From 平松禎史@アニメーター/演出家
◯オープニング
ボクは1984年の『ゴジラ』が公開される前に連続再上映された旧東宝特撮映画を大いに楽しんだ世代です。
一連の特撮映画を劇場で体験していなければ、アニメーター・演出家になろうとは思わなかったかもしれませんし、今でも劇場映画を作りたい欲求の多くはこの時の体験によります。
伊福部昭の音楽に惚れ込んだのもこの時の体験が大きいのです。
大学(自分は短大でしたが)のサークルの先輩が伊福部ファンで、映画音楽(効用音楽)だけでなく純音楽作品をたくさん聴かせてくれて、さらに深々とのめり込みました。
中でも管絃楽と独奏楽器の協奏作品が好きで、ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」、二十絃箏とオーケストラのための交響的「エグログ」、マリンバとオーケストラのための「ラウダ・コンチェルタータ」など。
特に「ラウダ・コンチェルタータ」が大好きです。
この曲を聴くと、祈り、祭祀、といったことばの原始的な姿が浮かんできます。
いずれの音楽も、リトミカ・オスティナータ…つまり同じ音型が執拗に繰り返す中で様々な状況の変化とそれに立ち向かう人々の魂が交錯する様子が伺える。ミニマル・ミュージックと似ていますが、もっと赤裸々で生々しいものです。
大自然と対峙する人間の姿あるいは人間(じんかん…人の住む世界、世間)そのものなのです。
第丗八話:「伊福部昭が示唆する国民性(ナショナリティ)」
◯Aパート
伊福部昭は、出雲地方の神職の家系に生まれ、父の代に北海道釧路に移住、音更村で育った。
そこでアイヌの文化に触れたことが伊福部の音楽の源流になっている。
アイヌと言えば縄文文化でしょう。
そして、出雲も縄文とのつながりが深い。
そう考えると、出雲の家系に生まれアイヌ文化に親しんだ伊福部昭の人生、その音楽は、は歴史的な奇跡に思えてしまいます。
大和朝廷が日本の支配的な地位を得る以前、出雲は西日本で支配的な位置にあったという。
『古事記』にある「国譲り」とは、出雲から大和への支配体制の移行を示しているとも考えられます。
また、沖縄文化はアイヌと共通性があると言われます。
柳田國男によれば、周縁の地に古い文化(ことばなど)が残っているそうで、南端の沖縄と北端の北海道には、古い縄文日本が残っている。
弥生人が九州北部から北上する時、当時海で隔たれ島だった出雲北部から島根(文字通り島の根っこだった)に縄文文化が残ったと考えても不思議はないかもしれません。
総合研究大学院大学と東京大学の研究では、列島全域に住んでいた縄文人に弥生人が渡来して九州北部から東北へと広がって、日本に人類学的な3分類が生じたのだそうだ。
http://news.mynavi.jp/news/2012/11/02/126/
長い歴史の中で混ざりあって偶然一体になった人類史的な原点が、血または魂のレベルで今でも残っているのでしょう。
音楽はそれを呼び覚ますのです。
伊福部昭が遺した音楽を聴いていると、理屈で言い表せない何かが湧いてきます。
血湧き肉躍るとはこのことか、と。
◯中CM
政治経済の話に振りましょう。
安倍総理は先の衆議院議員選挙で「国難突破解散」だと宣言しました。
これには強い違和感を持ちました。
総理が想定したのは北朝鮮危機です。
外敵による国家的災難から国民をあげて守ろう、そんな決意表明のつもりだったのでしょう。
日本は歴史上、このような事態に見舞われたのは、最近では大東亜戦争の時。
善し悪しはともかく、政局で争っている時ではないとして大政翼賛体制を構築した。
超党派による挙国一致体制の構築です。
さかのぼること650年。
鎌倉時代に文永弘安の役…元寇…がありました。
この頃、幕府と朝廷は内戦状態にあった。
1度目の襲来を防いだ幕府は、第二波が来ることを予測して、防衛体制を構築しようとした。
しかし、人的にも財政的にも疲弊していたため、朝廷に協力を仰ぎます。
内戦で戦っていた相手に助けを求めた。
朝廷は考えた挙句、協力することを決意。
傘下の東日本から資金や兵を募って博多湾や平戸に防塁を構築し、防御を固めた。
これも、超党派による挙国一致体制の構築でしょう。
結果、2度目の襲来も水際で防ぐことができました。
元軍が攻めあぐねて停泊中、あるいは撤退する途中で台風に襲われて壊滅状態になった。
日本側は自分たちの功を謙遜して「神風のおかげ」と伝えたのです。
「国難」に対処するとは、日本の伝統文化からいって、こういうことだと思う。
超長期デフレで「危機」にある国民に、選挙という政争で対立心を煽り立て分断するのは伝統的精神に反していると思う。
総理という立場の人間から国民意識というものがいかに希薄なっているか、「国難突破解散」ということばに違和感と脱力感を、地に足のついていない軽さを感じざるを得ませんでした。
◯Bパート
Aパートからの流れに戻しましょう。
理屈ではない、根っこの感覚を共有できる塊。
それを政治的なことばで言うと「国民」ということになるんだと思います。
中野剛志さんが仰っていましたが、”National”の訳語「国民」は宗教や民族で限定されることばではないそうです。
西洋近代において、様々な宗教、様々な民族が、共有できる約束事でまとまった枠組みのことを”National”「国民」というのだそうだ。
ヨーロッパやアメリカが「民主主義」「法の支配」で国家を形成したのがそれですね。
「国民」を根拠とした “ism” 「主義」を”Nationalism”…カタカナ語で「ナショナリズム」と言い、本来なら「国民主義」と訳すべきもの。
それ自体は善悪のないまっとうな意識であり姿勢です。
個々の人に換言すれば「個性」です。
個性が尊重されなければ、人々のまとまりも適切なものにはなりません。
個性を否定してまとめようとすれば独裁になります。
地球規模で言えば、ナショナリズムを尊重しなければ地球規模の独裁を招くことになる。
グローバリズムがそれですね。
グローバリズムには主導権争いがつきまとい、だれが支配権を持つかという争いが必ず起こります。19世紀末以降、激烈に起こってきたのは周知の通りだ。
グローバルに統一しようとすれば必ず諍いが起こる。
グローバル化を推進しようとする政治家は、そんな歴史の教訓を学んでいるんだろうか。
ナショナルな価値観を認めあうことが、平和と安定的成長への第一歩なのだと思う。
もう一度、伊福部昭に話を戻します。
彼のことばで大好きなのはこれ。(記憶ですが)
「真に国際的であろうとすれば、民族的であることから逃れることはできない」
(Wikiでは「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」とある。)
伊福部の言う「民族」とは、沖縄もアイヌも大和も包含した”National”…「日本国民」の文化のことだと思う。
アニメの世界では、海外向けを意識することを求められることがあります。
日本固有の文化は海外で受け入れられないからと、海外文化に合わせようとするのには大きな反発をおぼえます。
表面的に合わせようとするのではなく、私たちが根っから「良い」「おもしろい」「大切だ」と思えるものをこそ、海外に堂々と広めるべきなのです。
伊福部昭の音楽を聴くたびに、そんな律動(リトミカ・オスティナータ)が湧き起こるのです。
◯後CM
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スタイル社『平松禎史 Sketch Book』を刊行。
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【平松禎史】「霧につつまれたハリネズミのつぶやき」第丗八話への2件のコメント
2017年10月28日 8:51 AM
リトミカ・オスティナータ。なるほどそういうことか。共感を発露としないネオリベラリズムに邁進する我が国があの不思議な北朝鮮の「律動体操」をいつまで嗤っていられるかということですね。
「安倍自民を放置したままにしておくといずれ日本は北朝鮮のような国になる」。平松さんのきょうの論考を読むと適菜収さん年来の警告が誇張でも何でもないと改めて理解できる。
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2017年10月28日 10:48 AM
国難、、
国難とは 日本がいまだに 被占領国であり占領軍が駐留していること
国防とは アニメを例にとるなら 『沈黙の艦隊』における
海江田艦長の思想と その行為
国粋とは 自国の歴史 文化 伝統を 美しい自国語でもって語れること(自戒を込めて)
閑話休題
財務省の ご住所 霞が関3-1-1
さん いち いち ですか。。。
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