From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
おっはようございまーす(^_^)/
今回もまた園芸ネタの駄文です…
f(^_^;)
先日の火曜日(3日)は、私の住む九州北部は台風7号にめずらしくほぼ直撃されました。
強風が吹き、うちのベランダのアサガオも大被害。グリーンカーテンにしようとベランダにネットを張っていたのですが、ネットにとりついていたアサガオは、風で葉が大部分ちぎれてしまいました。毎日、すくすくと伸びつつあったツルもズタズタに…。
ベランダには、ネットのもの以外に、園芸用の棚にツルを這わせていたものもあり、こちらは幸いなことにおおむね無事なのですが、ベランダのアサガオ全体の4割ぐらいがやられてしまいました。
台風が近づくと気が気ではない農家の方々の心痛がほんのわずか千分の一ぐらいかもしれませんが、わかった気がします。
植物学者の湯浅浩史氏は、日本人は世界で一番アサガオ好きな国民ではないかと記しています(『日本人なら知っておきたい 四季の植物』ちくま新書、2017年)。
百科事典などを見ると、アサガオは、中国では「牽牛花」(けんぎゅうか)などと呼ばれ、タネは薬(下剤)として重宝されていたようです。それが、奈良時代ごろ、日本に持ち込まれたと言われています。
ちなみに、民俗学者・柳田国男は、この通説に疑問を投げかけています。中国から入ってきたのは薬としての用法だけであり、アサガオ自体は、温かい南日本の浜辺などに元々自生していたのではないかと記しています(『明治大正史 世相編』)。
奈良時代ごろは、「アサガオ」という呼び名は、朝に咲く花一般を指したようですね。万葉集にも「アサガオ」は詠まれていますが、その頃の「アサガオ」はキキョウなど別の花を指すことが多かったのではないかと言われています。
平安時代ごろから、「アサガオ」が今のアサガオを指すようになったようです。
そのころからアサガオは日本人の生活に身近だったようで、いくつかの和歌に詠まれています。例えば、次のようなものです。
〇 はかなくて 過ぎにしかたを思ふにも 今もさこそは 朝顔の露(西行 山家集)
この西行の歌は、「はかなく過ぎ去ってしまった過去を思うにつけても、今現在もまた、朝顔の花の露のように、同じく無常なものであることよ」ぐらいの意味でしょうか。
アサガオは、はかなさの象徴として扱われ、好まれてきたようです。
はかなさを歌ったものではないですが、次のような恋の歌もいいですね。
〇 君来ずは たれに見せまし我が宿の 垣根に咲ける 朝顔の花(よみびとしらず 『拾遺和歌集』)
アサガオを扱った詩歌で一番有名なのは次でしょう。北陸は加賀の女性俳人・千代女(1703~1775)の句です。
朝顔や つるべとられて もらひ水
よく知られた句ですが、正岡子規はこの句をあまり好みませんでした。俳句は事物をありのままに詠むほうがいいのであって、作者の理想を詠みこむのはあまりよろしくないと主張しています(『俳諧大要』)。
子規からすれば、千代女の俳句は「もらひ水」のところが俗気が多すぎてよくないというのです。少々善人ぶっており、世間ウケを狙いすぎではないかということなのでしょう。
私には俳句のよしあしはよくわかりませんが、そう指摘されれば、確かに作者のやさしさが前面に出すぎで少々作為的な印象がないわけではありません。
江戸時代後期の文化・文政時代(1804~1830年)に、アサガオは大ブームとなります。徐々に人々は普通の花では飽き足らなくなり、突然変異的な、奇抜な色や形の「変化アサガオ」が流行し、なかには非常な高値で取引される例もあったといいます。
江戸の園芸では、前半はツバキ、サクラ、モミジ、ツツジなど花木が流行し、後半に入るとキク、アサガオ、サクラソウ、ハナショウブといった草花が流行しました。
この点について、建築評論家の川添登氏は、江戸期前半の園芸文化は、広い庭付きの屋敷をもった武士が中心だったが、後半に入ると、広く一般庶民を巻き込んでいったからだと指摘しています(『東京の原風景』NHKブックス、1979年)。
ツツジやツバキなどの花木は、ある程度の庭がないと植えられませんし、基本的に植木屋によって植えられ、手入れされたものを楽しむことが多かったのです。江戸時代前半は、園芸文化の担い手は、庭付きの屋敷に暮らす武士など上層階級が中心でした。
しかし後半の草花になると、一般庶民でも楽しめます。植木屋に頼まなくても、狭い庭や植木鉢で、自分で手入れして育てることができます。キクなどであれば狭い庭にも植えられるし、アサガオやサクラソウは路地の端でも鉢植えでも大丈夫です。
今日7月6日から、東京・入谷では、恒例の「入谷朝顔まつり」(朝顔市)が始まっています。
入谷の朝顔まつり(朝顔市)の直接の始まりは、いまから70年前の昭和23年ということですが、入谷の朝顔が有名になったこと自体は、やはり江戸末期の文化・文政の頃です。
「入谷朝顔まつり」のウェッブサイトによると、次のように書かれています。
「最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。」
(「入谷朝顔まつり」HPの「沿革」)
http://www.asagao-maturi.com/
その後、一度、廃れますが、終戦後、世の中を明るくしようということで、昭和23年に、地元有志のかたなどの努力で入谷の朝顔市は復活したそうです。
入谷の朝顔市にまつわる逸話を本で見ると、さまざまあり、興味が尽きません。
たとえば、江戸末期の下谷の植木屋に成田屋留次郎という人がいました。この人は、変化アサガオ作りやその普及に熱中し、みずから「朝顔師」と称したそうです。歌舞伎ファンで、特に市川団十郎などが好きだったのでしょう。それで「成田屋」を(おそらく勝手に)名乗っていたようです。
入谷の鬼子母神には、留次郎が「団十郎朝顔」というものを作り、市川団十郎(八代目)の似顔絵とアサガオを一緒に染めた手ぬぐいや刷物を一緒に配ったという記録が残っているそうです(小笠原亮『江戸の園芸 平成のガーデニング』小学館、1999年、74頁)。
団十郎朝顔というのは、いまでも、よく知られていますが、茶色の花を持つアサガオです。団十郎が歌舞伎の演目「暫」(しばらく)で身に付ける海老茶の衣装の色に似ているから、「団十郎朝顔」と名付けられたということです。
入谷のアサガオをみるために見物料が必要な頃もありました。上で引用した「入谷朝顔まつり」のサイトの記述にも、明治中期になると木戸銭(入場料)をとって朝顔を見せる植木屋も登場したとあります。
これについては、木戸銭がいることを知らずに入った見物客が注意されて不満に思い、そのことについて『読売新聞』(明治34年7月30日)に投書したということが、前述の川添登氏の著書に書いてありました。
面白そうでしたので、図書館にいって『読売新聞』のデーターベースで調べてみると次のような記事が確かにありました。
「今年から入谷の朝顔は、二つ三つ縦覧料をとるようになったがはなはだ俗だ。昨朝などもついうかうかと入っていくと、「もしもし見料」と云われた」。
そして、この記事の最後、次のような句で締めくくられています。
「朝顔に おあし取られて もらひ泣き」
(>_<)
当時の人のユーモアが感じられて、面白いですね。
長々と失礼しますた…
<(_ _)>
【施光恒】朝顔と日本人への4件のコメント
2018年7月7日 12:17 PM
あさ かほ
あさ かほ といへば 建礼門院右京大夫
有明の月に あさ かほ
見し折も忘れがたきをいかで忘れむ
平資盛と愛でた あさ かほ に 思いをはせつつ
朝露 より 夕露 の小生
夕露にひもとく花は
玉ぼこの
たよりに見えし
えにこそありけれ ♪
露の光やいかに?
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2018年7月7日 1:34 PM
そうでしたか。ベランダのアサガオ、これからなのに。
志賀が観賞用としてではなく、もっぱら葉を薬用に用いる目的で好んで植えていたのは有名ですね。
葉を数枚てのひらでよく揉んで、出て来た汁を虫刺されの箇所に塗ると、蚊でもブヨでもムカデでも蜂でも痛みかゆみがすぐ止まる、と随筆「朝顔」(昭和29年1月『心』に発表)でその効能を説いています。
地下鉄サリン事件の治療でも用いられたアトロピンやヒヨスチアミンなどのトロパンアルカロイドが虫刺されの鎮痛にも効果を発揮するようです。
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2018年7月10日 7:25 AM
個人的にも朝顔は大好きですね。夏の暑い時期に涼しげな気分にさせてくれます。江戸時代の日本人が朝顔作りに夢中になるのも分かる気がします
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