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2023年8月12日

【竹村公太郎】どうする家康!―江戸で米が作れない!―

米が作れない
 1603年、関ケ原の戦いで勝った家康は
征夷大将軍の称号を受けると、
さっさと江戸に帰ってしまった。

 家康にはやるべきことがあった。
利根川を銚子へ向ける
利根川東遷工事であった。
この利根川東遷事業と同時に、
重要な工事が江戸と川崎で行われていた。

 江戸の工事は、
生きるための飲み水の
虎ノ門堰堤(ダム)建設であった。
川崎の工事は、
喰うための農地開発であった。
幕府を開いた江戸では全
く米が作れなかった。
当時、米は食糧であり、
金銭であり、社会的地位であった。
江戸ではその大切な米が獲れない。
家康は一体どうしようとしたのか。

最悪の江戸
 関ケ原から遡ること10年前の1590年、
徳川家康は豊臣秀吉に江戸へ幽閉された。
当時の江戸は、
住家がぽつんぽつんと点在する
寂しい寒村であった。
江戸城は武蔵野台地の東端にあった。
江戸の西に広がる武蔵野台地は、
米が獲れない不毛の地であった。
なぜなら、武蔵野台地には
稲作のための川がなかった。

 一方、江戸城の東には
広大な湿地が展開していた。
その湿地に荒川、渡良瀬川
そして利根川が流れ込み
広大な干潟を形成していた。
その東の干潟は限りなく平坦で、
江戸湾の海水は満潮のたびに逆流し、
関東の奥深くまで差し込んでいた。
そのため、ここは塩分が
濃く米が獲れない不毛の湿地であった。

 日本列島を見まわして、
これほど悲惨な土地はなかった。
江戸に押し込められた徳川家康は、
一日も早く3万人の部下たちを
養う農地を必要とした。

川崎の氾濫原
 江戸に入った家康は鷹狩と称して、
関東一円のフィールドワークに徹していた。
どうしても探したかったのは農地であった。
千葉には河川がなかった。
群馬、栃木、茨城の北関東は
江戸から遠すぎた。
埼玉には氾濫原の中に砂州があったが、
しばしば利根川の大洪水が襲っていた。
結局、多摩川と鶴見川が合流する
氾濫原の砂州を開発することにした。
砂州は氾濫原で川の土砂の堆積で
こんもり盛り上がった土地である。


(図―1)は、
21世紀の東京首都圏の地形図である。


(図―2)は、現在の川崎の地形図で、
多摩川と鶴見川の合流地点で
砂州が広がっている。


(図―3)は、
広重が描いた川崎宿である。
多摩川の対岸の砂州に
川崎宿が描かれている。
関ケ原の戦いの3年前の1597年、
家康は用水責任者の小泉次太夫に命じて
多摩川で大規模な農地開発を命じた。

大規模な農地開発
 農地開発は測量から始まり、
関ケ原の戦いの休止を経て
1611年に完成した。


(図―4)は二ヶ領用水の全体図である。
多摩川からの取水は上河原堰、
宿川原堰の二カ所から行われ、
上流の稲毛領37村、
下流の川崎領23村で
約32㎞の大規模な
水路網が張り巡らされた。

 当初、堰は設置されず
自然流入で取水していた。
しかし、多摩川の水量が少ない時にも
取水できるように竹で編んだ
蛇篭(じゃかご)に玉石を入れて
取水地点に並べて「堰止め」の技法が
取られるようになった。
この手法は昭和初期まで使われていた。


(写真―1)は、
山口県佐波川水系で
遺跡として残されている
関水(せきみず)の玉石で
堰き止めた取水施設である。
二ヶ領用水で収穫した米は稲毛米として、
江戸、明治、大正そして昭和まで江戸市民、
東京都民に供給されていった。

 徳川家康の二ヶ領用水は
江戸への貢献だけではなかった。
全国の大名の農地開発の目標となり、
国土開発の具体的な技術指針となった。

たなびく二ヶ領用水の旗
 家康は江戸に幕府を開き、
200を超える戦国大名たちを
制御するためにある工夫をした。

 大名たちを全国の
流域の中に封じ込めたのだ。
大名たちは流域の山々の稜線を超えて
領地を広げることは禁じられた。
海を越えて海外に向かっていくことも
許されなかった。
流域に封じられた大名と人々は、
自分たちの足元の流域に
エネルギーを集中していった。
まず、中小規模の川で堤防を築造した。

 あちらこちらに乱流している
流れを堤防の中に押し込めると、
旧河道が豊かな農地になっていった。
次に川の水の取り入れ口と
農業用水路を建設した。

 その経験を経て、
大きな川でも堤防を築き、
取水堰と農業用水路を整備していった。
戦いのない平和な江戸時代、
日本中の流域で国土開発、
農地開発が行われた。
日本列島の米の生産力は
急速に増大していった。


(図―5)は、
日本の1千年の耕地面積の変遷と
人口増加を示す図である。
戦国時代までは農地の変化はない。
江戸時代に農地開発が一気に行われ、
豊かさが実現し、
それに伴い人口も急激に
増加していることが明瞭に分かる。

 江戸時代、二ヶ領用水は
日本の国土開発の輝く旗となった。
しかし、二ヶ領用水は
負の歴史も刻んでいくこととなった。

 稲毛領と川崎領の地域は、
二ヶ領用水のおかげで
豊かになり栄えていった。
人々が集まり人口が増えていくと
新しい水需要が増大していき、
水の奪い合いが発生するようになった。
二ヶ領用水は江戸幕府直轄であり、
水紛争は文書で記され、保管され、
世界的に見ても珍しい貴重な記録となった。

農村共同体の紛争
 江戸時代、流域の開発に伴い、
左岸と右岸、
そして上流と下流で
複数の農村共同体が誕生していった。
これらの農業共同体は仲が悪かった。
なぜなら、川の水量は限られている。
渇水になれば水の取り合いとなる。

 話し合いで決着できないと、
暴力での奪い合いとなった。
これは日本だけではない。
世界共通の現象であった。
ライバル(Rival )の語源は
川(River)から来ている。
同じ流域で生きている他の共同体は、
仲間ではなく敵だった。
同じ川の沿岸で生きている
顔見知りが敵になる。
この水争いは陰に籠り、
陰惨なものとなり、
記録に残されにくかった。

 しかし、二ヶ領用水は
徳川家康によって造られた
幕府直轄の農地であった。
そのため二ヶ領用水の紛争は
江戸幕府の問題でもあり、
紛争処理も幕府の責任であった。
そのため、二ヶ領用水の紛争は
詳細に記録されていった。

 残されにくい水紛争と
後始末まで文書にされていた点で、
二ヶ領用水の記録は
貴重な資料となっている。
以下の内容は「小泉次太夫用水史料」
(小泉次太夫事情調査団編集
・世田谷区教育委員会発行)
に基づいている。 
 

溝口(みぞのくち)水騒動
 1821年(文政4年)7月、
二ヶ領用水で溝口水騒動が発生した。
この年の二ヶ領用水は、
春から雨が少なく田植えの時期にも
日照りが続き、
干ばつに襲われていた。

 5月ごろから上流の溝口村は
約束を破って、
自分たちに有利になるように
川崎領への水路を閉め切ってしまった。
下流の川崎領の33村は
御普請役人に訴えたが解決されなかった。
下流部の33村は


(図―4)の東海道周辺から
下流部にかけての村々である。

 7月5日、飲料水にも事欠いた
川崎領の村々は対策を議論したが、
溝口村の名主・鈴木家は
打ち壊しを決した。
7月6日10時ごろ、
川崎領の農民たち1万4千人が
溝口村に向かった。
彼らは竹槍、鳶口(とびぐち)槍、
刀そして鉄砲まで手にしていた。

 溝口村の名主側も
石、竹槍、熱湯などで対峙したが、
邸宅は散々に打ち壊されてしまった。
溝口村名主は江戸にいて不在だったため、
川崎領の人々は江戸市中の馬喰町の
御用屋敷まで追いかけていく大騒動になった。

 1万4千人が武器を手にした事件は
水紛争というより水戦争の様相を呈していた。
この騒動に関係した川崎領と
上流の溝口村の責任者や参加者は、
幕府の調べを受け、
その行為の軽重に応じて
処罰を受けることとなった。

技術で公平な水配分
 人類が農作を開始して以来、
水紛争は現在の21世紀まで続いている。
水紛争は理性の話し合いから始まるが、
最後は暴力に行きつく。
命の源の水の前では、
人間の理性は無力となる。
水紛争は人類が避けることができない
宿命となっている。

 近代の昭和になり、
二ヶ領用水で4方向に水を配分する
サイフォン原理を使った円筒分水が
設置された。
円筒の下部から水を押し上げて、
上部で水が越流する
円筒の周囲長さ比で
水を正確に配分する施設である。

 技術によって公平に
水を分かち合うという
日本人の叡智である。


(写真―2)が久地村の円筒分水である。

 実は、400年前にさかのぼる
16世紀の日本で、
水紛争の暴力を技術で
克服した例があった。
戦国時代の甲府盆地で誕生した
「三分の一堰」である。


(写真―3)が今でも現存している堰で、
中央の小さな将棋の駒のような石が
3集落へ水を公平に配分する
仕掛けになっている。
この水分配の装置は、
戦国時代で最も尊敬される
大名の一人・武田信玄の
統率力によるものと伝わっている。

 技術で暴力を克服した
歴史的事実が伝承されていき、
サイフォンという
近代土木技術と出会って
円筒分水が誕生した。
この円筒分水は大正、昭和期に
日本全国に広まっていった。

 世界を見渡すと、
遠くから水を導水してきた遺跡、
湧水を工夫して導水した遺跡などは
多数残されている。
しかし、技術で公平な水配分を実現した
という遺跡の存在は聞こえてこない。
日本の「三分の一堰」は
施設としては小さい。
しかし、水争いを技術で克服したこの遺跡は、
途方もなく偉大な人類の遺跡である。

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【竹村公太郎】どうする家康!―江戸で米が作れない!―への3件のコメント

  1. 川崎の見方が変わりました より

    京急大師線小島新田の新田もそうなのでしょうか
    今回も知らなかったことを教わりました
    時間ができたらJR南武線を乗り歩いて久地など
    先生の論考と重ね合わせてみようと思います
    毎回ほんとうにおもしろいです
    詳細なデータもありがとうございます

    返信

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  2. 分水 より

    人間の知恵を 覗いてみよう
    と、、
    分水の歴史を調べてみたら、、、

    「土地改良事業計画設計基準〔水路工〕基準書」によれば

    サイフォンによる 円筒分水工は
    昭和中期に 射流分水工が考案され
    次第に姿を消していった との こと

    ちなみに
    いまの時期だと 流しそうめん

    射流分水によって 
    そうめんが 均等に 分流されるのか

    知らん ♪

    返信

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  3. 坪田守正 より

    水の話は、どこまでも奥が深いですね。
    久しぶりに拝読して、つくづく感じました。

    >ライバル(Rival )の語源は
    >川(River)から来ている。

    この一節が象徴しているような気がします。

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