From 佐藤健志
財政政策と関連して、よく用いられる言葉に〈ワイズ・スペンディング〉があります。
訳せば「賢くカネを使う」ですが、
要するに不況対策で財政出動するときは、将来的に利益や利便性をもたらすなど、
経済への刺激効果が大きい分野を選んでやるべし、という話。
ケインズの提唱した概念だそうです。
しかるに安全保障政策についても、
〈ワイズ・ファイティング〉の概念を想定できる。
要するに戦争をやらねばならないときは、最小限の人的・物的犠牲で、
国益や国家戦略が満たされるような戦い方を選んでやるべし、という話。
私の提唱した概念であります。
ワイズ・ファイティングは、ワイズ・スペンディングと比べても重要。
ワイズ・スペンディングに失敗したところで、起きることと言えば、政府の負債が膨らむぐらいです。
ご存じの通り、政府には通貨発行権がありますので、
1)国債が自国通貨建てで発行されている。
2)発行された国債(の大部分)が国内で消化されている。
の二条件が満たされるかぎり、まず致命的なことにはなりません。
トマス・ペインの名台詞ではありませんが、
「そもそも、国は負債を持つべきなのだ。(中略)
利子が雪だるま式にふくれあがって、首が回らなくなるというのでもないかぎり、憂慮すべき点はない」
というやつであります。
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ひきかえワイズ・ファイティングに失敗すると、まずは軍人、つづいて民間人の命が大量に失われる恐れが強い。
命はかけがえがありません。
それにどんな人間にも、家族をはじめ、大切な人がいる。
不必要に犠牲にするなど、許されるはずがないでしょう。
裏を返せば、〈戦わずして国益や国家戦略を満たす〉ことこそ、ワイズ・ファイティングの極意。
ただしこれは、いわゆる「不戦」や「非戦」とは異なります。
何があろうと戦いを拒否するのではなく、
〈賢く効率的な戦い方をきわめたあげく、戦わなくとも勝てる域に達する〉ことをめざすのですよ。
その意味では「不戦」「非戦」に一文字加えて、
「不戦勝」「非戦勝」を目標とするのがワイズ・ファイティング。
かりに相撲だったら、
「不戦勝なんてつまらない、白熱の取り組みが見たかったのに・・・」
という人も多いと思います。
しかし、事は戦争ですぞ。
やらずに勝つのが、断固としてベストなのです。
し・か・る・に。
いわゆる「昭和の戦争」、とくに太平洋戦争には、
ワイズ・ファイティングの概念に照らしても、シビアに反省しなければならない点がある。
かのインパール作戦をはじめとして、あの戦争におけるわが国の戦い方には
〈最小限の犠牲で国益や国家戦略を満たす〉どころか、
「国益や国家戦略の追求は表向きで、人命をとことん浪費することが真のテーマだったのではないか?」
と疑いたくなる事例が、遺憾ながら多々見られるのです。
政治学者の坂本多加雄さんも、『スクリーンの中の戦争』(文春新書)でこう述べました。
いわく。
私は、過剰に自国の過去を否定する論調には反対ですが、
かといって大東亜戦争を引き起こした大日本帝国の愚かさは、おおいに検証すべきだと思っています。
数百万の兵士が命を落としましたが、
その大部分は戦場での華々しい死ではなく、
じゅうぶんな補給を受けなかったための戦病死や餓死であったり、
輸送船で戦地に赴く途中でアメリカの潜水艦攻撃を受けた結果としての海没死なのですから。
(32ページ)
連合軍側にしてみれば
〈何か知らんが、あいつら勝手に死んでゆくぞ?!〉
と言いたくなるところがあったのでは。
ずばり、モロニック(バカ丸出し)・ファイティングです。
あの戦争を真に反省するというのであれば、大義の有無だの日本の加害者性だのを云々する前に、
どうにも愚かで非効率的な戦い方をしてしまったことを深く恥じねばなりません。
同時に押さえるべきは以下の二点。
1)どんな大義があったとしても、戦い方がモロニック・ファイティングでは話にならない。
2)逆にモロニック・ファイティングでボロ負けしたからといって、大義がなかったことの証明にはならない。
「大義の有無」と「戦い方の巧拙」は、全く別の話なのであります。
ところが私の知るかぎり、わが国では右も左も、こういう形の反省をまるでしようとしない!!
まず左は、モロニック・ファイティングでボロ負けしたことをもって、わが国に大義がなかった証拠と見なす。
ついでにワイズ・ファイティングなどありえないと思っているのか、
「何があろうと、とにかく戦争はダメ! 安全保障について考えるだけでもダメ!!」
という、ヒステリックな絶対平和主義に走りがち。
片や右は、わが国にも相応の大義があったことをもって、モロニック・ファイティングでボロ負けしたことを正当化しようとする。
当然、ワイズ・ファイティングの必要性など認識できませんから、
「特攻隊の若者は崇高だった! だいたい降伏して占領されようが、じつは戦争に勝っていたのだ!!」
という、ヒステリックな負け惜しみ的お国自慢に走りがち。
両者が対極にあるように見えて、同じメダルの裏表にすぎないことは、もはや明らかでしょう。
だ・か・ら、
『右の売国、左の亡国』と言うのですよ!
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そしてヒステリックで論理性を欠いた精神の持ち主が、追い詰められるとどうなるか?
そうです。
炎上するのです!!
そしてそのことで、自爆・自滅の道をたどる。
話にも何もなりゃしない。
『対論「炎上」日本のメカニズム』(文春新書)
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実際、エドマンド・バークも、フランス革命についてこう批判しました。
いわく。
支離滅裂なヒステリーとも呼ぶべき、かかる混乱のもとでは、
自然な秩序は完全に崩れており、あらゆる犯罪や愚行が一緒くたに繰り広げられている。
つまりはあれも、国家レベルの自滅的大炎上だったのです。
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今年は敗戦から72年となります。
8月15日には、例によって例のごとく「不戦の誓い」がなされました。
けれども、そろそろこれを「不戦勝の誓い」に変えてはどうでしょう?
具体的にはこういうこと。
1)昭和の戦争を、モロニック・ファイティングの観点から徹底的に反省する。
2)そのうえで、安全保障、および国家戦略の必要性をストレートに認める。
3)そしてワイズ・ファイティングの追求による、「不戦勝」「非戦勝」を国の目標とする。
これなら従来の平和主義的発想とも接点を持つ形で、安全保障をめぐる方針転換ができます。
戦っても負けたら何の意味もないし、戦わなくても勝てるのならそれに越したことはない。
ただし、戦わずして負けるしかないところまで追い込まれるのはサイテーだ。
この発想で行こうじゃないですか!
なお次週、9月6日はお休みします。
9月13日にまたお会いしましょう。
ではでは♪
<佐藤健志からのお知らせ>
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2)右も左も、自分だけがワイズなつもりで、モロニックの道を突き進んでゆくという、心温まる光景の構造を論じました。
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3)一度はワイズに見えた戦後日本が、モロニックへと転落していった過程の記録と、その構造をめぐる分析です。
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4)モロニックの道は、支離滅裂なヒステリーで敷き詰められている。そのようなヒステリーを封じるためにこそ、保守主義は生まれました。
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