コラム

2022年1月8日

【竹村公太郎】地形と気象が生んだ中部モノづくり -情報と閉じこもりー

風の気球
 職業を土木に選び、建設省に入って転勤を繰り返した。2年から3年間隔で、全国各地で生活した。子供時代も含め生活した都府県を北から数えると、仙台、福島、新潟、栃木、埼玉、東京、神奈川、愛知、大阪、広島そして生まれは熊本となる。もちろん出張で北海道や四国も何度も行っている。生涯、日本列島を歩き回っていた。
 転勤族の私はあることに自信を持っている。それは、全国各地を相対的に比較して観察できることだ。
 20年前に、渡良瀬遊水池で気球に乗ったことがある。その気球に乗って初めて知ったが、舞い上がった気球では風を全く感じない。それは当たり前だ。気球は風に乗っている。気球そのものが風になっている。自分たちが風になっているので、風を感じない。
 風を感じ、気球がその風で移動していることを知るのは、気球を回収するために車で追いかけている仲間たちだ。
(写真―1)は渡良瀬遊水地と気球である。
 
 この気球の例えと同じである。その土地で生きている人たちは、その歴史と文化と共に生きている。だから、自分たちの歴史と文化を意識しない。転勤族の私のようなよそ者が、その土地の歴史と文化を意識し、他の土地と相対的に比較して観察してしまう。

中部の地形
 名古屋には30代前半に2年間、40代に2年半勤務した。中部地方の河川行政に携わったので、中部の各地を歩き回った。
 その中部を表現すると、やはり中部は「モノづくり」だ。
 なぜ、中部はモノづくりなのか?不思議なこの謎を長い間抱えていたが、50歳後半になってやっと頭の中が整理できた。
 中部地方の南側は、急激に深くなる海が展開している。北側には険しい日本アルプスが連なっている。そのアルプスの山々から何本もの河川が一気に太平洋に流れ出ている。中部地方の平らな土地は、それら河川の沖積平野に点在している。
 中部の西には、京都・大阪がある。東には、東京がある。中部の最大の特徴はここにある。
 中部は地形的には海とアルプス山岳に挟まれ、社会的には関西と関東に挟まれた東西に長い土地である。
 中部のモノづくりは、この地形と地理から生まれた。

関西と関東に挟まれて
 関西は日本文明の発祥の地である。
 大和盆地の奈良で日本の律令国家が誕生した。飛鳥、奈良時代を経て、都は京都へ遷都された。その後、家康が江戸幕府を開府するまでの約800年間、京都は日本文明の中心だった。
 1603年、家康が江戸に幕府を開府した。権威の朝廷は京都に残ったが、権力は江戸に移った。19世紀末、江戸幕藩封建体制から近代国民国家への社会大変革があった。天皇家も東京へ移り、東京は名実ともに首都となった。
 2000年の日本史の中心は2極あった。関西の大阪・京都と、関東の東京である。その2極は、交互に強烈な情報を発信続けていた。
 中部はその2極の情報源を結ぶ軸上にあり、2極からの大量な情報量に影響を受けながら独特の文化を形成していった。
 

情報の拠点、関西
 古代より関西は日本史の大交流の交差点であった。

(図―1)

 西の九州から東に向かって陸路を行くと地形的に自然と京都についた。
 西から海路で東に行くと大坂湾に着いた。穏やかなこの湾は「河内」と呼ばれた。小舟に乗り換え大和川を遡ると奈良についた。淀川をさかのぼると京都についた。(図ー1)は、日本列島の古代の交流は全て京都に集まっていることを示している。
 西のユーラシア大陸から伝わってきた情報は全て関西に集まった。
 京都から東に向かうと逢坂を越え琵琶湖のほとりの大津に出た。大津から北に向かって北陸への古道、岐阜に向かって山岳の古道(後の中山道)、愛知からは水運が伸びていた。
 関西に集まった情報はこれらの古道によって東へ伝わっていった。

江戸の情報
 1603年、戦国の世を制した徳川家康は江戸で開府した。箱根を越えた東の江戸は関西から見れば桁外れの田舎であった。文明の中心地は情報を必要とする。その点から江戸は欠陥都市であった。
 徳川家康はこの江戸の欠陥を認識していた。江戸開府早々から家康は京都を結ぶ街道整備に着手した。山岳ルートの中山道と太平洋沿岸ルートの東海道であった。
(図―2)が中部を通過する地図である。
 江戸開府以来、各大名は徳川幕府への忠誠の証として、家族を江戸に住まわせた。2年に一度、大名たちは参勤交代で自領地と江戸を往復した。領主の家族や配下の元へ、様々な物産や工芸品が江戸に届けられた。
 各藩の下屋敷は、江戸湾の街道沿いに点在し、領地から届いた米や物産や工芸品を荷揚げし保管した。全国から江戸に届いた物は、江戸でミキサーのようにかき回された。そして、全国の工芸品や物産は、今度は他国に向かって流れ出て行った。
 物は情報である。物という情報が江戸に流れ込み、江戸で交じり合い、さらに全国に発信されていった。

街道の中部
 中部は京都と江戸の中間にあった。
 参勤交代は鉄道や車のように通過するだけではない。川が増水したり、山道が崩れたりすれば何日も宿の旅籠に滞在することとなった。
 何百人という参勤交代は、宿では暇を持て余し、街道の人々に様々な物や情報を得意になって披露した。西からの参勤交代は、ユーラシア大陸の珍しい産物を紹介した。江戸からの参勤交代は、江戸で入手した珍しい物産や新しい情報を披露した。
 水運も大量の船が中部を通過していた。江戸に向かう船は、各地の物産を積み込んでいた。江戸から帰る船には、江戸の瓦版や浮世絵の情報が積み込まれていた。
 船は夜になれば伊勢湾や静岡の港に停泊し港町は賑わった。中部の人々は全国各地の物と情報が居ながらにして入手できた。
 広重も中部の港に多くの船が寄港している様を描いている。
 

 
(図―3)太平洋の水運拠点の静岡港

閉じこもりの中部
 街道の宿場と水運の港で、中部は居ながらして情報を得ることができた。日本列島でこのような地方は中部だけだ。しかし、中部は情報を得ただけではなかった。中部は豊富な情報をもとに、新しいモノづくり向かって行った。
 実は、中部はモノづくりの拠点を持っていた。モノづくりの拠点は、中部の山岳地帯であった。冬、深く雪に閉ざされてしまう山岳地帯こそ、モノづくりの拠点であった。
 中部の背後には、岐阜、富山、長野、群馬に通じる日本アルプスが連なっている。春から秋にかけては、人々は中山道を行き来した。しかし、冬になるとこの山岳一帯は雪に埋もれた。
 この一帯の山岳地帯の人々は、3~4ヶ月間も雪に閉じ込められてしまう。
 世界の文明で日本文明ほどの雪国はない。ヨーロッパでも寒さが厳しい土地はある。しかし、積雪で動けなくなる土地で高度な文明は育っていない。大陸では積雪の一時時期、雪がない場所に移動すればよい。
 しかし、日本列島の山岳地帯では、雪積を避け他所へ簡単に移動などできない。雪に閉じこもるしかなかった。
 
(図―4)は、世界各地の積雪地帯に住みついている人口密度を示した。日本人は、世界の中で圧倒的に雪に閉じこもる人々であることが分かる。

閉じこもりモノを作る人々
 中部の雪に閉じこめられた人々は、何をしていたのか。毎日、酒ばかり飲んでいられない。
 彼らは囲炉裏の周りに集まった。余りある時間を使って木材を細工して、農耕具や家具を作っていた。細工が凝らされた農耕具は、沖積平野の濃尾や尾張や三河で評判が良かった。
 中部山岳には、中山道を通じて様々な情報が集まってきた。雪に閉じこめられ細工する人々は、世界中からの情報と技術に触れることができた。
 江戸時代、中山道を「時計」が通過していった。「時を刻む」機械とは想像を絶する情報であった。中山道の人々は、その仕掛けを根ほり葉ほり聞き出した。バネというモノがある。そのバネを絞り込む。バネをゆっくりリリースしていく。バネと連動している歯車が回る。歯車の組み合わせで、動きは針まで伝わり、針が動いて時の文字を示していく。
 山岳の岐阜の人々は、以前から手動のカラクリ人形を作って楽しんでいた。時計の仕掛けを知った人々は、バネで動くカラクリ仕掛けに向かった。
 バネはクジラの髭を使った。歯車は硬い木を細工した。バネと歯車を人形に組み込んでいった。人形が動きだした。動くカラクリ人形、ロボットの誕生であった。
 細工をする人は一人ではなかった。数カ月の間、人々は囲炉裏の周辺で知恵を出し合った。全員で工夫を凝らし合い、人々を驚かせる動くカラクリ人形を作った。
(写真―2)では、春の高山祭で新しいカラクリ人形が踊っている。
 春になると、人々は街に出てその人形の出来栄えを競いあった。
 農繁期になると山の人々は忙しくなる。もう人形づくりなどやっていられない。山岳で作られた農耕具や家具と一緒に、カラクリ人形は尾張や三河へ下っていった。
 雪に閉じこめられた人々が作った細工技術は、中部地方一帯の人々の共通の財産となっていった。

日本の近代産業は世界産業へ
 江戸から明治になった。日本国の最優先課題が近代工業化であった。
 中部のカラクリ人形の技術は豊田織機に引き継がれた。豊田織機の初期の機械は木製の歯車で作られていた。豊田織機の技術が、日本近代化の繊維産業を牽引した。
(写真―3)は、豊田織機の第1号の木製歯車である。
 豊田織機のモノづくりの延長に、世界に冠たるトヨタが中部で生れた。ホンダ、スズキ自動車も生まれた。三菱自動車、三菱重工部門も中部に拠点を置いていった。
 長野の諏訪地方は精密産業のメッカとなり、静岡県の浜松では様々な先端技術が生まれていった。

 これが「モノづくり中部」の地形と気象から見た物語である。
 しかし、この中部にはまだ特記する事項がある。
 中部の人々は異常に習い事が好きだ。中部の人々は、技術をすぐ標準化して広くの皆の共有物にしてしまう。これは雪の中で囲炉裏の周りに集まってモノづくりを共有化してきた伝統なのだ。
 全員参加のモノづくりの手法は効率的で、日本全体のモノづくりの手法となっていった。そしてこの日本のモノづくりの手法と習慣は、全世界にまで広がっている。
欧米の途上国への工場進出は、決められたマニュアルに従って工場が動いていく。それに対して、日本企業の工場では、製造仕様は従業員の意見を取り入れ柔軟に進化いていく。
 皆の知恵を出し合うモノづくりの日本文化は、雪の深い岐阜の囲炉裏で誕生していった。

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【竹村公太郎】地形と気象が生んだ中部モノづくり -情報と閉じこもりーへの3件のコメント

  1. tsubota より

    テレビの赤穂浪士の番組、拝見しました。
    竹村先生が登場された時、なんか嬉しかったです。
    同じテーマで研究されている方が複数おられたので、幕府の陰謀説は、ほぼ間違いないんだと思います。
    また、お話を聞かせて頂ければと思います。

    返信

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  2. ts より

    世界最古の磨製石器といい、縄文文化といい、日本人はモノづくりに特化した人種であると誇りを持っていいと思います

    返信

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  3. kw より

    東海道新幹線を送り出している日本車輌製造も名古屋だ。
    Go!Go!名ァ古屋♪ 未来のォ首都名ァ古屋♪
    北越雪譜を思わせる味があり、いろいろ教わって、とても有意義で興味深かったです。

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