想を目指していたことをもっと明確にうたってほしいと思います。
そのうえで、その理想の追求の過程で、はからずもそこから乖離し、自らが植民地主義的政策を進めてしまった事実があるのは否定できないこと、そしてその点を反省していると、反省の内容をはっきりさせるべきではないかと思います。
また、戦前の日本が理想から乖離した事実があること、および、戦争に敗れたことは、この理想自体の否定ではなく、それどころか現在の世界でもこの理想自体は未完であり、意義を失ってはいないということも語ってほしいものです。
安倍談話は、「自由で、公正で、開かれた国際経済システム」「自由、民主主義、人権といった基本的価値」という言葉を最後のほうに織り込み、結局は、TPPなどの米国主導の新自由主義に基づくグローバル化推進への賛意とそれへの寄与の誓いに終わってしまっているように読めます。
私の現在の主な関心ですが、現在の米国主導のグローバル化路線には、多くの国々の文化や言語、慣習に根差した国づくりの権利を実質上奪ってしまい、新たな収奪の構造を作り上げてしまう面が大いにあります。
それゆえ、日本は、今回のように、終戦○○年という談話を発表するのだったら、近代日本の理想とは何だったのかを明確化してほしいと思います。加えて、この理想は現在でも大いに意義があり、現代の日本も、この理想、つまり、各々の国が、独自の文化や言語や慣習のうえに自らの手で国づくりを行っていくことができる、より公正な世界秩序を作ることを目指すのだ、そのために汗をかくのだ、ということを語ってほしいと考えます。
いつもながら長々と失礼いたしますた…
<(_ _)>
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<施 光恒からのお知らせ>
●この記事で触れた、文化多元的で公正な理想的世界秩序については、現代世界における英語による文化支配の批判という少々違う角度からですが、拙著『英語化は愚民化――日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)の第7章で論じています。こちらもよければ、お読みになってみてください(^_^)/
http://shinsho.shueisha.co.jp/se/
●8月29日(土)の夕方に、福岡で『英語化は愚民化』について講演を行います。毎月、私を講師とした勉強会を開催している「学ぶカフェ」の皆さんの主催です。講演に引き続き、「終戦70年 日本を取り戻す!」と題したパネルディスカッションも企画しています。私と、現役大学生の山本みずきさん(産経のオピニオンサイトiRONNAの特別編集長)がナビゲーターとなり、戦争体験者の方々などからお話を伺いつつ、今後の日本の針路を考えます。お近くのかたはぜひ。
http://www.sankei.com/region/news/150820/rgn1508200036-n1.html
【日時】平成27年8月29日(土)17時〜20時
【場所】福岡縣護国神社参集殿(福岡市中央区六本松1丁目1−1)
【参加費】1000円(学生無料)
【問い合わせ先】「学ぶカフェ」事務局(manabucafe@gmail.com)
【施 光恒】安倍談話と日本の理想への12件のコメント
2015年8月22日 4:18 PM
70年も経って、まだ「戦後」という言葉を使っている私たちですが、アメリカとの戦争で受けた、被害と心の傷は、本当に、本当に、深いものだったのかもしれない、という気が致します。 家族や同胞が大勢傷つき、亡くなっていった痛み、申し訳無さ、自分たちはダメで弱いのだ、という払拭しきれない考え。過去の事のように振る舞っているけれど、解決していない問題を抱えているから、「戦後」という言葉を使ってしまうのではないかな、とも思えてくるのです。 安倍さんの事は、根本的に親米派の新自由主義者で問題があると思いますが、アメリカを恐れ頼る気持ちは、実は多くの政治家がそうなのかもしれないですね。 TPPにしても、「アメリカ様、どうか人身御供を受け取って怒りをお鎮め下さい。そして我々をお守り下さい」という感じなのではないかと勝手な想像をしたりするのですが、そうだと致しますなら、まるで、自然の神に対する態度のようです。 自分たちにはどうにもできない、圧倒的な自然の力という災厄に対し、日本人は今でも、(人身御供はともかく)畏れ、敬い、耐え、祈る、という姿勢をとってしまうと思います。日本はどこまでいっても、日本なのかもしれないですね。こんな事なのに、変に嬉しい。 日本人にとって、アメリカはそのような存在に思えたのではないでしょうか。対等な人間同士の話し合いができない。通じ合えない。民間人の虐殺。いくら戦争だからといって、ここまで残酷になれるのか・・という驚き。相手は、人間というよりは、人間の力ではどうにもならない一種の自然災害に近い、ような捉え方をしてしまったのではないでしょうか。違うかな。 しかし、相手は決して神様ではありませんから、日本人がへりくだった態度をとる事を見下したりする事もあるでしょうし、自国の利益になるかどうかで、対応を変えてくるだけなのだと思いますから、誠を尽くしたからと言って、恵みが得られるとは限らないですし、あちらが日本を切り捨てる事も当然あり得る事なのでしょう。 傷つきすぎた日本がどうしたら癒されるのか、立ち直る事ができるのか、まだ判らない。日本が痛ましくて、せめて抱きしめて泣きたい気持ちです。
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2015年8月23日 9:23 PM
>私は、戦後○○年談話という公式の声明が、国民感情の一面だけに根差>しているというのは望ましくないと思います。できる限り、国民感情>全体を救い上げ、それをきちんと意識化し、言語化し、整理していく>ものでなければならないでしょう。「悔恨共同体」とは何かーすべてである。>戦後の日本の国民感情には、大別して二つあるという趣旨のことを>語っています。仮に二つあるとしても、そのことは、それら二つに同等の重みがあることを直ちに意味しない。「人類発生の説明原理は、大別して二つある。進化論とインテリジェンス・デザイン説がそれだ」などと聞かされたとき「ああ、事実上一つしかないんだな」と受けとめる。それこそが、言語の正常な運用のありかたというものです。「言語化」「言語化」と仰るわりには、その辺りが抜けている。>こちらは、いわば「無念共同体」としての国民感情と言い得るもの>です。「無念共同体」というコトバを創出すればそこに「無念共同体」が実在するように思ってしまうというコトバの詐術。(「現在のフランス国王」みたいに)そんな幼稚なトリックにはひっかかりません。悪しからず。
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2015年8月24日 4:27 AM
>「自由で、公正で、開かれた国際経済システム」「不自由で、不公正で、閉ざされた国債経済システム」>「自由、民主主義、人権といった基本的価値」「不自由、専制政治、人権弾圧という基本的価値」これが、>「すべての民族(ネイション)には、他国の支配を受けず、自らの>文化や言語、慣習のうえに、自らの手で、自らが望む国づくりを>行っていく権利がある。この権利が侵されず、各々の文化が花開く>多元的で公正な世界秩序を作り上げなければならない」という美辞麗句の内実。
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2015年8月24日 8:59 AM
>この理想自体は未完であり、意義を失ってはい>ないということ「死後に姦淫したことは、被告が死者を生き返らせようと思ってやったこと」この論法と瓜二つ。
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2015年8月25日 1:13 AM
「革新幻想の戦後史」うはっ・・・ズバリすぎる題ですね。おもわず注文してしまいました。世の中にはちゃんと考えてる方がいらっしゃったのだと感じました。今とても売れている先生の御本とあわせて勉強させて頂きます。これから日本の戦後総括をしていくと、もしかすると第二次大戦自身が共産主義(革新主義?)の勝利という、さいきんネットで散見した話もあながち暴論でもないなと感じてしまいます。安倍談話は前進だとすると、次はこの核心を議論する挑戦でしょうか。「百年経たないと歴史にならない」と聞きますが、80年後になる前になんとかしたいものですね。
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2015年8月25日 8:38 PM
品下る例えでしたが、おそらく施先生のご主旨と重なっていますね(^.^;
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2015年8月26日 9:33 AM
ネガティブな見方ですみませんが、たしかに、清朝末期の頃は中国から大勢の留学生が国費でも私費でも日本で学び、日本はアジアのお手本的に見られている面があったかもしれませんが、今や中国の高所得層はアメリカに行ってしまって、日本の影が薄くなっているのではないですか?今の中国と最近のアメリカって、実はちょっと似てるところがあって、・多民族国家で民族問題、人種問題を抱えている・極端な格差社会で社会保障が少ない(中)、少なくなってきている(ア)・その割に庶民も楽天的で積極的で基本反知性的でイケイケ(いわゆるヤンキー気質?)、ポジティブ過ぎてバブル崩壊しちゃった・・・そして、それぞれの社会の超勝ち組の子弟同士が、アメリカの一流大学でつるんでいるのでしょうから、その傲慢さ、恐ろしいものになりそうではありませんか。・・近々の例では、STAP細胞騒動時のハーバード大学の、社会的にも学問的にもふざけた誠実性のない対応、目に余るものがありましたね。そういう人たちが二つの大国の指導層となっていくのかと思うと、暗澹とします。。ドラえもんにたとえると、ジャイアンが二人(AとT)いて、最近何となく意気投合することがあって、地位が落ちてきたスネオJが、あわをくってジャイアンAに一生懸命ゴマを摺っている、という図に見えます、、、できれば一歩引いたデキスギ君の位置につきたいです。
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2015年8月27日 1:11 AM
施先生の仰る事に同感です。安倍談話は良く練られた物だと思います過去の談話に比べれば格段に良かったですしかし施先生の仰る通り、今の新自由主義の過激なグローバリズムとは違う所に持って行って欲しかったです。今の新自由主義は昔のマルクス主義や世界共産革命と一緒の世界を均質化しよう同質化しようとした動きと性質は似たものがある物だと思ってます。そこと違うものを日本は理想として目指していたんだと思いますしそういう所の大義はあったと思いますし、今もその理念は通じる物だと思います。
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2015年8月27日 2:14 AM
>また、戦前の日本が理想から乖離した事実があること、および、戦争>に敗れたことは、この理想自体の否定ではなく、それどころか現在の世>界でもこの理想自体は未完であり、意義を失ってはいないということ>も語ってほしいものです。安っぽい心情倫理。
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2015年8月27日 11:13 PM
戦後、学校教育に「デモクラシー」という言葉がワッと入ってきた頃、これをもじって「デモニクラシー」(でも憎らしい)と誰彼なく言っていたそうです。今ならしょうもないオッサンギャグですが、こんなダジャレの中にも庶民の悔しさ、「無念」が込められていたのではないかと想像します。
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2015年8月28日 2:41 PM
施さんのお話にはいつも共感することが多いのですが、今日のお話もうなずくことが多かったので、初めてコメントを致します。私は、昭和32年生まれの57歳の主婦です。私の父は、大正14年生まれで、終戦の時には、20歳になったばかりの大学生でした。父は工学部でしたので、学徒出陣の対象外で軍隊の経験はありません。子供の頃、父からは、先の大戦について思うことを聞いたことはほとんどありませんが、一つだけ良く覚えていることがあります。確か、今から40年以上前のある夏の日、たまたま父と二人で、NHKの8月の戦争特集番組を見ている時のことでした。晩酌中の父が、ふと遠くを見つめる顔になり、「(父の旧制高校の)先生も友達も、周りで、アメリカに勝てるなんて言っていた人は一人もいなかったよ・・・。」と言った後、とても悔しそうな顔をしてお酒を飲んだのでした。その時、私は中学生くらいだったと思うのですが、初めて父から戦争についての本音を聞いたことに驚き、とても印象に残っているのです。父からも母からも戦争について軍人が悪いとか軍隊が悪いとか聞いたことは一度もありません。ですので、私は、その時の父の言葉から、日本は、戦争をしたくなかったのに戦争を始めることになってしまったのだということを感じ取ったのでした。最近、良く父の言葉を思い出すのですが、今日も施さんのお話から思い出しました。ここ数年、今、父がいてくれたら戦前の話を聞くことが出来たのにと残念に思うことが多いです。これからも施さんのご活躍を楽しみにしております。ありがとうございました。
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2015年8月29日 11:55 PM
いつもわかりやすい論評ありがとうございます。施先生の投稿を毎度、楽しみにしています。以下の引用部分についてお尋ねしたい=============================「すべての民族(ネイション)には、他国の支配を受けず、自らの文化や言語、慣習のうえに、自らの手で、自らが望む国づくりを行っていく権利がある。この権利が侵されず、各々の文化が花開く多元的で公正な世界秩序を作り上げなければならない」という理想=============================この部分について、明治維新以前から戦前戦中にかけて、日本の首脳陣が理想に掲げていたことを示す資料がなにか、残されているのでしょうか?それらの資料も併せて示していただくと、格段に説得力を増し、読者もそういった資料に当たって、知見を広めることができると思うのですが・・・お忙しいとは思いますが、なにかの機会に、お示しいただくと幸いです。よろしくお願いします。
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