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2015年8月22日

【平松禎史】霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第十六話

From 平松禎史(アニメーター/演出家)

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●自虐史観の始まりはGHQの・・・?
●大東亜戦争という名称が消えた理由とは・・・?

答えはこちら
http://youtu.be/cx6gcrylFvc

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 ◯オープニング

ようやく燃えるような暑い日が減ってきて、空にはうろこ雲が薄くおおう日もあります。
うろこ雲やいわし雲は俳句などでは秋の季語なんですよね。

七月頃から咲き始めるサルスベリの花が好きで、引越し先を決める時には、水や緑が豊かなことと共に近場にサルスベリの木があるかどうかも重要な条件になっています。
サルスベリは漢字で百日紅と書いたりします。
「百日紅」というのは中国名。紫薇、海棠_とも書くそうです。
ついつい「サルスベリは漢字で百日紅と書いたりする」と書いてしまいましたが、中国語名ですから読みは全く違うはずです。
和名はサルスベリで、どうがんばっても百日紅をサルスベリとは読みようがありません。
これは熟字訓の一種で、当て字なのですね。
あす=明日、いなか=田舎、はたご=旅籠、イチジク=無花果、などいろいろあります。

第十六話「やまとごころへの道 いとかたきぞかし」

 ◯Aパート

アニメ(ーター)見本市の一本でボクが監督した「イブセキ ヨルニ」ではデモ隊がプラカードをたくさん持っている場面があります。
安保法制でデモが頻発していて改めて観察してみると反省点がありました。
現代のプラカードはパソコンで作ってプリントしたものが多く、英語やアルファベット表記もかなり多くありました。
物語前半ではプリントしたプラカードを前面に出したほうがリアリティは増したかもしれません。
後半では文化的生活が破壊されているので手書きばかりで良いのですが、意味不明な英文字をもっと増やすべきだった。
日本語の書き言葉が破壊されている視覚情報で文化破壊を示唆したつもりでしたが、演出として弱かったと思います。
つまり、破壊っぷりが現実に負けていました!

英語やアルファベット表記を優先するのは、そちらのほうがカッコイイからというだけでなく、同世代に伝わりやすいとか、説得力があるように思われているからでしょう。
外国に向けてアピールし、外国人の賛同を得て活動を正当化しようという意図もあると思います。
この意識は戦後日本人の荒廃を表しているのでしょうか?

歴史を遡れば、日本には文字がなく、中国から漢字、漢文を取り入れていたのです。
しかも、古代中国の王朝は日本にとって唯一の「世界」で、ずっと進んだ文明を持っていたのが今でいう中国だった。
これを取り入れ、いずれは対等にならねば、と考えたのです。

 _ _ _

今回は、中国語・中国文学者の高島俊男氏の著書『漢字と日本人』をとりあげます。
日本語の書き言葉の歴史を解説しているのですが、中国から漢語を輸入したことによって元々あった日本語「やまとことば」の発展が止まってしまったことも説いています。
(以下、「中国」で書いていきます。歴史の区分によって名前…というか国…が変わってめんどうだからです。ちなみに高島俊男氏は『「支那」はわるいことばだろうか』というエッセイを書いているそうです。)
本書にこんな一節があります。
〈漢字を、その意味によって直接日本語でよむことにした。たとえば「山」という字、これを音(おん)でサン(あるいはセン)とよんでいたのであるが、この字のさすものは日本語の「やま」に相当することあきらかであるから、この「山」という漢字を直接「やま」とよむことにしたのである。これは相当奇抜な所業であり、また一大飛躍であった。 〉

「相当奇抜な所業」「一大飛躍」
はて、そうだろうか? と思ってしまいませんか?
「山」が「やま」なのはあたりまえじゃないか、と。
でも、実はそうではない。「mountain」は英語、「山」は漢語、「やま」は元々の日本語で全て別な言語です。
「mountain」と書いて「やま」と読めといわれたら、日本語の破壊と思うでしょう。
しかし、漢語にやまとことばの読みを与えたことを今ではなんとも思っていません。
このような例は無数と言って良いほどあった。
やまとことばに漢字を当てて合体させることで、やまとことばは発展を止められてしまった。
漢語輸入後の日本ではやまとことばの単語は作られなくなり、世相の変化によって出てくる新しい事柄は漢語や漢字の組み合わせで当てられた。
これが、やまとことばの発展が止められたという意味なのです。

柳父章氏の『翻訳語成立事情』もおもしろかったのですが、『漢字と日本人』はエッセイ仕立てで読みやすい前半から、日本人の確信へ迫る後半にかけて内容が濃密で、まったく違う歴史や政治・経済のこと、日本の抱える問題と根っこでつながっているおもしろさがありました。
かなり突き刺さる感じもありましたけどね。

 ◯中CM

長谷川三千子氏の著書に「からごころ -日本精神の逆説—」があります。
その最初の方に、本居宣長の有名な一節が引用されています。
意味するところを少し広くとって現代風に要約すれば
中国の文化を好み尊び、中国のふりをすることが偉いことだという意識がある。その自覚があればまだマシで、自覚すらないまま「中国流」になってしまっている。ことの善し悪し(善惡是非)も、しかるべき秩序(當然理)も、自分で考えているつもりなだけで中国流から離れられない。
(中国流、つまり外来文化を)「人類普遍の原理」なりと信じて疑わないことが、知識人だけなく一般層に浸透してしまっている。まずは、その「人類普遍の原理」なるものを疑ってみることが必要だ。
しかし、みな中国流に染まっているため、自覚するのは非常に難しいのだ。
…ということでしょうか。
もちろん当時は清国で中国はありませんから、中国文化の総称として「漢国」と書かれています。

宣長の原文の締めくくりにある「いとかたきぞかし」は、中国流の原理(漢意=からごころ)から脱して日本流(やまとごころ)を貫くことが「非常に難しいのだ」という、必要だが無理かもしれないという嘆きにも似たことばなのですね。
長谷川三千子氏は、宣長のこのような思索が、日本人を考えぬいた結果日本人を逸脱した「逆説」と表現します。
本居宣長は、元々日本人に「外から来るものが優れている。日本のものは古くてダメだ」と考えてしまう性質があることを見抜いていたのではないでしょうか。
ゆえに、中国流から脱しようと日本を探求することが、日本人から逸脱することになる。

「逆説」とは、佐藤健志さん流に言えば「愛国のパラドックス」ですね。

 ◯Bパート

『漢字と日本人』に戻ります。
この本でも本居宣長の「からごころ」が引用されています。
長谷川氏の哲学面とは違った、語学面での見方が興味深い。
〈右の文(宣長の「からごころ」)、ほとんど和語ばかりで書かれている。当時の日本では(ことに男が書く文、学者の書く文としては)きわめてめずらしい文章である。〉
それでも「書」「千年」「地」など漢語も使われていることを述べて
〈漢字はかなりつかっている。つかっているのみならずたよっている。「よさあしさ」では意をつくせないから「善惡是非(よさあしさ)」としたのであり、「しかあるべきことわり」では意をつくせないから「當然理(しかあるべきことわり)」としたのである。和語のふりがなをつけてあるとは言え語意は漢語にたよっていると言わざるを得ない。〉

高島氏は、漢字を使うことを全否定しているわけではありません。
なるべく和語、やまとことばを使い、必要ならしっかり漢字を使えば良いと考えているからで、このこと自体が、宣長の言葉づかい、真意にかなっていると思います。

〈(ことに男が書く文、学者の書く文としては)きわめてめずらしい文章である。〉
この意味は、漢語を輸入して以来、漢字を使うことが立派なことであり、和語でかな書きするのは女子供や知識の低いものがやることだ、という意識が当時あったことを受けています。
なるほど、公文書は漢語で書かれていました。和語で書かれた『源氏物語』『枕草子』は女性の作で、『徒然草』は私的な体裁の随筆です。
小説や随筆として価値が認められてたとしても、外交文書や公文書のようなものとの格式の差は大きかったと思われます。

書き言葉において
行政や外交、複雑な概念をやりとりするには日本人同士でさえ漢語でなければ行えなくなりました。
十世紀くらいには、日本語は日常的なところでしか通用しない現地語になってしまったのでしょう。

 _ _ _

外来文化を尊び日本文化を見くだしたのは千数百年前の特異な意識でしょうか?
そんなことはありません。
江戸時代に本居宣長や平田篤胤などによって国学が栄え、中国由来のものを排除する意識が高まります。
その頃、西欧の見たこともない新しい先進的な文化に触れていたのです。
すばらしいと感嘆するのと同時に強い脅威を感じました。
これを取り入れて、いずれは対等にならねば、と考えたのです。

明治初期の国語改革で急進的な人物、森有礼氏は言語だけなく人種も変えるべきと考え、〈日本の優秀な青年たちはアメリカへ行って、アメリカの女性と結婚して連れ帰り、体質、頭脳ともに優秀な後代を産ませよ〉とまで主張していたそうです。
西欧の脅威に対しかなり異様な精神状態だったのかもしれませんが、日本は劣っていて外国が優れているという「普遍の原理」観が根強く表れています。

本メルマガでもおなじみ施光恒さんの『英語化は愚民化』では英語化政策について、更に詳しく紹介されています。

明治には文化全般に対しても急進的な改革が進められます。
漢字の廃止…中国発祥の文化否定
廃仏毀釈…中国伝来の宗教否定
城の破却…中国由来の儒教を根拠とした封建制度の否定
西欧憲法の導入…中国由来の律令の否定
などです。
神仏分離は徹底的に進められました。江戸以降の城は火災や戦時の空襲より明治期の取壊しが圧倒的に多かった。
漢字廃止では、かな化やローマ字化、新国字の開発などが唱えられました。
しかし、漢字の廃止は明治期には実現せず、西欧文化を取り込むために漢字を利用する方向へ動いたのです。
あくまで中国の漢字であって、新しいやまとことばを作る発想はありませんでした。

〈現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養のある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。これら新日本人の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。〉
かなり衝撃的な話ですが、いかが思われますか?
「現代の日本人」というのは戦後の偏った反日知識人たちのことでしょうか。
話を聞いたのはドイツ帝国の医師エルヴィン・フォン・ベルツで、これは明治九年十月二十五日の日記、とのことです。

戦後
漢字廃止運動が再び持ちだされます。
志賀直哉は〈「森有禮の考へた事を今こそ實現してはどうか」〉と手記を発表しています。
占領政策を進めるGHQの猛風に乗っかり、敗戦ショックを受けた日本人の意志で進められたのです。
中国の簡体字のような発想で簡略化されて使える漢字も減らされ、かな・カナ、ローマ字へと、英語に近づける音標文字化も再浮上しました。

高島氏は当用漢字での簡略化や選定のいい加減さに憤慨しています。
当用の意味は「さしあたって用いること」ですから、当用漢字が漢字廃止の第一歩としてとりあえず行われたものにすぎず、いい加減なものだったわけです。
高島氏は、簡略化した漢字は意味が変わってしまい、過去の日本との分断が生じたといいます。

昭和二十年十一月十二日の読売新聞の社説が紹介されています。一部を抜き出すとこうです。
〈漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきとしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。〉
と書き、アメリカ式でもって「文化國家」「民主政治」が成されると説きます。
日本を火の海にしたアメリカですが、強くて自由な文化を持っています。
これを取り入れ、いずれは対等にならねば、と考えたのです。

しかし、戦後の漢字廃止運動は、この時すでに日本語として定着していたためにあまりにも不合理で完遂されず中途半端なまま現在に至っています。

 _ _ _

このようにみていくと、千数百年前から現在に至るまで、日本人は繰り返し外来文化に飛びついては自国の文化を破壊してきたことがわかります。これを進化と捉えるのはかなり無理があるでしょう。

漢字の輸入、やまとことばの軽視、漢字が持つ語意の無視、漢字の廃止、翻訳語の大量作成、欧米語のカナ書き、英語公用語化…
それがそもそも何なのか、という自覚もなく外来のものを普遍化し「良いものだ」と信じてしまう。
高島氏の言葉を借りれば「真理は外からやって来る」、と考えがちなのです。
近年のグローバリズムとの関係で「英語公用語化問題」として顕在化していますが、そもそも「漢語公用語化」がその表れなのであり、日本人自身が古来からもっている性質の表れなのでしょう。

とはいえ、漢字は長きにわたって使われ、日本に合わせて改造し(正確には歪めて)、土着語化しています。
ベトナムなど漢字を廃止して外来の公用語と母国語とが分離した国と違い、日本は日本語として土着化し統一したため欧米と並ぶ近代化を成していることは否定できません。
しかし、「日本語は素晴らしい」と誇る前に、日本語の書き文字は全て漢語由来であることを自覚しないといけないでしょう。
書き言葉と話し言葉は相互に影響しあって変化しています。
元々の日本語、やまとことばは漢字を取り入れることで千数百年前に置き去りになったのです。
ただ、そうしなければ細々とはいえ、やまとことばは受け継がれなかったかもしれません。

もしかすると、日本が漢語を土着化せずそのまま取り入れて親戚関係を濃くしていたら、欧州のように戦争が絶えなかったかもしれません。
あるいは、日本がたとえば神代文字のような全く独自な書き言葉を開発していたら、外国の良いものを取り入れられずに発展途上国のままだったか中国あたりに吸収されていたかもしれません。
結果的には絶妙なバランスを保っていると言えますが、それはロープ一本のような心細い道の上だと思えます。

良いものは取り入れれば良いのですが、本居宣長が言うように文化は国によってそれぞれで、取り入れれば良いってものではありませんし、取り入れることによって成長し他国と対等になれるとは限りません。
取り入れて、いずれ対等に、という考えが実際には足元から日本を破壊しているかもしれないのです。

 ◯エンディング

おもろしいことに、日本を肯定しようとすると外来文化のおかげに気付かざるを得ず、日本を批判的に見ようとすると内面の日本らしさを発見することになるようです。
日本の政治に「場当たり的」という批判がよくありますが、予測不可能な自然災害には場当たり的対処にならざるを得ない面が多々あり、場当たりは日本らしさとも言えます。
しかし、間違った場当たり的対処をしないよう、過去とのつながりを維持、自覚しなければならないのだと思います。
本居宣長の逆説的な思索そのもの、パラドックスを抱え続けることが日本らしさなのでしょう。

最後に『漢字と日本人』のあとがきの一節を紹介します。

〈わたしの考えは、まず第一に、漢字と日本語とはあまりにも性質が違うためにどうしてもしっくりこないのであるが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくほかない、ということ。第二に、われわれのよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏(愚か)であろうと、とにかく過去の日本との通路を断つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである。〉

最近は「戦後レジームからの脱却」に疑問が生まれています。
過去をかえりみるほど、そうなのです。
何を「脱却」し、脱却した後どうするのか。そもそも必要なのは「脱却」なのか。
・・・まさか、自ら「日本という汚れた衣を脱ぎ捨て」ってことじゃないでしょうね?
都合の悪い過去を否定して新しい何かを期待する感情に突き動かされるとしたら、中国の易姓革命と変わりません。
為政者が将来像を設計し国民を引っ張っていく西欧的な概念と違って、民を第一に、民をよく見てまつりごとを行うのが日本の伝統なら、国民が政治・政治家・政治政党に期待し頼るのはおかしな話ではないでしょうか。

「善惡是非」や「當然理」を考えることは、やまとごころを受け継ぐ細い細い道を探すこと。
これ以上痩せ細らせて、道を絶たないためにも
日本国民、わたしたち自身に、その道が「いとかたきぞかし」と思い知らさねばならないのでしょう。

 ◯後CM 1

自ら「日本という汚れた衣を脱ぎ捨て」続ける日本の姿を描いています。
アニメ(ーター)見本市第22話 「イブセキ ヨルニ」
原作:さかき漣「顔のない独裁者」、監督:平松禎史
http://animatorexpo.com/ibusekiyoruni/

 ◯後CM 2

高島俊男『漢字と日本人』文春文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4166601989

**** メルマガ発行者よりおすすめ ****

●●月刊三橋メンバーより

月刊三橋の今月号のテーマは、「大東亜戦争の研究〜教科書が教えないリアルな歴史」です。
http://youtu.be/cx6gcrylFvc

「知らないことは怖いこと」by midoriさま

”これだけ憲法9条のことで騒がれている中で、
それがアメリカから与えられたものだということを
知っている人がどのくらいいるのか疑問に思いました。

また、報道の事後修正などの話などを聞いているうちに
身近なところで起きていることと結びついてきた気がします。”

「検閲について」by 鹿沼 伸さま
”今回の海洋国家日本という視点から、米国と衝突せざるを
得なかったという流れるような解説大変ためになりました。

特に、GHQが事後検閲をすることにより国民がどこが
修正されたかわからず、現在の放送禁止用語などのような、
我々の与り知らないところで洗脳が行われている、
といった冷静に考えれば空恐ろしい状況が良く理解でしました。

近年はインターネットの発達によるブログなどで、
個人の意見をどんどん出せる時勢になってきました。
この変化を賢く取り入れたいと思います。”

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【平松禎史】霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第十六話への3件のコメント

  1. ソウルメイト より

    大変、示唆に富む考察だと思います。ご指摘の通り、日本人は、何度も、外来の圧倒的とも言えるような文明や文化との衝撃的とも言えるような出会いをししましたが、基本的には、それを受け入れることに柔軟で、熱心でさえあった、と言っていいのではないでしょうか?しかし、日本人は、外来の文明や文化を受け入れるにしても、日本人自身の感性に合わせてアレンジし、カスタマイズしてきたことも事実でしょう。それを許したのは、大石久和さんが「国土が日本人の謎を解く」の中で書いておられるように、大文明の発祥の地から、適度に海によって隔てられていたからだとも考えられると思います。ところが今日、飛行機などの交通手段と情報、通信技術の飛躍的発達によって、いままでのような隔離環境が無効化されてしまっているわけで、日本人を適度に保護してくれるものは、もはや存在しないと観念すべきなのかもしれませんね。巨視的にこのことが日本人をどのように変えてしまうのか、まったく予断を許さないと思いますが、人間には、簡単に変えてしまえるものもあればそうでないものもあって、案外、日本人は、日本人であることをそう簡単にはやめられないのではないかとも思ったりもします。なにしろ、国土や気象条件なんてものは、変わらないわけで、それがもたらす基本的生存条件なんてものと日本人は無関係であることなんてできないでしょうから。むしろ、日本人が否応なくその下で生きていくしかない生存条件を忘れて、生存条件の異なる他国や他民族の生き方を無思慮にも真似てしまうことは、大いなる災厄をもたらすのではないかと思ったりもします。

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  2. あまき より

    _「原文のまま新聞雑誌には」〇「原文のまま載せてくれない新聞雑誌には」「載せてくれない」が抜け落ちました。

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  3. あまき より

    しかしながら、志賀直哉はこのようにも書いています。「国語を改革する必要は皆が認めてゐるところで、最近その研究会が出来、私は発起人になつたが、今までの国語を残し、それを造り変へて完全なものにするといふ事には私は悲観的である。不徹底なものしか出来ないと思ふ。名案があるのだらうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに余り期待を持つことは出来ない」「私は近頃益々日本文の不完全を痛感するが、新仮名づかひと漢字制限の文章はそれよりも遥かに厭はしいものに思つてゐる。私は今後、原文のまま新聞雑誌には書かぬ事にする」小林秀雄、福田恒存に影響を与え、文士風情がお嫌いだった先帝陛下も親しまれた小説の神様、そして鴎外に次ぐ国語の神様だった、学者ではない一小説家の混乱と絶望とを、もう少し深刻に受け止める必要があるのではないでしょうか。

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