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2024年4月12日

【竹村公太郎】公共事業と住民反対運動 ―進化は変わり者から―

不思議なトンネル

東日本JRの品川駅と田町駅の間に、
天井が異常に低いトンネルがあった。
残念ながら山手線の最後の新駅
「高輪ゲートウェーイ」の
建設によって通行ができなくなった。
高輪ゲートウェーイが計画される以前、
この不思議なトンネルを調べたことがあった。

 

(写真―1)が
トンネル入口にあった警告版である。

トンネルは道路構造令を無視している。
高さ制限は1.5mと異常に低く、
幅も狭く、一方通行であった。
大きな社名マークを
屋根に乗せているタクシーは、
天井を擦ってしまう。

 

 

(写真―2)が、
トンネルを歩く人と
通過していく自動車である。 

このトンネルは
第一京浜側の高輪と
海側の港南を連絡する
大切な通路となっていた。
ところが、
このトンネルの出自がわかっていない。

JR東日本の電話相談に問い合わせた。
二日後
「あれは道路トンネルなので分からない」
という回答があった。
しかたなく道路管理者の
東京都の芝浦港南総合支所に聞いた。
「トンネルを造ったのは旧国鉄で、
東京都はそれを引き継いだだけ。
JRに聞いてくれ」
という返事が帰ってきた。

JRも東京都も
道路構造令に違反しているトンネルは
自分の責任ではない、
と言い張っている。
生みの親を失った孤児のトンネルである。

実はこの法違反のトンネルは、
日本の歴史の生き証人であった。

 

海の上を走る蒸気機関車

1853年、米国のペリー提督が
黒船で日本に現れた。
その黒船の動力は
石炭を燃やした蒸気であった。
熱が強力な動力になることに
日本人は心底驚き、
欧米文明に圧倒された。

明治5年(1872年)、
蒸気エンジンは近代の象徴の
蒸気機関車となって日本に登場した。
多くの絵師が
その蒸気機関車を描いている。

 

 

その1枚が(図―1)の
三代目広重の
「東京品川海辺蒸気車鉄道之真図景」
である。

旧東海道、今の第一京浜を
人々や馬車が行き交っている。
その向こうの土手を、
蒸気機関車が煙を吐いて優雅に走っている。
鉄道の土手は海の上にあった。

土手にあるトンネルを
小さな漁舟が潜ろうとしている。
海の中に土手を築いたため、
漁にでる舟のための
トンネルが必要であったのだろう。

ここに描かれている
漁舟が向かっているトンネルが、
JR線の品川と田町間の
あの不思議な小さなトンネルである。

孤児のトンネルの誕生を、
広重はしっかり描いてくれていた。

 

何故、海の上を走るのか?

何故、日本最初の鉄道線路は
海の中に造られたのか? 

答えは江戸末期の
古地図を見れば推定できる。
江戸末期の古地図を見ると、
高輪周辺の旧東海道筋には
松平藩、薩摩藩、肥後藩、細川藩など
名門大名たちの屋敷が
びっしりと建ち並んでいる。

 

 

(図―2)が
新橋から高輪にかけての江戸図である。

ここに居住していた旧大名たちから、
黒い煙を吐く機関車が
藩邸の横を通るなどとは許さない。
彼らは明治政府に圧力をかけた。
やっかいな反対に遭遇した鉄道事業者は、
突拍子もない案を出した。
50mほど離れた海に土手を築き、
土手の上に蒸気機関車を走らせる
というものであった。

確かに海の中に人は住んでいない。
しかし、高輪から品川一帯は
優良な海苔漁場であった。
今度は漁業者から
強い反対の声が上がった。
金銭補償だけでは
収まりがつかなかった。
漁業者たちは
漁業の継続を要求した。
鉄道事業者たちは、
海の土手に小舟が通れる穴を設ける
という提案でどうにか了解がとった。

こうして蒸気機関車は
海の中を走ることとなった。

(図―1)で漁舟が穴を潜っていく
その様子も見事に描かれている。

 

公共事業の宿命は反対運動

法律違反の不思議なトンネルは、
日本近代国家の最初の公共事業が
住民反対運動に遭遇した
歴史遺産であった。

公共事業は
必ず住民反対運動に遭遇する。
「住民反対運動がないのは
公共事業ではない」
とも言える。

日本だけではない。
英語で“Not In My Back Yard”
略してNIMBYという言葉がある。
これは
「事業は認めるが、
俺の家のそばは通るな」
という意味である。

近代の公共事業は
いつも反対運動との対峙であった。
事業者は関係住民に何度も出向き、
夜遅くまで説明を繰り返した。
この事業が地域全体の発展、
日本の発展に役立つことを説明した。

物件の金銭補償も整えていった。
公共事業の遂行の制度と関連法律は、
いつも住民反対運動の経験を踏まえて
整備されていった。

日本の公共事業の歴史で、
最も激しく、辛い経験が松原ダム、
下筌ダムの反対運動であった。
そして、この反対運動が
世界でも例のない法律と
制度を生みだしていった。

 

松原・下筌ダム反対闘争

昭和28年(1953年)、
戦後復興に向かっていた九州に
西日本大水害が襲った。
筑後川水系では
1000人を超える死者・行方不明者となり、
水害対策と水力発電を中心とした
筑後川総合開発が急務となった。

昭和31年、調査を急ぐ建設省は
ダム予備調査で、
立ち木を無断伐採してしまった。
遅まきながら、
昭和33年建設省は
ダム事業の説明会を開催した。
建設省はダム事業の説明はしたが、
483戸の水没者への
丁寧な対応と説明を逸してしまった。

昭和34年、
水没者の室原知幸をリーダーとして
「建設省は基本的人権を守れ!」
と反対運動が開始された。
反対派の砦「蜂の巣城」が建設された。

 

 

(写真―3)が蜂の巣城である。

昭和35年、
建設省職員17名が負傷する
水中乱闘事件も発生した。
昭和38年、事業差し止め訴訟は
反対派の敗訴となり、
昭和39年、蜂の巣城は落城した。

昭和40年以降、
建設省は無断立ち入りを陳謝し、
室原氏らと「水没者の生活再建」、
「水源地域の振興」について
話し合いを進めた。

昭和42年、定礎式が行われ、
昭和45年に下筌ダムが完成、
昭和48年に松原ダムが完成した。

ダム事業を担当した建設省は、
この事業で一体何を考え、
どう総括したのか?
それは、ダム完成と同時に動いた
建設省の行政行為に
はっきりと表れている。

 

建設省の総括と対応

昭和45年に下筌ダムが完成し、
松原ダムも昭和48年に完成した。
その完成を待っていたかのように、
昭和48年「水源地域対策特別措置法」が
新たに制定された。

公共事業による
水没者への金銭補償は当然だ。
この特別措置法の内容は、
水源地域の生活環境・
産業基盤の再建のため、
国の全省庁は協力して
24分野の公共事業を実施する、
というものであった。

公共事業で
住民合意を得るのが最も難しいのが、
ダム事業である。
ダム事業は、
共同体の部分的な用地を
譲り受けるのではない。
山村集落をそっくり水没させてしまう。
共同体を全部消してしまうことになる。
共同体の人々のメモリーを
奪ってしまうことになる。
メモリーは金銭で保証できない。

共同体を消してしまうダムの影響を
緩和する新しい法律を必要とした。
水没で消えてしまう「共同体を再建する」
という概念の法律であった。
共同体を再建するには、
新しい役場、学校、上下水道、
電気、交番、保健所、
バス停等々の整備が必要である。
そのためには広い分野の行政が
総力戦で当たる、という
従来にない法律の誕生であった。

この法案作成を担当した
建設省の先輩たちは
想像を絶する苦労をしたであろう。
何しろ霞ヶ関の全省庁を相手にした
新法である。
霞ヶ関中を駆けずり回り、
他省庁の役人たちに頭を下げ、
法文を修正し調整していった。
局長から係長まで全員が、
説明資料を手にして
議員会館で廊下トンビをした。

松原・下筌ダム事業で
建設省がいかに公共事業の進め方を反省し、
総括したか。
それは言葉で表現できるものではない。
言葉を越えて、
水源地域対策特別措置法の
誕生そのものが、
建設省の反省を物語っている。

建設省の反省を物語るものは、
霞ヶ関の官僚たちが作った法律
だけではない。
建設省の現場職員たちの
気持ちを表わしている事実がある。
現地の九州整備局の
下筌ダム管理所の玄関の銘板は、
室原氏が書いた「下筌ダム建設反対」の
「下筌ダム」を使わせてもらっている。

(写真―4)がその玄関の銘板である。

 

懸命の水源地域対策

筆者は昭和45年、
建設省に入省して最初の赴任地が
鬼怒川の川治ダムであった。
昭和48年制定の
水源地域対策特別措置法によって
水没地地域の再建に指定された
第1号のダムである。
2度目の阿賀川の大川ダム勤務でも
水源地域対策に従事し、
3度目の相模川の宮ケ瀬ダムでも
水源地域の再建、活性化に
全力を注いできた。
特に、宮ケ瀬ダムでは
所長の権限を最大限利用した。

ダム完成後にダム堤体や
湖面を利用できるよう
様々な仕掛けをした。
日本で初めて一般の人々が
ダム堤体内に自由に入れるように
監査廊を工夫した。
ダム施工中のインクラインの基礎は、
将来の観光用インクラインの
基礎になるように配置した。
ダム湖観光船が
水没移転者たちの代替地に着岸できるよう、
掘削土捨場で土地造成を計画した。

これらの仕掛けは成功した。
宮ケ瀬ダムには
年間200万人に近い観光客が
訪れるようになり、
首都圏のみならず
日本の名物ダムとなった。

国土交通省退職後、
ある大学で非常勤講師をしていた。
授業の一環で、学生たち約20名を
宮ケ瀬ダムへ連れて行くこととなった。
ダムの監査廊に入り、
ダム堤体内部をエレベーターで昇った。

ダムサイトから観光船に乗って、
水没者たちの移転先の代替地へ向かった。
そこで私は、
まだ学んでいなかったことを知らされた。

 

学んでいなかったこと

ダム湖の観光船が着岸した移転地は
観光客で賑わっていた。
私が思い描いていた通りの賑わいであった。

 

 

(写真―5)が宮ケ瀬ダム湖の遊覧船である。

移転地の物産館に入った。
元気よく私の名を呼ぶ声がした。
水没者の奥さんであった。
その物産館で働いているという。
観光客も年々増加し、
移転者たちは喜んでいるという。
宮ケ瀬ダム水源地域を活性化できた。
私は誇らしい思いに包まれていた。

私はその奥さんに
「今、ダムから観光船に乗ってきた」と言うと、
その奥さんは「私はまだ乗っていない」
という返事であった。
私は驚いて「まだ乗ってないの?」
と聞き返した。
奥さんは目をそらして小さな声で
「湖の下に昔の土地があるから」
とポツと言った。

私は返す言葉を失った。
人生の大半をダム水没地域の再建と
活性化に取り組んできた。
宮ケ瀬ダムはダム人生の総仕上げであり、
内心誇りを持っていた。
その宮ケ瀬ダムで、
水没者の故郷を失った深い喪失感に
直面してしまった。

生まれた家、学校、森や小川、
田植えや稲刈り、初恋や村祭りの
思い出の土地は完全に消えてしまった。
家や田畑はどうにか補償できる。
しかし、
水没者たちの思い出は償えない。
水没者たちの辛さや悔しさを
学んでいたつもりでいた。
しかし、何年経っても、
ダム湖の船に乗れないほど、
やるせない思いを抱いていることまでは
学んでいなかった。

室原知幸さんが
我々ダム屋に突き付けた言葉がある。
「公共事業は理に叶い、
法に叶い、情に叶わなければならない」
改めてその言葉が胸に突き刺さってきた。

 

余談
進化は変わり者から

水源地域特別措置法の後の
霞ヶ関の行政の変化を
紹介しておく必要がある。

昭和48年:水源地域対策特別措置法が成立
昭和49年:電源三法(電源開発促進税、
電源施設周辺地域整備法など)成立
昭和49年:防衛施設周辺の生活環境等の
整備に関する法律、成立

霞ヶ関の各省庁は、
固唾をのんで
水源地域対策特別措置法の
国会審議の行方を見守っていた、
と想像できる。
通産省(現・経産省)、
防衛庁(現・防衛庁)は
ちゃっかり自省の法律を準備していた。
水源地域対策特別措置法が
成立した翌年の昭和49年、
通産省と防衛庁は
自省の地域対策法案を
国会で通している。
その時は「特別措置法」
という名前はなかった。
臨時的、例外的な法律を指す
「特別」という言葉がついていなかった。
一般的で普遍的な
公共事業の法律に変身していた。

ダーウインの進化論の中に
「進化は、種の全体が
一斉に進化するのではない。
種の中の変わり者がいて、
その変わり者の変異を見て、
上手く行きそうなら
後から種の全体がついていく」
という言葉がある。

霞ヶ関の行政の進化は、
生物の進化と同じであった。
変わり者の行動を見て、
それについていくかを判断していく。

ダーウインの慧眼に驚いてしまう。

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【竹村公太郎】公共事業と住民反対運動 ―進化は変わり者から―への2件のコメント

  1. ひとりごはん より

    宮ケ瀬の話は考えさせられた。

    いま、従来買い手がつかなかった泥炭地、休耕地を
    おびただしい数のソーラーパネルが埋め尽くして
    異様な景観が全国各地で広がっている。
    そうして、案の定
    当初言われたほど電気料金は下がってない。

    これから、故郷の田舎では
    ダム湖面を鯉のぼりが泳ぐ時期が来る。
    少子、過疎の山里に
    各地から子連れが集まる束の間の季節が訪れる。

    太陽光発電に人が親しむ時代が来るのだろうか。

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  2. ツボタ より

    ダムに行くと、その雄大な眺めに圧倒されますが、水の下には、人間が生活をした跡が残っているんだなあと改めて思いました。

    目に入った、水に関連することしか頭に浮かばないのですが、人が生活の場を失っているとすると、やはり大変な事業なんだなあと思います。

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