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2023年10月14日

【竹村公太郎】どうする家康!―江戸に情報が来ないー

 1600年関ケ原で勝った家康は、
1603年に江戸で開府した。
この江戸は首都として決定的な欠陥を持っていた。
江戸には情報が来なかったのだ。
情報が来ない都市など首都ではない。
どうする家康!

不思議な京都1千年の都
 8世紀、桓武天皇は
奈良から京都へ遷都した。
それ以来、19世紀まで京都は1千年間、
都として存在し続けた。
しかし、平安、室町、戦国時代を通して
京都は安全な街ではなかった。
京都は戦国時代の戦乱の中心であった。
応仁の乱では大火で焼け出され、
宗派間の武力闘争も頻発していた。

 当時の京都の人口は、
20万~30万人と推定されている。
一人当たり年間20本の立木が必要とすると、
全体で20本×25万人=500万本/年が必要となる。
年間500本ではない。
年間500万本の伐採である。
50年もたてば京都周辺の山々は
禿山になってしまった。


 (図―1)は
米国の歴史学者コンラッド・タットマン作成の
日本森林の変遷の図である。
赤色は戦国時代の寺社仏閣のための
木材伐採範囲である。
木材伐採は能登半島、伊豆半島、
紀伊半島の全域に及び、
高知県・山口県まで及んでいる。


(写真―1)は、
昭和年代の比叡山の写真である。
石油・石炭が制限されたので、
人々は山の木々に向かい、
比叡山までも禿山にしてしまった。
戦国時代の禿山のイメージがこれで分かる。

 周囲の山々が禿山になれば、
ちょっとした雨でも豊かな表土は流れ出し、
京都の巨椋池(おぐらいけ)には土砂が埋まり、
人々の排泄物は滞り腐敗し、
京都では疫病が頻発していった。

 それでも京都は1千年間、
都であり続けた。
京都が都であり続けた理由があった。

歩くと京都に
 京都が1千年近く都であり続けた理由、
それは情報である。
京都は日本列島の情報の集中地点だった。
朝廷が京都に留まったから
情報が集まったのではない。
情報が黙っても京都に集まってくるから、
朝廷は京都に留まっていた。
情報が集まってくる原因は、
日本列島の地形にあった。

 ユーラシア大陸から
日本海側の海岸に漂着した人々が、
東に向って歩いていくと、
島根、鳥取、兵庫そして福知山、
亀岡を通って自然と京都にたどり着いた。
古道の山陰道である。
九州から陸路を東に向うと、
下関から広島、岡山、兵庫から
大阪は通らず京都にたどり着いた。
古道の山陽道である。

 瀬戸内海を船で東に行くと、
小豆島から大阪湾に着いた。
太平洋から紀伊水道を上ると
瀬戸内海に入り大阪湾に着いた。
大阪から小舟に乗り換えて
淀川を遡ると自然と京都に着いた。
日本列島の西から来た人々は、
皆、自然と京都に行き着いた。

 京都から東へ向かうと、
山科で逢坂を越える。
逢坂を越えると大津に出た。
大津から琵琶湖湖岸を
北に向かうと敦賀に出て、
日本海の福井、石川、富山
そして新潟へ繋がった。
古道の北陸道であった。
大津から陸路を東に進み関ヶ原を越え、
岐阜から山岳ルートを行くと
長野、群馬、栃木へ出て東北へと繋がった。
古道の東山道であった。
大津から米原を過ぎて
南へ向かい伊勢湾を船で超えると、
豊川、浜松、箱根を越えて横須賀に出た。
横須賀から船で江戸湾を
渡り房総半島に上陸した。
上総からは陸路を北上すると茨城、
栃木となり東山道と合流した。
これがのちの東海道、奥州街道であった。

 これら山陰道、山陽道、北陸道、東山道
そして東海道の古道は、何千年、何万年前から
日本列島を行き来する
古代の人々が歩いた道であった。


(図―2)が京都を中心として
形成されていた古道を示す。
 
日本列島の情報中心
 日本列島の主たる歩く道が
京都に集まっていた。
京都は日本列島の凸レンズの焦点であった。
凸レンズは散漫な光を焦点に集め、
光は焦点から再び広がっていく。
京都は3,500kmの日本列島の人々を
一点に集める焦点であった。

 京都は1千年のあいだ都であり続けた。
歴史は大激動して揺れ動いたが、
京都の都は不動であった。
京都は日本列島の人々が
交流する焦点だったからだ。
人間は情報の塊である。
情報の塊の人間が京都に集まり、
情報の塊の人間が京都から
日本列島に発散していった。
文明の条件は、同じ言葉を話し、
同じ文字を読み、
同じ情報を共有することだ。
日本列島を歩いていた人々は、
いつの間にか京都に集まり、
出会い、会話して、情報を交換した。
京都は日本文明を
醸成していく要の空間であった。

 これが、京都が1千年間の都で
あり続けた理由であった。
徳川家康は禿山に囲まれた
不潔な京都を見て「京都が都」で
あることの本質を見抜いていた。
そして、家康は人々が来ない江戸、
情報が来ない江戸、
その江戸に帰ることとなった。

人々が来ない江戸
 江戸は見るも無残な土地であった。
江戸の西の武蔵野台地には河川がなく、
稲作が出来ない不毛の土地であった。
一方の東に広がる低地は塩水が逆流する
使い物にならない干潟であった。
武蔵野台地の端にある江戸城は、
大湿地帯に顔を突き出していた。
余程のことがなければ
江戸に来る人はいなかった。
何しろ江戸の先からは
干潟があるだけで行く先がなかった。


(写真―2)はフランスの
ランス川河口の世界遺産の
モンサン・ミッシェルで、
家康が江戸入城した
当時の様子をイメージできる。
 日本列島の東北と西の往復は
古代から頻繁に行われていた。
2万年前のウイスコンシン氷期から
縄文時代となり、弥生、飛鳥から
奈良時代となった。

 東西の交流が特に頻繁になったのは
征夷大将軍・坂上田村麻呂による
蝦夷征伐であった。
平安以降、人々の交流は盛んになり
日本列島の一体感が形成されていった。
 この日本列島の東西の交差点は、
広大な関東地方であった。
広い関東には様々なルートが形成されていた。


(図―3)は、江戸以前の
東西の交流する古道を示した。
道とはいっても人々の足で
締め固めた細い道であった。
 東山道は群馬から
栃木から東北へと向かった。
甲府盆地からの古道は、
群馬へ向かう道と、
南の横須賀から房総半島に渡るルートとなった。
東海道をきた古道は箱根を越えると、
やはり横須賀から
房総半島へ渡るルートをとった。
関東の東西交流の中で、
江戸周辺だけは人々が来なかった。
江戸は情報が来ないという
決定的な欠陥を持っていた。

五街道の整備
 徳川家康は、
1600年の関ケ原の戦いの後、
京都の伏見城に入った。
そして1603年に征夷大将軍に任命されると
さっさと江戸に帰還して幕府を開府した。

 家康の年表を見ると
一年一年戦いで埋まる人生を送っている。
不思議なのは、伏見城に入った
1600年から1603年の3年間、
家康の年表は空白となっている。
歴史家によると、
この間、関ケ原の戦いの戦後処理をしていた、
征夷大将軍の任命を受けるための
朝廷対策をしていた、とされている。

 実はこの伏見城にいる間、
家康は重要な全国統治政策を開始していた。
江戸を首都に変貌させる
抜本的なインフラ整備であった。

 1601年、家康は
江戸の五街道整備を沿道の大名に命じた。
東海道、中山道、奥州街道、
甲州街道そして日光街道の五街道である。

 家康の五街道整備の理由は
様々に説明されている。
参勤交代のため。素早く軍が移動するため。
街道の消費拡大のため。
江戸幕府の権威向上のため等々。
交流インフラは様々な機能を持っているので、
これらの効果の説明は全て正しい。

 ただし、家康の五街道は
全国レベルの最初のインフラ整備である。
全国統治を開始する家康の最初の指示である。
それを考えると
「首都には情報が集まらなければ都ではない」
という強い家康の意志がにじみ出ている。
 
 街道整備は二代将軍秀忠に継がれ、
その後も全国で街道が整備され続けられた。


江戸時代の五街道を(図―4)で示す。
 家康が整備した五街道は
江戸文明の繁栄の象徴となった。
しかし、家康の街道は
江戸文明の繁栄の貢献に留まらなかった。
日本文明の明治近代化への重要な礎となった。

地形による強固な江戸封建社会
 日本列島は極めて特徴的な地形をしている。
列島中央に脊梁山脈が走り、
脊梁山脈から日本海と太平洋に向かって
無数の川が流れ下っている。
平野といえば湿地の沖積平野で
山々と海峡で分断されていた。
人々は稲作のため沖積平野に住みついた。

 徳川家康は200以上の
大名たちを制御するのに、
この日本列島の地形を利用した。
山々と海で分断された
河川流域の中に各大名を配置した。


(図―5)は
全国を河川流域で区分した図である。
大名たちは流域に閉じ込められ、
外への膨張を禁じられた。
人々はエネルギーを内なる
流域開発に向けていった。
堤防で洪水を防ぎ、川から水を引き、
農地を開発していった。
流域は地形で分けられていたので
開発しても隣国と衝突することなかった。
流域に封じられた大名たちは、
安定した流域権力を確立していった。

 この権力を封じ込んだ
強固な流域封建社会こそ、
近代化の幕開けにおいて最大の障害となった。

封建から中央集権への脱皮
 1853年、黒船が来航した。
1868年、鎖国を解いた日本は
元号を明治と改め近代へと歩み出した。
蒸気機関を持った
欧米列国の力は圧倒的であった。
彼らはアフリカ、インド、東南アジア、
太平洋諸島そして清国を次々に植民地にしてきた。

彼らの植民地政策の原則は
「分割統治(Divide and Rule)」であった。
その国の権力間の亀裂を拡大させ、
疑心暗鬼を増幅させ内戦へ誘う。
内戦で体力が消耗したころ、
傀儡政権を擁立しその国を支配していく。
それが欧米の植民地化の手法であった。

 日本も分割され
植民地化される瀬戸際にあった。
何しろ日本列島には
流域ごとに地方権力が分散していた。
この流域権力社会は地形に
適応していたので自然であり強固であった。
地方権力社会の存在は、
欧米列国の植民地の
分割統治にとって好都合であった。

 日本は一刻も早く
地方の分散権力を解消し、
中央集権の国民国家を
築かなければならなかった。
明治新政府にとって、
廃藩置県は最も重要な政治課題であった。
政権を担った大久保利通や西郷隆盛が、
廃藩置県という困難な政治課題の渦中で
苦闘しているときに、
流域の封建社会からの脱皮を
インフラから実現しようとする
人間が現われた。

 海峡と山々と川で
分断されていた地形を貫き、
人々を東京へ集めるインフラ、
それは蒸気機関車であった。

鉄道の衝撃
 鉄道計画を推し進めた中心人物は、
大隈重信と伊藤博文であった。
さかのぼる10数年前
1855年(安政2年)当時、
17歳の若き佐賀藩士だった大隈重信は、
アルコールで動く全長30cmの
模型蒸気機関車を驚きの眼差しで目撃していた。
大隈重信は、近代化にとって
鉄道が必要であることを身体で知っていた。


(図―6)は佐賀・鍋島藩が試作した
蒸気機関車の図で、
若者たちが囲んで見学している。

蒸気機関車の計画は
明治元年になって具体化した。
大隈と伊藤の当初計画は
東京~京阪神のルートであった。
しかし、あまりにも費用がかかるため
大久保利通の了解が得られなかった。

 やむなく東京と横浜間の
29km間を敷設することとした。
1869年(明治2年)、
大久保利通はその計画をしぶしぶ認めた。
新橋と横浜間に短縮したとはいえ
投資額は膨大であった。
大隈と伊藤は日本最初の債権を
英国で売り出し、鉄道建設資金を確保した。
英国の技術を導入し、
新橋と横浜間の鉄道が実現した。

 蒸気機関車は東京と横浜を
たった1時間で結んだ。
多摩川や鶴見川を1分もかからず越えてしまった。
2000年を超える日本文明は
常に地形の制約下にあった。
蒸気機関車はその地形の制約を
あっけなく消し去った。


(図―7)は多摩川を渡る蒸気機関車である
大久保利通の凄さは、
この鉄道の社会的な衝撃性を
一瞬にして理解したことだ。
あれほど鉄道に反対した大久保利通は、
鉄道に乗車した日の日記に
「百聞は一見にしかず。愉快に絶えず。
鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」
と記述している。

 その後、明治政府は
鉄道建設への投資を惜しまなかった。
明治22年、新橋から
名古屋、京都、大阪、神戸までの
全線が開通した。
明治24年、上野から
福島、仙台、盛岡、青森までの全線が開通し、
偶然に、その年に
日本帝国議会が開催されることとなった。

 新橋―横浜間の開業から
わずか30年余りで、
鉄道網は北海道から九州まで
7000kmを突破した。
封建社会を支えていた流域は
鉄道によって横腹を貫かれ、
日本列島は1つに結ばれた。


(図―8)は鉄道が東京へ向かう図を示し、


(写真―3)は当時の機関車である。

 流域を横断する鉄道を目の前にして、
人々は流域に自分を封じ込める時代は
終わったことを悟った。
全国の鉄道は東京に向かっていた。
長男を除く次男坊、三男坊は
鉄道に飛び乗った。
若い力と資金が
東京に集中することにより、
日本人は欧米列国によって分断されず、
国民国家を誕生させていった。


(図―9)は江戸時代から近代まで
一極集中する首都圏である。
ここで不可思議なのは、
鉄道建設の異常な速さであった。

不思議な鉄道建設
 約30年間で
日本全国7,000㎞の鉄道が開設した。
ありえないスピードである。
精密な測量機器はなく、
工事の重機械もなく、
エネルギー燃料も十分でない時代、
このような短期間で鉄道敷設が完成した。
70%が山地で無数の河川が
流れ下っている日本列島で
7000㎞を30年で鉄路を敷設したなどは、
奇跡とも思える想像を絶する速さである。

 しかし、これには理由があった。
決して奇跡ではなかった。
日本列島中に江戸街道があった。
鉄道は江戸街道に沿って敷設すればよかった。
トンネルや橋梁以外は、
精密な測量や設計をせずとも
提灯を並べて測り、
簡単なスケッチで工事する
「出会い丁歩」で建設を進めることができた。
何しろ江戸街道の安全の確実性は
300年近い実績があった。
 
 もし、江戸街道がなかったら、
鉄道で結ばれた国民国家の誕生は
ずーっと先になっていた。
日本文明の近代は
日清戦争、日露戦争はもちろん、
第1次世界大戦にも間に合っていなかった。

 日本の明治の近代化は、
奇跡と言われるほど一気に進んだ。
驚異の明治近代化は、
多くの英雄や政治的な葛藤で語られている。
しかし、日本列島の地形を貫き、
日本人を東京へ集中させた
鉄道インフラが近代化を
なし遂げたことは語られない。
ましてや400年前、
家康が五街道整備を命令したことが、
近代文明の鉄道の登場と
国民国家の誕生の鍵になった
など思いもよらない。
 
 1601年、家康は江戸に
情報集中させる五街道の整備を命令した。
江戸時代、街道は情報を江戸に集中させた。
260年後の明治近代、
鉄道は東京に情報を集中させた。

 交流軸は細長い列島の人々を
共同体にまとめ、
日本文明の近代化を素早く実現させた。
 

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【竹村公太郎】どうする家康!―江戸に情報が来ないーへの2件のコメント

  1. 全ての道は○○に通ず より

    インフラ整備は国の要

    凸凹道路 補修するカネがどこにある
    などと 言ってる国は必ず 滅びる

    ちなみに 自分の大好きな アドルフ

    「休日には低所得者層が自動車に乗ってピクニックに出られる」暮らしが必要であると唱えたとか (wikiより引用)

    貧乏人なんぞ 休まず玉の汗をかいて 働け という

    岸田某よりも はるかに ご立派 ♪

    返信

    コメントに返信する

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  2. 坪田守正 より

    交通インフラの重要性がよく分かりました。
    情報が集まって来るんですね。

    鉄道の速さを活かすのに、
    江戸街道が重要な役割を果たしたことを知りました。

    返信

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