政治

2025年7月24日

【三宅隆介】原理的帰結としてあり得ない「選択的夫婦別姓」

From 三宅隆介@川崎市議会議員

いわゆる夫婦別姓問題は、
その賛否をめぐり、
昭和40年代以来、
国政の場において幾度となく議論されてきた。

しかしながら、
これまでの議論の多くは、
前提となる事実と原理を無視したものであり、
いわば「事実の隠蔽」とすら言うべき、
極めて稚拙かつ粗雑な議論に
堕していると評さざるを得ない。

わが国の家族制度は、
現行民法に基づく家族法制によって規定され、
法的に保障されている。

この制度を変更することは、
国民一人ひとりの家族観や生き方に
重大な影響を与えるため、
国会議員ならびに、
その信任の上に立つ
内閣および国務大臣は、
声の大きな特定勢力や
社会の上層にある
特権的少数者の主張だけを
「国民の意思」としてはならず、
むしろ「声なき声」、
すなわち
「巧言令色饒舌ならぬ無数の民」の存在にこそ
心を寄せ、
真摯に耳を傾け、
学び、熟慮を尽くし、
国民的理解を得る姿勢が不可欠である。

ゆえに、まず求められるのは、
正しい認識と理解である。

概念が正確に整理され、
明確に定義されたうえで、
問題が正しく設定されることが
何よりも重要であり、
国民的課題であるからこそ、
国民には課題に関する
正確かつ十分な情報が、
誠実かつ丁寧に提供されなければならない。

しかるに、現在の夫婦別姓をめぐる議論は、
その出発点から根本的に誤っている。

なぜなら、そもそも、
わが国において
「夫婦別姓」なる法案が
提出された事実は一度もなく、
あるのは
「夫婦別氏(べつうじ)」法案であるにもかかわらず、
議論が「夫婦別姓」の可否という形で
設定されているからである。

たしかに、
長い法案名を略称して、
政治課題をわかりやすく表現することは
あり得るが、
異なる概念を用いて呼称することは、
国民を誤導するものであり許されない。

「氏(うじ)」と「姓(せい)」は、
まったく異なる概念である。

日常会話においては
両者の区別が意識されていないかもしれないが、
それは混同してもよいという理由にはならない。

仮に両者が同一の概念であるならば、
法案名が一貫して「別氏」とされてきた理由は
説明不能である。

「氏(うじ)」とは、
夫婦と子を単位とする家族の名称である。

すなわち、
「氏」は家族を一体として示す名称であり、
「氏」を異にすれば別家族、
「氏」が同じであれば同一家族となる。

このように、
わが国の家族制度は、
「氏(うじ)」というファミリーネームによって
規定されており、
このファミリーネームは
夫か妻のいずれかを選択することが
可能ではあるものの、
原則として一つの家族には
一つの氏しか存在し得ない。

これは制度の原理的帰結である。

一方、「姓(せい)」とは、
父系の血統を表す名称であり、
婚姻によって変動するものではない。

この制度(姓の制度)を導入すれば、
制度上、夫婦は
必然的に別姓とならざるを得ず、
結果として母と子もまた別姓とならざるを得ない。

そもそも、
現行の日本民法には
「姓(せい)」という制度そのものが存在していない。

したがって、
夫婦別姓を実現しようとするならば、
その前提として、
まず「姓(せい)」を創設する、
いわゆる「創姓(そうせい)」が必要になる。

しかし、
「姓(せい)」の制度を採用した場合、
制度上、夫婦共通の「姓」というものは
原理的に成立しない。

ゆえに、希望する者のみが別姓となり、
他の者は同姓を維持するという
「選択的」運用は、
制度上、原理的に成立し得ない。

夫婦共通姓を選択可能とするのであれば、
それはもはや「姓(せい)」とは言えない。

つまり、
「選択的夫婦別姓」という表現それ自体が
論理的自己矛盾を内包しており、
原理的に成立し得ない制度なのである。

このように、
「姓(せい)」と「氏(うじ)」は
根本的に原理が異なり、
それぞれ制度的帰結においても
必然的な制約が伴う。

したがって、
別姓(べっせい)であれ、
別氏(べつうじ)であれ、
「選択」などという原理に反する発想は
制度の内部論理と整合しない。

さらに言えば、
夫婦別姓を実現しようとするならば、
我が国の戸籍制度において
従来の「氏(うじ)」に代わる
新たな「姓(せい)」を創設しなければならず、
その上で「氏(うじ)」制度を廃止するのか、
あるいは併存させるのか、
併存させる場合には
公的記録や法的効力を
どう定めるのかといった点を含めて、
極めて広範かつ繊細な制度設計を
前提とした議論が
求められるのである。

以上のとおり、
現在わが国で行われている
夫婦別姓をめぐる議論は、
「氏(うじ)」と「姓(せい)」の区別という
根本的概念すら理解されず、
原理的帰結にも
無自覚なまま展開されている。

こうした水準の低い議論が、
国民に誤解を与えたまま
漫然と何十年も繰り返されてきたことは、
まさに国民に対する瞞着にほかならない。

原理的帰結として、「選択的夫婦別姓」は、
制度論理に背くものであり、
断じて成立し得ない虚構そのものである。

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