From 青木泰樹@経済学者
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2016年2月、日本銀行は史上初の「マイナス金利」を導入した。
今回、日銀が導入したマイナス金利とは、市中銀行が持っている日銀当座預金の一部の金利をマイナスにするというものだ。これまで年利0.1%の金利がついていた日銀当座預金だったが、逆に年0.1%の金利を支払う(手数料を取られる)ことになる。
当然、銀行の収益を圧迫する要因となるのだが、その狙いはどこにあるのか。また、狙いどおりに事が運ぶのか。
三橋貴明は「家計と銀行の負担が増え、国債の金利が今以上に下がるだけ」と断じる。また、「円高はいっそう進むだろう」と予測する。
その根拠は? 今後への影響は?
そもそも「マイナス金利」政策を正当化する理論自体に問題があり、その奥にはお決まりのいわゆる「国の借金問題」があるという。
マイナス金利の解説からその影響、導入の背景、さらには経済成長の問題、そしてアメリカ大統領選挙にまでつながっていく一連のストーリーを、三橋貴明が詳述する。
『月刊三橋』最新号
「マイナス金利の嘘〜マスコミが報じない緊縮財政という本当の大問題」
http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_D_1980/index_mag.php
このテーマが聞けるのは4/9まで
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新年度入りを機に、新たな目標を立てたられた方も多いと思います。
個人の場合は如何なる目標を立てようと問題は生じませんが、政権の掲げる経済目標は国民生活に甚大なる影響を及ぼしますから、設定に際して充分な思慮が求められます。
経済政策の立案は、特定の経済思想なり経済学説の選択を意味するため(政策立案には理屈が必要であり、その理屈を提供するのが思想や学説だからです)、結果的に選択した思想や学説の描く「理想の社会像」が「政府の目標」となってしまうのです。
それゆえ、充分な吟味を経ずして政府の目標と化した経済思想(学説)は、往々にして国民生活を脅(おびや)かすことになります。
たとえば、個人の家計と政府の財政を同一視する素朴な財政均衡主義に立脚し、「2020年までにプライマリー赤字の解消を!」とする目標を掲げた結果、財政運営が自縄自縛におちいり、デフレ脱却前にも関わらず緊縮財政路線をとっている現状がそれに当たります。
「財政が均衡した社会」を目指すために増税と歳出カットを実行し、「現水準より経済規模が縮小した社会(所得の減った社会)」に向かおうとしているのですから、多くの国民にとってはたまったものではありません。
まさに「角を矯(た)めて、牛を殺す」所業です。
さて、本日は「労働生産性の向上」という政府目標についてお話しします。
「労働生産性を向上させることは良いことだ。異論の生じる余地はない」と誰もが思うでしょう。
しかし、労働生産性を向上させる「手段(方法)」が経済学説によって異なるとしたらどうでしょう(実際そうなのです)。
学説の選択によっては、生産性の向上を目指すことが国民経済にマイナスになることもあるのです。
特に「供給側の経済学」に「構造改革論」を加味した経済観、いわゆる主流派論理に基づいて労働生産性を向上させようとすると国民経済は不安定化し、国家の安全保障さえ脅かすことを今回は指摘したいと思います。
本年3月4日に開催された第4回「未来投資に向けた官民対話」において、安倍総理は「2020年までにサービス産業の生産性を現状の2倍にすることを目標とする」と表明しました。
「日本経済の長期停滞は生産性の低さが原因と分析、GDP600兆円目標へテコ入れが急務」と判断した結果であると報じられています。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H5Q_T00C16A3MM8000/
「失われた20年」の原因を生産性の低さに求めるという政府の認識は大いに疑問ですが(それはひとまず置くとして)、確かに日本の労働生産性が主要先進7か国中で最低であることはよく耳にするところです(たとえば、下記の日本生産性本部「日本の生産性の動向2015年版」参照)。
http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2015_press.pdf
この資料によれば、日本の労働生産性が米国に対して製造業で7割、サービス業で5割の水準にとどまっていることがわかります。
また、そこで引用されている経済協力開発機構(OECD)のデータによれば、「一人当たりの労働生産性」はギリシャの方が日本より高いことが示されております。
数字だけ見ますと「日本はこれほど労働生産性が低いのか」と嘆息しそうですが、そうではありません。
実は、労働生産性の数字をあまり気にする必要はないのです。
そのことを理解するために、先ず労働生産性の定義から考えていきましょう。
一般に労働生産性は「GDP_労働投入量(労働者数_労働時間)」と定義されます。
物価変動の影響を考慮するかしないかで実質労働生産性と名目労働生産性に区分され、また上の式のGDPを付加価値総額としたものが付加価値労働生産性です(ただし、ここでは細かいことにこだわる必要はありません)。
労働生産性という指標のもつ意義は、「効率(性)の比較」にあります。
効率の程度を、国家間、産業間、企業間もしくは期間毎に量的に比較するための指標です。
問題は、ミクロ(個別的企業)の効率性も、マクロ(経済全体)のそれも同一の労働生産性という指標で測られることです。
そこからミクロの労働生産性を向上させていけば、マクロの生産性も向上するという誤解が生じているのですが、その誤りについては後述します。
さて、どうすれば労働生産性を向上させられるでしょうか。
形式的に考えれば、定義(GDP/労働投入量)から明らかなように、分母(労働投入量)を減らすか、分子(GDP)を増やせばよいのです(もちろん、同時でも可)。
すなわち労働時間(もしくは雇用量)を減らすか、経済成長(GDPの増加)を促すかです。
最近、企業(ミクロ)レベルで労働生産性を向上させる試みについての報道を見ました。
総合スーパー各社が早朝深夜の営業時間の短縮を図る、また大手食品メーカーが春闘に際して基本給を変えずに所定労働時間を20分短縮することで効率重視に転ずるといった内容でした。
http://www.nikkei.com/article/DGXKASDZ16I4G_W6A310C1EA2000/
http://www.nikkei.com/article/DGXKASDZ24HWE_U6A220C1MM8000/
いずれも分母を減らす試みです。
私も以前のコラムでコンビニ本部を念頭に、「サービス業の労働生産性を上げたければ、相対的に売上の低い深夜などの労働投入時間を減らせばよいだけの話です。少しでも利益が出れば、店を開けておこうという経営姿勢が労働生産性を下げているのです」と指摘しましたが、この方向に沿う動きといえます。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/aoki/page/21/
確かに、分母(労働投入量)を減らす戦略は企業レベルでは労働生産性の向上につながるでしょうが、国民経済(マクロ)レベルではどうでしょう。
日本より労働生産性の上回るギリシャを例に考えてみましょう。
実は、ギリシャは分母を減らす政策、すなわちプライマリー赤字解消のための歳出削減策を欧州委員会(EU)や欧州中央銀行(ECB)等から強制され、実施しました。
この財政緊縮策によって大量の失業者が生まれました。
結果的にプライマリー黒字は達成しましたが、平均失業率は26%(若年層失業率に至っては60%)に上り、財政破綻寸前までいったことは記憶に新しいと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/aoki/page/9/
なんのことはない、GDPの減少率以上に労働投入量が減ったために労働生産性が上がっただけのことなのです。
マクロレベルで分母を減らして生産性向上を図ることは国民にとって厳しいですね。
ミクロの延長線上にマクロの真理は無いのです。
やはり分子を増やす(経済成長)ほうが良さそうです。
それでは、どうすれば経済は成長できるのでしょう。
そこに顔を出すのが経済学説(思想)です。
現代の主流派経済学は新古典派理論から派生した「供給側の経済学」であり、それは字義通り、供給要因によって経済規模(GDP)は決まるという考え方です。
「アウトプット(産出)を決めるのは、インプット(投入)だ」と。
この経済観を経済成長に当てはめたのが、「成長会計」です。
成長会計は、人口増加、資本蓄積、技術進歩といった供給要因によってのみ経済は成長するという考え方を指し、ほとんどの経済学者やエコノミストはこの立場を保持しています。
その枠組みの中で、労働生産性を向上させる主たる要因は技術進歩率に帰着されます(理論的には資本装備率が上昇した場合も向上しますが、説明が長くなるのでここでは省略します)。
マクロレベルで技術進歩を測る指標として用いられるのが「全要素生産性(TFP)」であり、成長会計では、「TFPの上昇率」を技術進歩率と考えます。
以前指摘したように、TFPは現実GDPが決まり、諸資源の投入量が決まった後に事後的に算出されるものです(成長率から諸資源の寄与度を引いた残りの部分。それで「ソロー残差」と呼ばれます)。
技術進歩の程度は「事前にはわからないから、後で計算する」ということです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/aoki/page/20/
しかし、妙だと思いませんか。
事後的に決まるTFPの上昇率によって労働生産性が決まるとすれば、「労働生産性も事後的にしか算出されない」ということに。
実は、私たちが認識できる労働生産性とはマクロ的な経済活動の「結果」を反映させたものに過ぎないということです。
それは事前に操作可能なものではなく、後からついてくるものなのです。
先に示した日本生産性本部の資料には日本のTFP上昇率の動向が示されていますが、景気の波を受けて大きく変動している様子が見て取れます。
2010〜13年平均では、日本のそれはOEDD主要国中で4位(+0.8%)となっております(ちなみに米国は10位)。何か信じがたい数字ですね。
ここに成長会計を現実経済に当てはめることの限界が露呈しているのです。
成長会計は「アウトプットを決めるのはインプットだ」との主張ですが、そこでは「インプットを決めるのは何か?」という視点を欠いているのです。
「つくったものは全て売れる」というセイ法則に立脚しているために、それ以前にさかのぼれない(そこで思考停止)。
売れ残りの発生する不確実な世界において、諸資源の投入量を決めるのは総需要なのです。
明らかに、現実経済においてTFP上昇率や労働生産性を決めているのは、総需要の水準で決まる名目GDPの動向なのです。
そうした当たり前の事実さえ受け入れられれば、真理は目の前にあります。
労働生産性を向上させるためには、経済成長を促すための諸投資(教育投資、設備投資、研究開発投資、国土強靭化投資等)を着実に実行することが必要であり、逆に緊縮財政のようなデフレ化政策をとればとるほど、成長は損なわれ労働生産性は低下していくのです。
まっとうな需要拡張策をとっていけば、結果的にTFPも労働生産性も向上するのです。それだけの話。
しかし残念なことに、学界やマスコミ界における労働生産性の議論は、もっぱら「構造改革論」の中に取り込まれています。
主流派学者は事あるごとに「労働生産性を引き上げ、潜在成長率を上昇させるべし」と唱えていますが、具体的な方策は構造改革論に丸投げです。
構造改革論の本質は、「経済を効率部門と非効率部門に分け、非効率部門に雇用されている諸資源を効率部門へと移動させれば経済は成長する」というものです。
この考え方は国家間、官業と民業、産業間、企業間で効率の優劣をつけることが前提ですので、労働生産性という効率比較の指標と合致しやすいのです。
小泉構造改革時代から延々と構造改革派は同じことを叫び続けています。
「ゾンビを追い出せ」と。
経済内に存在する公共部門、特定の産業および企業に対し、勝手に「生産性の低い非効率な存在」というレッテルを張って、経済から退出せよと迫るのです。
しかし、この論理は現実社会では到底、通用しません。
日本の場合、生産性の低いサービス業から生産性の高い製造業へ諸資源が全て移動したらどうなるのでしょう。
サービス産業内でも相対的に生産性の低い保育、介護、飲食、宿泊等の部門をなくすとしたらどうなりますか。
同じく製造業に比べて生産性の低い農林水産業や土木・建築産業の場合はどうですか。
国民生活が出来なくなるどころか、国家として存立できなくなるのです。
労働生産性の低い産業部門がなぜ存在するのでしょうか。
答えはただ一つ、それが社会に必要だからです。
生産性という経済効率の観点からのみ国民経済を考えることの愚かさを構造改革論は証明しているのです。
〈青木泰樹からのお知らせ〉
前回お知らせしました拙著「経済学者はなぜ嘘をつくのか」(アスペクト社)が先月下旬に発刊されました。お手に取って頂ければ幸いです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4757224257
ーーー発行者よりーーー
「国の借金が1000兆円を超えた」「一人当たり817万円」
「次世代にツケを払わせるのか」「このままだと日本は破綻する」
きっとあなたはこんなニュースを見たことがあるはずです。一人の日本国民として、あなたは罪悪感と不安感を植え付けられてきました。そうしているうちに、痛みに耐える消費税増税が推し進められ、国民は豊かにはならず、不景気のムードが漂い続けています。本当に増税は必要だったのか? そもそも「国の借金」とは何なのか?
その正体とは、、、
http://www.keieikagakupub.com/sp/38DEBT/index_mag2.php
『三橋さんは過激な発言をする人だと思っていましたが…』
By 服部
“私は今年退職をして、世間から離れて行く様に感じていました。
そんな時、月刊三橋をインターネットで見つけ、三橋先生の
ご意見を聞くようになり、世の流れに戻る感じがしました。
月刊三橋を聞き始めて3か月になります。
最初は過激な発言をする人だなあと思って聞いていましたが、
今回の国債破綻しない24の理由を聞いて、
今まで何回も聞いていた内容が、私のように頭の悪い者でも
やっと理解出来るようになりました。有り難うございます。
これからの日本の為にも益々頑張って頂きたいと思います。”
服部さんが、国の借金問題について
理解できた秘密とは・・・▼▼
http://www.keieikagakupub.com/sp/38DEBT/index_mag2.php
【青木泰樹】若年層失業率60%のギリシャの労働生産性が日本より高い訳への2件のコメント
2016年4月10日 4:08 PM
曲がった角が気に入らなくて真っ直ぐで綺麗で完璧で理解可能で操作可能な直線にしようとして本体の牛を殺してしまう、しかる後に過剰な手段が目的へと転倒して入れ替わる、というのは人間らしい特徴か。各種環境における人間の振る舞いや傾向は古典やことわざに蓄積されているのだからそれらを基礎にして初めて環境に根差した適切(理想的?)な問題提起が可能になるか。継続的で、ある程度の需要の見通しが立たないと企業も投資や賃上げは難しいだろう、投資やイノベーションの起きやすい環境を作りたいならまず国際評価の方向性から国内評価へ転換してはどうか。国こそ相互扶助や「情けは人の為ならず」という実践的道徳、秩序的活動が可能な最大論理、枠組ではないか。TPPで主権を放棄?した「何者でもない、身分を保証されない、有象無象」の集団にいかなる蓄積が可能か。そのような集団が人権を叫ぶことのなんと空しいことか。それとも積極的に自ら進んで逆境に立ち、迫害される立場を選ぶことに真に価値あり、死に際こそ生は輝き、全ての人間は差別されていなければならない、というユダヤ系?の思想か。安倍総理も「ピンチをチャンスに」て仰ってたし。小泉-安倍政権以来靖国参拝で愛国アピールしつつ構造改革で壊国、安定的で継続的な社会活動が可能な生活基盤を破壊、国民を貧しくして「奴隷脱却を目指す奴隷の精神」「貴族になり替わる農奴」の向上心?を涵養する方向性、もしくはそういう信仰なのか。資本主義イデオロギーとその社会の維持運動の欲望の追求先を海外を求めるは新興宗教の一種だが「この道しかない」のか。手を変え品を変えて消費意欲を喚起させる短眼的資本主義とマスコミのマイノリティーをマジョリティーにし続けるその存在維持手段、運動は何となく似ていて全ての価値を使い捨てにしてファッション化するは反価値主義に結び付いて後には何も残らないか。マスコミの理想は日常を非日常にすることで生きながらに死んでいるゾンビを量産すれば確かに資本主義は良く回り、生きるのに手一杯の人達は日々その失われる名誉を回復するため一喜一憂するためになけなしの金を使ってくれるだろう。
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