From 柴山桂太@京都大学准教授
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●●自虐史観はなぜ作られたのか、、、
月刊三橋の今月号のテーマは、「大東亜戦争の研究〜教科書が教えないリアルな歴史」です。
http://youtu.be/cx6gcrylFvc
◆◇お客様の声◇◆
”日本の問題の根本は、正しい歴史を学ばないことにあると常日頃考えています。
なぜ、他国の顔色を伺った、脚色された歴史を学ばなくてはならないのでしょう?
真実を知り、正しく理解することはイロハのイの字です。”
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日本人は英語が苦手、と言われます。義務教育や高校、大学で英語を学んできたにもかかわらず、英語はいっこうにうまくならない。国際会議やビジネスの商談でも、英語が下手なために損ばかりしている。そう不満を漏らす人は少なくありません。
しかしこれは当然と言えば当然のこと。発音体系も文字体系も西欧語とはまったく異なる言語文化にある日本人が、英語を流暢に操るようになるには、相当の時間とエネルギーが必要になるからです。
例えばスカンジナビアやオランダなどの北ヨーロッパでは、普通の人でもイギリス人並みに上手な英語を操りますが、これは言語体系が近いためでしょう。旧植民地だった国では、今でも公用語が英語という場合が少なくなくありません。言語体系が違い、植民地になった経験もない日本では、国民全員が英語をぺらぺら喋るようになるための条件が、そもそも欠けているのです。
ところが戦後のアメリカ支配と最近のグローバル化で、「英語ができなければならない」という強迫観念は大きくなる一方です。教育行政も小学校から英語を導入したり、大学の英語講義を増やしたりするなど、英語化の方向に舵を切っています。その目的が「国民の大半が流暢な英語を操る」というところに置かれているとするなら、その実現には途方もないエネルギーが必要となることでしょう。そんな労力をかけてまで英語化を進める必要が本当にあるのか、疑問に思わざるをえません。
施さんの新著『英語化は愚民化』(集英社新書)は、こうした疑問に明快に答えてくれる本です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207951
http://honto.jp/netstore/pd-book_27217490.html
本書を読むと、英語化への要求が今に始まったものではなく、明治の昔から続いてきたものだということがよく分かります。国語を英語にすべし、という声は明治時代にもありました。日本語のままではビジネスや学問で不利になるから、という理由も今と同じです。しかし明治の日本人は、日本語のままで行くことを選択します。日本語を知的言語として磨き上げることで、西洋語や西洋文化の支配から日本語を護ろうとしたのです。
このとき、重要な役割を果たしたのが大学です。大学は翻訳の一大センターでした。西欧言語で書かれた書物を日本語に翻訳することで、あらたな概念や表現を次々に日本語に導入していったのです。当時の大学人は外国語に精通していましたが、その能力はもっぱら「読む」ことに特化していました。すぐれた文献を西欧語で読み、日本語で書くことで、日本語の知的表現の幅を広げていきました。
おかげで日本人は、日本語だけで高等教育を受けることができるようになりました。英語はうまく話せませんが、日本語だけあれば科学も文学も、西欧諸国と比べて遜色ない水準で学ぶことができます。西欧との圧倒的な国力差から植民地支配を受けることを余儀なくされた非西欧諸国が多い中で、日本が独立を保つことができた理由の一つが、ここにあります。
よく近代日本の経済発展は、日本が教育を重視したためだと言われます。事実、アジア諸国では日本の先例に従って、教育に力を入れている国が少なくありません。これは間違っていませんが、事実の半分でしかありません。日本が教育に力を入れたのはその通りですが、その際、母国語での教育に力を入れたのです。そして母国語で学問する上で、重要な役割を果たしたのが翻訳センターとしての大学でした。ともすれば無用の長物に見える大学が、近代日本において果たしてきた大事な役割が本書(特に第二章)から見えてきます。
この点、昨今の英語化の風潮で大学が槍玉に挙げられているのは、興味深いところです。これまで大学の語学教育は、西欧の古典を「読む」ことに特化したものがほとんどでした。これは大学が翻訳センターだった時代の名残と言えます。どの大学にも文学部があり、学生の「読む」能力を鍛えてきたのも、日本独自のものかもしれません。
ところが今、大学改革で狙い撃ちされているのは、「読む」ことに特化した大学のあり方です。大学講義の英語化や文学部廃止論は、その好例と言えるでしょう。外国語を読み日本語で考えるなどもう時代遅れだ、それよりも英語でコミュニケーションする能力の方が重要で、その方がビジネスの即戦力になる、というわけです。おかげで大学は、これから「お雇い外国人」の数を増やすということになりそうな雲行きです。
翻訳センターとして始まった日本の大学が、その役割を見直す時期に来ているのは間違いないところでしょう。しかし、今のように英語化をさらに進めるという方向で改革を進めていくことが、本当に日本にとって望ましいことなのか。むしろ、これまで培ってきた日本の国力を大幅にすり減らす結果になるのではないか。そのような疑念は、本書を読むことで確信に変わります。最後に、本書の主張が詰まった、施さんの言葉を引用しましょう。
「言語は単なるツールではない。言語が我々のものの見方や感受性を形作っている。日本の良さや強みも言語、つまり日本語の充実によるところが少なくない。現在の日本語は先人の無数の営みによって作られてきた。我々は、英語化に踊らされ、先人の努力を、将来の日本人を、そして自分たち自身を裏切ってはならないのだ。」(本書、246頁)
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●自虐史観の始まりはGHQの・・・?
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>http://youtu.be/cx6gcrylFvc
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【柴山桂太】母国語は国力の源への10件のコメント
2015年8月21日 7:56 AM
こいつほんとにブログ読んでからコメントしてんのかよwwwwww読んでないでコメントしてるだろ
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2015年8月22日 10:37 AM
>言語体系が違い、植民地になった経験もない日本では、国民全員が英語をぺらぺら喋るようになるための条件が、そもそも欠けているのです。だからこそ早期英語教育が必要なのだ。日本語を犠牲にしないで国民に英語絶対音感をつけること、それが国策であるべきだ。小学校と言わず、幼児のときからこれを始めるべきだ。子供の言語脳は非常に柔軟だから英語教育によって日本語が大きく損なわれるという心配はあまりない。
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2015年8月24日 9:15 AM
仰る通りだと思います。 「発音体系も、文字体系も西欧語とは全く異なる言語文化にある日本人」とのご説明、非常に納得致します。英語と日本語では、言語としての距離が遠すぎる、という気が致します。 だから、日本人には学びにくいかもしれないのですね。「できない」と感じると、辛かったり、悔しかったりして、なおの事、こだわって懸命になってしまうのでしょうか。 国の中で本当に英語が必要な人は一割程度だと読んだ事がありまして、自分がその中に入っていないのを幸いに、英語と無縁の生活をさせて頂いて、その一割の方々のご負担に対し、ありがたくも申し訳無いような気持ちもあったりします。 私のような英語苦手なタイプからしますと、それほど必要でない人まで、なぜ熱心に勉強しようとするのか、少々不思議でございます。 間違っているかもしれないですが、ひとつには 日本人は、珍しもの好きなところがあると聞いた事がありまして、英語というものが、どこまでいっても馴染みにくいので、珍しい、というのもあるのでしょうか。 もうひとつ思いましたのは、アメリカへの憧れというか、幻想があるような感じもします。 行き過ぎな英語化も、その他の改革も、「自己否定」に繋がっているような気がします。自分以外の者になりたい、というような・・。 あらかじめ子供に、日本人としての常識、のような、伝統に根付いた身近な価値観を伝えられたら、子供も安定しそうな気がするのですが、戦後は「国柄の否定」から始まっている、という事なので、親も、子供をどう教育して良いのか、自前のものが失われかけているので、子供の心にバックボーンみたいなものを入れる事ができないでいるのではないかと・・。 バックボーン?がないと、どこか別のところに正しいものがあるように、思ってしまって、改革への抵抗が薄れるようにも思えます。 施先生とのイベントの動画を拝見致しましたが、柴山先生の「何がアポー(アップル)だ!」に爆笑しました。すみません、真剣にお話しして下さっているのに・・でも、判るんです。なぜか、子供が英語を話していると、なんだかモヤモヤして、「これで良いのかなあ」みたいな、納得しきれない気持ちになってしまいます。割と多くの日本人に共通した心境のようにも思いますが、だとしましたら、それも不思議ですね。
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2015年8月26日 2:13 AM
>逆にいえば、小学校時代に英語の聴力教育をやれば、中学や高校での英語教育はやらなくてもなんとかなります。その通り。しかし、音楽と英語は絶対音感の点で同じだろうか。つまり、音楽で絶対音感を養うように英語でも「絶対音感」は養うことが出来るだろうか。
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2015年8月27日 2:26 PM
抜き書き>「先述の鈴木孝夫氏は〜略〜音読みと訓読みがあることが、知的格差を作らないという点で大きいと論じている」せっかく格差が生じない言葉があるのに、経済理論と同じように政府が自ら国内に対立構造の修羅場を醸成しているようなモノです。政府自身が知的レベルが奈落の底に沈んでいます。>しかし、今のように英語化をさらに進めるという方向で改革を進めていくことが、本当に日本にとって望ましいことなのか。 経済政策が“郵政反対派議員キラー”の目的でトックダウンで雪崩式に通ってしまっているところに、日本語までもを廃棄処分切り捨てしてしまおうと、これまたトップダウン方式‥‥これって全体主義、、共産主義(の辿った末路)、人間狩り‥‥のような状況に見えませんか?これじゃアウシュビッツって言われても仕方ないような‥‥。世も末です。
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2015年8月29日 7:59 AM
リソースは限られてるのだから英語教育の時間を日本語教育に費やした方が良いのでは。翻訳もせっかく沢山あるのですし。日本には1億人以上いるのですから内需でも生活出来るでしょう。聴力教育が何なのかは分かりませんが英語を聞けば絶対音感になるということは多分無いでしょう。あと絶対音感の人は感受性が高すぎて生活上不便なことが多いと思います。日本文化の上にjapannizeした方が無理なく生活出来るのではないでしょうか。英語=愚民ではなく日本語から英語化への過程で英語エリートが生じるのではないか。そもそも何のための英語教育なのか。世界中で外需とか仕事の取り合いをすれば紛争の切っ掛けになるんじゃないか。英語の出来ない日本人をわざわざ愚民化したいのは前提が「日本は内向き、ガラパゴス」であることに自信が持てないせいなのかな。
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2015年8月31日 6:42 AM
先生方は「英語できる奴は愚民」とは言ってないですね。もうすこし落ち着いて読めばきっとわかるとおもいます。「本を売るため」というのは憶測でしょうし、ずいぶん人を傷つける発言をされますね。そもそも教育カリキュラムの話題でしょう。これは日本人すべてに影響を与えるものですので、だれもが幼少期から英語に親しんで流暢な英会話を日本人全部ができるようにする必然性があるのか、ということが論点ではないでしょうか。自分はビジネスでも生活でも、書き文字としての英語、つまり文章、本や説明書や、そういったものには必要性を感じていて、英会話など全然機会がないというのが実感、個人の感想ですね。幼少からの英「会話」教育は個々の判断に委ねるべき、というふうにするのが柔軟な施策ではないでしょうか。またそれを将来の自分の強みにするのも、きっと大事なことでしょう。
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2015年9月1日 3:49 AM
言葉はツールと言われる方もいますが、それでは、ツールごときに、何故多くの時間を割くのかということになるかと思います。時間は限られており、優先的に割り当てる時間は自分の専門の勉強や、柴山先生の本を読む時間になるかと思います。
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2015年9月3日 12:01 AM
英語教育は愚民化に一言。私は海外二十年超の海外子女ですが、柴山先生や三橋先生のファンです。しかし、英語教育は愚民化と言われると、同意したいながら、やはり苦笑します。日本の英語教育は間違っているのは明らかです。何が間違っているかというと、英語教育を中一から始めるのが遅すぎるのです。逆にいえば、小学校時代に英語の聴力教育をやれば、中学や高校での英語教育はやらなくてもなんとかなります。外国語を学問と考えず、音楽と考えるべきなのです。ピアノのように幼少の頃に英語に親しませ、絶対音感を獲得するのが大事です。文法なんか知らなくても、上級ビジネス英語は達成できます。絶対音感さえできれば、高校や大学で英語を勉強する時には大きな助けになるはずです。英語で心配なところは、学生時代に英語に精通してしまうと、試行回路も米国的になってしまうことだと思います。日本語の最大の価値は、英語に高等学術の世界でも対抗できる、そして、性格が丸くやさしくなれる語学であることだと思います。英語なんて、日本語と比べてそんなにすごくないと、思うことも多々ありますが、少なくとも産業革命以降の政界の共通言語であることはすごいことです。私は日本企業の国際部で一 生懸命仕事をしてきましたが、英語できる奴は愚民だと言われると、そうだな、確かに、と思いつつも、頭、ぼりぼりです。極論は本を売るためには必要かも知れませんが、その影で傷つく人間がいることを忘れないでくださーい。先生たちを応援しています。日本の為に頑張ってください。
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2015年9月3日 4:13 AM
英語は他の言語に比べて単語の種類が乏しいです。だからロシアはロシア語やロシア文化を持つことを大学でも必須条件にしようとしています。だからロシアは英語を喋れなくてもやっていけるような国にしたい気持ちが解ります。それに英語よりロシア語の方が単語数(単語の種類)が多いからね。英語一辺倒になると言語数の少なさを含めてパソコンのパスワードやメールの安全性も低下しますからやはり母国語が出来て、それからペルシャ語やロシア語を学んだ方が良い気がします。
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