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2019年8月10日

【竹村公太郎】不思議な日本共同体(その4)アイデンティティー江戸・東京    

From 竹村公太郎@元国土交通省/日本水フォーラム事務局長

東京誕生の秘密

明治5年、新橋で汽笛一声が響きわたった。
流域に分断されていた日本列島は、
鉄道によって貫かれ1つに結ばれた。
その鉄道は全て東京に向かっていた。

全国の若い人材と資金は、鉄道に飛び乗り東京へ向かった。
人材と資金を東京に集中させた民族は強かった。
団結して企業を起こした。口角泡を飛ばし議論をした。
そして、世界史の最後の帝国国家に滑り込んで行った。

日本列島に住む人々は、東京へ集中することに全く躊躇しなかった。
なぜ、地形で分断されていた人々が、
あっという間に東京に集まったのか?
それは、日本人は水運という情報システムで、
同じ言語を読み、情報を共有していたからだ。
日本人は参勤交代という社会システムで、
同じ江戸弁という言語で会話していたからだ。

実は、まだ江戸はある秘密を持っていた。

江戸は日本人のアイデンティティーの地であった。
なぜなら、江戸は、江戸の人々が造った街ではない。
全国各地の人々によって造られたのだ。
江戸は全国の日本人が造った日本人全体の都市であった。
明治になり、日本列島中の人々が、自分たちが造った東京へ行くには躊躇がなかった。

お手伝い普請の開始

1600年、徳川家康は関ケ原の戦いで勝ち、天下を制した。
1603年、家康は征夷大将軍の称号を得ると、
箱根を越えて東の江戸に引き返してしまった。
家康にはやらなければならない江戸の街造りが待ち構えていた。

この江戸の街造りで最初にやったのは、飲み水の確保であった。
なにしろ江戸城から見下ろす土地は、
江戸湾の塩水が逆流する湿地帯であった。
背後の武蔵野台地には大きな川がなく、
小さな沢がチョロチョロと流れるだけであった。

1606年、家康は淺野藩に対して、虎ノ門でダム建設を命じた。
淺野藩には大石で堰堤を作ることが上手だったのだろう、
見事に数mの立派な堰堤、つまりダムを建設した。


(図―1)虎ノ門外 あふひ坂(1606年)

(図―1)は広重が描いた「虎ノ門ダム」である。
このダムは明治、大正時代に埋められて消えてしまったが、
地名は「溜池」として今でも残っている。
徳川家に対して恭順の姿勢を示すお手伝い普請の開始であった。

お手伝い普請の街つくり

当時、江戸湾の海水は今の皇居内の汐見坂の下まで入り込んでいた。
海に面した高台の江戸城は海運には便利だが、
海からの不意の攻撃には弱い。
また、大勢の部下たちの住居のための土地も必要であった。
そのため、家康は日比谷の入江を埋立てて行く必要があった。

神田から駿河台の高台を削り、江戸湾を埋立てた。
現在の日比谷から新橋、銀座、京橋、
日本橋、八丁堀が生まれていった。
皇居前広場から地形が延々と東京湾に向かって
平坦になっているのは人工の埋立地だからだ。

この江戸の造成工事は、
やはり全国の30藩を超す大名たちの手伝い普請によって行われた。
江戸の土地造りと共に、掘割や運河の工事、
上水道を江戸市中に配置する工事もお手伝普請によってなされた。
さらに、東海道、甲州街道、中山道、日光街道が放射状に整備された。
これらの街道もお手伝普請によって造られた。

全国の資金と知恵と労力で造られた江戸

湿地帯の埋め立て地の江戸は増水に弱かった。
隅田川の洪水で何度も浸水被害を受けていた。
1620年、洪水から江戸を守るため、
隅田川に大きな堤防が建設されることとなった。

浅草から三ノ輪までの高さ3m、幅8mという大きな堤防が、
徳川幕府の命令で全国の80余州の大名によって60日で完成した。
日本中の大名がお手伝い普請で参加したので
「日本堤」と呼ばれるようになった。


(図―2)広重 よし原日本堤(1620年)

(図―2)は広重が描いた日本堤である。
街だけでない。江戸城もお手伝普請によって築造された。
江戸城の本丸は地震や火事で消失してしまったが、
皇居前広場にある大手門は伊達政宗のお手伝普請によって
築造されたものである。


(写真―1)皇居 大手門 出典:Wikipedia

(写真―1)は現在の大手門。
江戸の街は、地方の大名達の財力と
労働力のお手伝普請で次々と整備されていった。
ここで、地方大名達の財力とは、
領民から集めた年貢であったことは言うまでもない。

つまり、江戸は、全国の地方の人々の
資金と知恵と労力で建設された街であった。
江戸でお手伝い普請を終えて、
国に戻った人々は誇らしげに江戸の話をした。

俺たちが江戸の土地を造成した。
俺たちが虎ノ門の堰堤を造った。
俺たちが江戸市内の水道を敷設した。
俺たちが日本堤を造った。
俺たちが江戸城を造った、と江戸の話に花を咲かせたのだ。

江戸は全国の日本人が創り上げた日本人の街であった。
江戸に行かなかった人々も、江戸は自分たちの街と誇らしく思った。
江戸は日本中の人々のアイデンティティーの都市となっていった。

—発行者より—

・なぜ織田信長は比叡山を焼き討ちにしたのか?
・国を治めた徳川家康とヒトラーの共通点とは?
・忠臣蔵は最初から黒幕によるシナリオがあった?

地形を見れば、
歴史の謎がすんなり解けていく、、、

竹村公太郎の地勢歴史学講座 vol.1
「地形で読み解く日本史の謎」
https://pages.keieikagakupub.com/cpm_takerk1_s_d_24800/

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【竹村公太郎】不思議な日本共同体(その4)アイデンティティー江戸・東京    への4件のコメント

  1. たかゆき より

    あい でぃん てぃてぃ

    お言葉ですが、、
    東京って そんなに 素敵な
    ところ ですか ??

    小生の感覚では ただの ゴミ溜め
    住もうとも 行こうとも 思いません

    小生の identityは
    故郷重視 地祇崇拝

    東京一極集中の成れの果て
    それが この ザマ かと、、、

    田舎もん風情の 小生は
    東京さ 行こうとも 
    銀座さ 山買おうとも
     
    これっぽっちも 念いません ♪

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  2. 拓三 より

    だから東京を中心とした国家は外敵から地方を守る義務がある訳。

    何せ徳川は「将軍」ですからね。

    でも今は… そら東京嫌い、日本嫌いになりますわw

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  3. 大和魂 より

    苦労人の徳川家康公が、欣求浄土厭離穢土を理想として開いた江戸幕府。その中心は火事と喧嘩は江戸の華の通り庶民人情文化により良くも悪くも繁栄していました。その礎は戦国時代に到来した南蛮貿易と宗教になります。これが政治に深く関与することを見抜いた信長公とそれを間近で観察した秀吉公から参考にして、国際政治を出島に押し込んだ偉大な江戸幕府。この真実の歴史こそ拡散するべきです。

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  4. ホシュ より

    ここにいられなくなった人のサイトで

    幼稚な書き込みを続けている バカタクゾー

    君は本当の小人だな www

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