From 藤井聡@京都大学大学院教授
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今、大阪橋下市長の辞職と、再選挙という、いわゆる「出直し選挙」が報道されています。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140207/elc14020712210002-n1.htm
報道によりますと、橋下市長は、地方議会が設置した協議会(法定協)が下した、とある政策判断(大阪都構想についての判断)について不満を持っておられる様です。そして、その政策判断を無効化すると共に、再度、その政策判断をやり直す事を目指した「状況打開策」として、「出直し選挙」を「シングルイシュー」(都構想に対する民意を問うためという単一目的)で行おうとしておられます。
今回の橋下氏の対応について、その強引さを指摘する論調も多数見受けられる様ですが、その理由については、必ずしも十分に論じられていないように思われます。
これは、日本の世論において「選挙」というものが一体何であるのか、という事がほとんど適切に理解されていない…. という、社会状況を指し示す現象ではないかと思われます。
ついてはここでは、(今回の件の是非はさておき)「シングルイシューの出直し選挙」というものそれ自身について、お話したいと思います。。
まず「出直し選挙」(市長が任期中に辞職し、その直後の選挙に再び打って出る、という選挙)というものは、かつては公職選挙法では禁止されていた行為でした。
そもそも公職選挙法が十分に整備されていない時代には、この「出直し選挙」が、選挙や議会運営等を有利に運ぼうとする現役市長によって多数行われていた様です。しかし、それを野放しにするということは、現役市長の横暴を野放しにするに等しいのではないか、という趣旨で問題視され、一端禁止されたようです。
ですが、その後、この出直し選挙の「信任選挙」としての意義が認められるようになり、やはり認められるようになったのでした(ただし、その場合現役市長が再選しても、任期は、もとの任期のままになる、というルールが付与されました)。
しかし、この「出直し選挙」という方法、あるいは手口は、選挙とはそもそも何なのか……と言う政治哲学的な常識に基づいて考えると、許してはならない暴挙なのではないか….としばしば議論されています。以下、その議論の論点をまとめてみましょう。
第一に、そもそも、市長選挙とは、その市の政治機構の長としてふさわしい「人物を選定する」ものです。そして、選定された市長は、その政治機構の長として、様々な「行政上の判断やその執行」という「責務」を負います。したがって、「辞職」という行為は、その「責務」を「放棄」することを意味します。
したがってその責務を一端放棄した人物は、その責務を負う立場に戻る「資格」は、少なくとも当面の間は、道義的には持たない、と考えるのが、一般的な社会通念です。
例えば、一国の首相が、(不信任を他者から言い渡されてはいないにも関わらず)、事情や政治戦略のためだけに「辞任」をした場合、少なくとも当面の間は、首相の座に戻ることは認められない、つまり、辞職直後に選挙に打って出る「出直し選挙」はあり得ない、と考えるのは、常識の範疇です(もちろん、具体例を挙げるまでも無く、「出直し選挙」ではなく、一定期間が経過して状況が変わった後であれば、再度首相に戻ることは当然あり得るところです)。
つまり、公職選挙法で「出直し選挙」が認められているということそれ自体が、道義的に言って、「非常識」なのです。
第二に、上述の様に、辞任は市長としての責務の放棄であり、前回選挙で現役市長に投票した市民からの信任の裏切り、という側面を持ちます。つまり、一端辞職することで、市民にとっては、辞任者は一面において「裏切り者」となるわけです。
だからこそ、上述の様に、再選挙する資格は持たないのですが、出直し選挙は、その裏切り者が選挙に出ることを意味しています。このことは、出直し選挙に臨む市長は、「市民は、この裏切り行為に気付かずに、自分に投票することもあるだろう」と認識していることになります。
これは、言うまでも無く、選挙人である市民に対する愚弄行為であると解釈することができます(つまりそれは、「唾を顔に吐きかけたけど、コイツはバカだから、怒らないだろう」という考えと基本構造を共有しています)
さらに言いますと、出直し選挙に打って出るという「裏切り」的側面を持つ行為は、「選挙とは、選挙人と被選挙人との間で信任・信頼関係を取り結ぶ行為である」という、選挙という崇高なる行事の基本前提それ自身に対する「冒涜」を意味してもいます。
したがって、選挙そのものを冒涜する者は、道義的に言うならば、被選挙権を持つ資格がないと言うことができます。(さらに言うと、それに気付かない有権者は、道義的に言えば、本来選挙権を持つことなどできない、と解釈することもできます)。そしてそれは、そんな出直し選挙を許容している公職選挙法の条項は、道義的には承服しがたいものだと解釈することもできるでしょう。
第三に、「議会での判断」(今回の場合は、議会に選定された法定協での判断)が認められない、という、政治戦略上の理由で、出直し選挙を図るという態度は、徹底的な議会軽視と解釈することもできます。これは、議会議員に投票した市民に対する冒涜行為に他なりません。
この方法論は、元首相である小泉氏が、世に言う「郵政解散・郵政選挙」において行った手法ですが、そもそも、この小泉氏の方法論が(仮に禁止された行為でなかったとしても)、徹底的な、国民の代表である議会に対する軽視であり、したがって、国民に対する愚弄行為(さらに言うと、議会における“議論”という者に対する愚弄行為)そのものであったわけです。
第四に、そうした「郵政選挙」、あるいは、今回の大阪都構想の民意を知るためという触れ込みの「シングルイシュー選挙」は、これもまた、法律的には禁止された事項ではありませんが、道義的に考えれば、本来的にあるべき、正当な選挙というものから完全に逸脱したものであると言わねばなりません。
そもそも、市長選挙というものは、(様々な行政上の判断とその執行を執り行う)「市の政治機構の長を決める選挙」であり、シングルイシューに対する民意を問うためのものでは断じてないのです。
つまり、選挙とはそもそも、政策を決めるものなのではなく、人物を決めるものなのです。政策を決めるのは、あくまでも、人物と人物が織りなす「議論」なのです。
これこそが、議会制民主政治の基本中の基本です。そして、「シングルイシュー」の「出直し選挙」は、こうした議会制民主政治の基本中の基本に対する理解が、まったく欠落した暴挙である疑義が濃厚なわけです。
そして、そうした議論が、少なくとも世論において十分に展開されていないということは、今日の日本社会の道義性が著しく衰弱していることを含意しているのかも。。。。しれません。
・・・
とはいえ、「シングルイシューの出直し選挙」を禁止したり、取り締まる法律は、今の日本にはありません。
そもそもここで記載した議論は全て、所詮、「道義上の議論」にしか過ぎません。全く法的な拘束力のない議論です。
・・・・
しかしそれでもなお、道義を無くした人間は、定義上、人間ではない、と言わねばなりません。
(※ ただし大変に残念な事に、道義の議論は、道義無き人々には、永遠に理解されることはありません。したがって、道義無き人々との間の道義を巡る議論ほどに、空疎で空しい徒労はない──という点は申し添えておきたいと思います)
。。。というようなことも踏まえつつ、是非皆さんも一体何が道義なのか。。。。。是非一度、お考えになってみてください(当方も、引き続き、あれこれと考えて参りたいと思います)。
では、また来週。
PS
道義を考えれない存在は、哲学的には「大衆」とも呼ばれます。そんな大衆にどんな処方箋があるのか。。。。ご関心の方は是非、下記にお越し下さい。
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【藤井聡】「出直し選挙」に道義はあるのか?への8件のコメント
2014年2月11日 12:37 PM
>しかしそれでもなお、道義を無くした人間は、定義上、人間ではない、と言わねばなりません。人間ではなくても当選できるのだからこの世の中は人間ではない人が多いんですね:p大衆は馬鹿、と言いたい気持ちはわかりますが大衆に含まれる個人には馬鹿は少ないのです。ある人を選ぶか否かの理由に道義が最優先されることはありません。(まぁ市議会議員の道義は結構問題視されていますが)この文章こそが有権者の大半を馬鹿にし、自分の格を落とす物だとご認識ください。
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2014年2月12日 12:39 PM
>そもそも、市長としての責務は大阪都構想の>是非を決めるだけではなく、様々な多くの執>り決めも任されてるはずです。>その仕事を途中で投げ出すことは、やはり良>くない事です。(橋下市長がよく言う税金の無>駄遣いですね)>そんな良くない事をしてでも「それに敵う良>いこと」が「辞職による出直し選挙」で得ら>れるかどうかが判断の分かれ目ではないで>しょうか。>今回の出直し選挙は、税金の無駄であると思>い>ます。 「責務の放棄」問題に直接接点のある箇所にコメントをつけるのを忘れていました。 と言っても、特に異論があるわけではありません。 私も、「出直し選挙」の裁量権を濫用することで、みだりに政務を停滞させることがあるとすれば、それは(どちらかといえば)「よくない」とは思います。 「出直し選挙」の是非は、デメリットとメリットを比較考量して論じるべきだ、というのもその通りだと思います。 ただ、この立場は、「辞任即欠格、故に出直し選挙は不当」と断じ、考量の余地を一切認めない(と言わざるを得ない)、本文の執筆者のそれとは大きな開きがあるように思われます。
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2014年2月13日 1:05 AM
速やかな応答、有難うございます。>確かに権力基盤の強化を狙った出直し選>挙が全て問題があるかどうかは判断出来>ません。この点が確認できれば、私としては、十分です。私の意図は、別段、橋下市長を擁護することにはありません。ただ、本文中、「原理に照らし、橋下氏の言動の不当を指弾する」と称して掲げられた「原理」について、一部に若干の問題を感じたので、質問させていただいた次第です。>これでは基盤の強化はできないでしょ>う。>市長選挙をやったところで議会のメン>バーは変わらないのです。もっとも、この点については、まだ確かなことは言えません。(本文中でも言及されている)、過ぐる2005年の七条解散とそれに続く衆院総選挙の結果、参議院もまた、その構成を変ずることなくして小泉首相(当時)に屈した、という歴史的故事もあります。
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2014年2月14日 7:26 AM
確かに権力基盤の強化を狙った出直し選挙が全て問題があるかどうかは判断出来ません。一部の腐りきった既得権益者のために多くの国民が犠牲になっているケースもあります。そのような場合には良いのかもしれません。(当たり障りのない言葉で申し訳ありません)しかし、今回の橋下大阪市長の出直し選挙は良くないケースだと判断出来ます。何故なら、彼が辞職する前からすでに公明党などの反対派議員を敵に回すような発言をしているからです。これでは基盤の強化はできないでしょう。市長選挙をやったところで議会のメンバーは変わらないのです。もし本当に多くの市民が喜ぶべき政策が大阪都構想であるならば、「選挙」ではなく「議論による説得」が市長としての本当の責務だったのではないでしょうか。そして市民にも都構想の説明をし、来るべき議員選挙で賛成派議員が議会の多数を占めるようになって、初めて市長としての責務を果たしたことになるのではないでしょうか。そもそも、市長としての責務は大阪都構想の是非を決めるだけではなく、様々な多くの執り決めも任されてるはずです。その仕事を途中で投げ出すことは、やはり良くない事です。(橋下市長がよく言う税金の無駄遣いですね)そんな良くない事をしてでも「それに敵う良いこと」が「辞職による出直し選挙」で得られるかどうかが判断の分かれ目ではないでしょうか。今回の出直し選挙は、税金の無駄であると思います。
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2014年2月16日 6:16 AM
>?市長は様々な責務(責任と義務)を負います>?「辞職する」=「責務を放棄する」なので「辞職をしない」ことが責務に含>まれるのならば、市長は「辞職をする」ことは不可能ということになります。>?よって市長には辞職をする自由はあります。だから辞職が出来るのです。つ>まり「辞職をしない」は責務に含まれません私が漠として感じた違和感を明確に分節化していただき、有難うございます。>ここでは「責務」よりも個人の自由である「辞職」を優先していることが問>題なのです。>言葉を言い換えると「個人的自由」を達成するために「辞職(責務を放棄す>る)」ということです。藤井先生の本意も、おそらくは、その辺りにありましょう。だとしたら、件の「したがって」は「しかるに」に読みかえるべきかも知れません。確信は持てませんが。ともあれ、市長に辞職の自由(ほんとうは、「裁量権」と言いたいところですが)の存する件、確認されました。そこで、次にお聞きしたいことがあります。上の投稿では、「辞職する」=「責務を放棄する」と事もなげに等号で結ばれております。しかし、「辞職」が、実態として「出なおし選挙」(を通じた権力基盤の強化)を前提とした手続としてある場合は、どうでしょう。これを(個人の恣意にもとづく)「責務の放棄」にあたるというのは、内実に即して少し無理がありませんか。
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2014年2月16日 8:41 AM
?市長は様々な責務(責任と義務)を負います?「辞職する」=「責務を放棄する」なので「辞職をしない」ことが責務に含まれるのならば、市長は「辞職をする」ことは不可能ということになります。?よって市長には辞職をする自由はあります。だから辞職が出来るのです。つまり「辞職をしない」は責務に含まれません。ここでは「責務」よりも個人の自由である「辞職」を優先していることが問題なのです。言葉を言い換えると「個人的自由」を達成するために「辞職(責務を放棄する)」ということです。しかし、このような厳密なルールの確認よりも、自分の都合で仕事を途中で放棄すること自体が不徳であるという考え方で良いと思います。ルールや法律は所詮人が作ったものなので不備は付き物です。ルールさえ守っていれば人は聖人や賢者になれる訳ではありません。だからこそ我々有権者は常識的な感覚で人の行動が良いものであるかどうか判断するべきではないでしょうか?
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2014年2月17日 4:46 AM
>そして、選定された市長は、その政治機構の長として、様々な「行政上の判断>やその執行」という「責務」を負います。したがって、「辞職」という行為>は、その「責務」を「放棄」することを意味します。「したがって」の前と後とのつながりが、よくわからない。 「任期中に辞職しない」ということが、「行政上の判断やその執行」という「責務」に含まれるのか否かが、証明されていません。
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2014年2月17日 11:47 PM
藤井先生の「大衆社会の処方箋」を読み始めたところで、今回の出直し市長選挙のニュースに接し、久方ぶりに橋下氏のことを思い出しました。大衆社会の処方箋に書かれている、傲慢性・自己閉鎖性を特徴とする大衆にぴったり、こんなに典型的な事例はめったにないじゃん!と、面白かったです。
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