From 佐藤健志@評論家・作家
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先々週の「『憲法九条にノーベル平和賞を!』の賢」、および先週の「前号記事への疑問に答える」について、施光恒さんからご回答をいただきました。
一連の記事については、有料メルマガ「踊る天下国家」に結びつけすぎたこともあり、少なからぬ読者に不快な思いをさせてしまいました。
この点については、深くお詫び申し上げます。
施さんがご回答を寄せてくださったことにも感謝したいと思います。
議論を建設的に発展させる機会を提供していただいたからです。
私は施さんの主張に疑問を呈しはしましたが、攻撃する意図を持っていたわけではありません。
ただしこの点についても、不快に思われた読者がいらっしゃいます。
施さんご自身も、不快に思われているかも知れません。
これについても謝罪いたします。
けれども申し訳ないのですが、施さんと私では、やはり見解が多少違います。
今週は新しい話題にしようかとも思ったものの、11月4日の「おはよう寺ちゃん 活動中」でもこのテーマが取り上げられましたし、何よりご回答をいただいたのですから、それにたいするお返事をまとめておくのが礼儀だと思い、あらためて論点を整理する次第です。
言い訳がましいというご批判は甘んじて受けますので、おつきあいください。
施さんはまず、1974年、佐藤栄作さんがノーベル平和賞を取った際の経緯や反応について詳述されています。
要約すれば
1)佐藤栄作の受賞は護憲派左翼が推進したものではないし、
2)あのときは「非核三原則」よりも「佐藤栄作」が前面に出ていた。
3)そして佐藤栄作は、日本を「アメリカの核の傘」に引き込んだ人物と見なされていたので、
左翼護憲派は盛り上がらなかった、となります。
むろん、おっしゃる通り。
それがポイントなのです。
佐藤栄作さんが前面に出ている以上、この受賞と今回のノミネートが、相当に異なる状況のもとで生じたのは明らか。
私とて、当時の護憲派左翼が平和賞を利用する意図を持って活動しており、ゆえに受賞を喜んだはずだ、などと思っていたわけではありません。
しかし日本をアメリカの核の傘に引き込んだ人物が、非核三原則でノーベル平和賞を取ったことを思えば、
賞の権威と非核三原則を組み合わせて、「核の傘」を否定しにかかる(=政府、および日米安保体制を攻撃する)ことは可能でした。
自民党の反応すら、各派まちまちだったくらいです。
うまく逆手に取っていたら、非核三原則を絶対化する良いチャンスとなったでしょう。
けれども実際には、虚を突かれたせいもあって、みごとにチャンスを逸しました。
受賞にシラけるとか、手厳しいコメントをするくらいで、利用するところまでは思い至らなかったのです。
余談ながら、佐藤栄作さんの受賞(1974年10月8日)からわずか二日後の10月10日に、田中角栄総理の「金脈問題」が浮上したことも、護憲派左翼がチャンスを逸した要因と言えます。
10月12日にはアメリカが核持ち込みに関する公式見解を日本政府に通達、同21日に開かれた「国際反戦デー」(全国458ヶ所で230万人が参加)でも核持ち込みの糾弾が叫ばれるなど、この時期「非核三原則」を盛り上げる気運は存在したのです。
にもかかわらず、翌22日、社会党(現・社民党)の寺田熊雄議員が国会で取り上げたのは、田中総理の金脈問題のほうでした。
この経緯、今回のノミネート騒ぎと相前後して「政治とカネ」の問題が浮上したのと妙に似ているのが面白いのですが、とまれ私が提起したかったのは、
護憲派左翼にとって都合の良い結果をもたらしうる(かに見える)状況が、実際に都合の良い結果をもたらすとは限らない。
ということなのです。
今回の受賞運動は護憲派左翼が推進していますし、賞の権威を利用することを意図しています。
受賞が実現したら、彼らが盛り上がることについて疑問の余地はありません。
「1974年当時と、2014年の今回の運動を取り巻く言論の布置がかなり違う」という、施さんの主張はもっともです。
にもかかわらず、それは平和賞の受賞が、護憲派左翼に都合の良い結果をもたらすことを(またもや)保証しないというのが、私の見解なのです。
むしろ(保守派が虚を突かれたあげく、条件反射的な否定などしなければ)1974年のとき以上にチャンスを逸するというか、向こうの意図とは正反対の結果をもたらしうるのではないでしょうか。
というのも、次の点を考慮する必要があるからです。
・護憲派左翼が「九条護持」で盛り上がることと、世論、すなわち一般国民が「九条護持」で盛り上がることはイコールか。
1974年と2014年で違っているのは、ノーベル平和賞受賞(運動)をめぐる言論の布置だけではありません。
わが国の置かれた状況も、全然違います。
まず日本を取り巻く国際情勢が、冷戦の終結、アメリカの衰退、中国の勢力伸長などといった要因で、格段に不安定となっている。
次に日本社会そのものが、かつての活力を失い、国の将来にたいする危機感が強まっている。
そして安全保障に関する国民の認識は、1974年当時と比べれば、ずっと現実的になっている(このころは「国家戦略」という言葉を使うこと自体が、一般には「右翼的」「危険」と見なされていました)。
だからこそ改憲の機が、少なくとも以前に比べれば熟しつつあると評されるのです。
「国のあり方を根底から問い直さねば」という意識が、国民の間に広まっているとすれば、平和賞の受賞によって護憲派左翼が活気づいたとしても、それが国民に波及するかどうかは分かりません。
「こんな危機的な時代に、何を太平楽なことを!」と、九条を見直す気運が盛り上がることも考えられます。
それどころか(たとえば)中国が好機到来とばかり、尖閣問題などで攻勢をかけてきたら最後、「受賞運動なんてするからこうなった!」と不満が爆発する、という話にもなりかねません。
「平和賞受賞で盛り上がったせいで、護憲派左翼が大きく衰退する」ことだってありうるのです。
憲法改正が国民投票によらなければ成立しない以上、改憲に関して最も重要なのは一般国民の動向。
施さんはこれについて、こうおっしゃっています。
「最近の日本人は、悲しいかな、『世界遺産に登録』とか、『東京オリンピック開催』とか、そういう国際的な権威づけに弱いですから、ノーベル平和賞を受賞すれば、世論は9条護持にかなり傾くのではないでしょうか」
その恐れが皆無とは言いません。
しかし国民にそこまで見識や主体性がなければ、平和賞を受賞するかどうかによらず、改憲は無理と見なすべきです。
憲法九条の背後には、第二次大戦後における世界秩序の構成原理たる「ポツダム体制」が存在しています。
近年になって崩れつつあるとはいえ、国際的な権威づけとしては、ノーベル平和賞よりずっと強力です。
これに挑戦する気が国民になければ、改憲は望めません。
日本や世界の現状を直視せず、憲法を変えずにすませるほうが、変えるよりもラクなのですから。
施さんは平和賞を取った場合、改憲は5年から10年遅れるだろうと見積もっています。
しかるに憲法改正、ないし自主憲法制定は、1950年代から議論されてきたにもかかわらず(自民党は1955年の誕生当時から改憲を謳っています)、未だ国会発議にすら至っていません。
今後、発議にたどりついたとしても、国民投票で否決されたら、次に発議するまでには、かなり時間がかかるでしょう。
「ノーベル平和賞受賞のような邪魔さえ入らなければ、何年までに実現可能な(はずの)こと」とは、まだ言いがたいのです。
と同時に、国民に見識や主体性がない場合、受賞によっていったん九条護持に傾いたとしても、それが長期にわたって続くとは思えません。
あれだけ盛り上がった朝日新聞批判が、すでに一般マスコミでは下火となっているのです。
あっという間に冷める可能性のほうが高いでしょう。
たとえば、かりに今年、平和賞が取れていたらどうなったか?
鷹巣さんはじめ、推進派は有頂天になります。
左翼系のマスコミも盛り上がるに違いない。
しかし、一般国民の反応はサッパリだと思います。
多くの人々にとっては、景気の動向や、消費税率引き上げのほうがよほど切実なのです。
ついでに野党も、何も起こらなかったかのごとく「政治とカネ」にこだわるでしょう。
改憲が政治の争点としてクローズアップされているのならともかく、現時点ではそちらを追及したほうが、政権に即効性のある打撃を与えられるからです。
佐藤栄作さんが受賞した際など、核持ち込みの問題がクローズアップされていたのに、田中総理の金脈問題のほうに走りましたので。
市民団体や左翼マスコミが「九条よ永遠に!」とか騒ぐ中、国会では「盆踊りでうちわを配るのは公選法に触れるかどうか」がえんえん論じられる。
年の瀬、消費税率引き上げの結論が出るころには、一般国民は「ああ、言われてみればそんなこともあったねえ」と、受賞自体を忘れているかも知れません。
10大ニュースには選ばれるとしても、トップは取れそうにない。
エボラ出血熱の流行やイスラム国の勢力拡大、あるいはウクライナ危機のほうが上位に入るでしょう。
STAP細胞をめぐる疑惑や、朝日新聞の虚偽報道と一緒くたになるということです。
大空振りですから、護憲派左翼はこの場合でも(当初の熱狂が終わったところで)がっくりするでしょう。
やはり「盛り上がったがゆえの衰退」が待ち受けているのです。
ただしこれは、国の将来をめぐる危機感が本当に共有されないかぎり、たとえ改憲の気運が盛り上がったとしても、あっという間に冷める恐れが強いことを意味します。
つまり改憲については、国民の見識や主体性を、どこまで信頼できるかがカギなのですが、
1)信頼できるのであれば、現在の日本が置かれている状況から言って、平和賞受賞が改憲を遅らせる可能性は低いと判断できるし、逆の効果が生じる可能性もある。
2)信頼できないのであれば、平和賞と関係なく、そもそも改憲は望めない。同時に受賞により護憲ムードが高まったとしても、すぐ冷める。
と、なるのではないでしょうか?
つづいて「憲法九条」のノミネートか、「日本国民」のノミネートか、という件。
私はきわめて重要だと考えます。
憲法九条は占領下、アメリカによって(実質的に)押しつけられたもの。
逆に日本国民は、そのような形で始まった「戦後」を変えられるかも知れない存在です。
九条を改正できるかどうかも、すでに述べたとおり、国民の見識や主体性にかかっているのです。
九条と日本国民、どちらが前面に出るかは、受賞の意味合いを大きく左右するのではないでしょうか?
「九条が平和賞を取れば、改憲は難しくなり、対米依存からの脱却が遅れる」と、
「日本国民が平和賞を取れば、改憲は難しくなり、対米依存からの脱却が遅れる」を比べて下さい。
両者の論理構成がイコールとは言えないでしょう。
「日本国民の受賞」であれば、それは国民の見識や主体性が国際的に評価されることを意味します。
憲法改正は国民の選択ですから、日本国民の評価が上がるのは、改憲推進のためにも悪い話ではないのです。
つまり「『憲法九条を保持する日本国民』が、ノーベル平和賞にノミネートされる」ことには、
「日本をアメリカの核の傘に引き込んだ佐藤栄作が、非核三原則でノーベル平和賞を取る」のと良く似た、論理のねじれがひそんでいます。
「憲法九条を保持する」という枕詞がついていようと、日本国民は憲法改正の担い手でもあるのですから、保守派が賢明でありさえすれば、逆手にとって利用することは難しくないでしょう。
これもまた、「かりに受賞しても、護憲派左翼にとって都合の良い結果は生じないのではないか」と私が考える理由の一つです。
ところが「九条」を前面に出すと、このねじれが見えなくなってしまうのです。
1974年の受賞の際には、「非核三原則」より「佐藤栄作」が前面に出たこともあって、護憲派左翼はチャンスを逸したものの、その裏返しですね。
運動推進派や一般マスコミが「九条」を前面に出しているのは事実ですが、保守派にとって都合が悪く、かつ不正確な名称を受け入れる必要はありません。
ご指摘のとおり、1974年と2014年では受賞(運動)をめぐる言論の布置がかなり違うのですから、「護憲派左翼とは違う」ことが明瞭となる名称を用いるのが良いと思います。
「日本国民のノミネート」なら、字数もそう長くはなりません。
三番目に、次の点も考えます。
・憲法九条の絶対化は(かりに生じるとすれば)、日米安保体制の否定につながるため、対米依存からの脱却を促進するのではないか。
こちらも、やはり重要なポイントです。
もしそうなら、九条の絶対化を否定的にばかりとらえる必要はないことになりますので。
護憲派左翼は反米ですから、一般国民が彼らの影響で九条護持に傾くとすれば、それは一般国民が反米的になることに行き着くでしょう。
しかるに現在、アジアの国際秩序管理から手を引こうとする風潮がアメリカに見られるのを思えば、これは安全保障における対米依存の持続が難しくなることを意味するのです。
ここでも現在の状況は、1974年とはかなり違います。
当時なら非核三原則の絶対化が起きても、アメリカが日本との同盟関係に否定的となる恐れは(ほとんど)ありませんでした。
ソ連に対抗することのほうが優先されるからです。
1960年の安保改定のときなど、自民党の政治家が、反対運動の指導者にたいして「もっと激しいデモをやってくれ、その方がわれわれは今後アメリカにたいして強腰に出られる」と持ちかけていました(磯田光一「戦後史の空間」より。新潮選書、1983年)。
アメリカだって、結局は日本を(安全保障面で)切り捨てることはできないという読みがあればこその発言ですね。
とはいえ今、九条の絶対化が起きたら、アメリカは日本を切り捨てる方向に行く恐れが強い。
対米依存は、したくてもできなくなるのです。
これと表裏一体をなすのが、
・憲法改正が、対米依存からの脱却を促進すると無条件に見なして良いか。
という点。
日本の「保守」(=できるだけ望ましい状態を維持すること)や自立にとって、改憲は手段であり、目的ではありません。
しかも改憲は、手段としてすら「万能の特効薬」ではありません。
最近、亡くなられた岡崎久彦さんの「日米一体化」論ではありませんが、九条を改正し、より積極的な安全保障政策を取れるようにした結果、日本が現在以上にアメリカの戦略に同調し、「対等なパートナー」を名乗りつつ依存を深める事態だって起こりうるのです。
というか、現状ではそちらの可能性のほうが高いのではないでしょうか?
「早く改憲しないと、日本は取り返しのつかないことになる」という考え方は、保守派に人気があります。
けれども真に重要なのは、対米依存からの脱却であり、それを通じた日本の自立だとすれば、「改憲したせいで取り返しのつかないことになる」可能性も無視できません。
非現実的な観念論であろうと、憲法九条は「日本とアメリカの間に一線を画す」役割も果たしてきたのです。
よって九条を否定することには、アメリカとのさらなる一体化を促すリスクもひそんでいると言わねばなりません。
すなわち日本の保守、ないし自立には、二つのシナリオがあるというのが私の考えです。
1)九条の否定→対米依存から脱却する形での改憲→進んで自立。
2)九条の絶対化→改憲とは無関係に対米依存ができなくなる→否応なしに自立。
施さんのおっしゃるとおり、日本国民は賢明でもありますから、後者が生じた場合、あっさり「九条の絶対化」を取り消して、積極的な安全保障政策を追求するでしょう。
ゆえに(2)のシナリオも、実質的に(1)と同じ結果にいたるのです。
どちらのシナリオも、
3)九条の否定→対米依存を深める形での改憲→自立の回避、ないし失敗。
と比べたとき、日本にとってプラスだと思うのですが、いかがでしょうか?
ちなみに申し上げておきますと、
この記事の議論は、「踊る天下国家」の第二号「憲法九条がノーベル賞を取る日」で展開したものとは、内容がまた異なります。
「憲法九条を保持する日本国民の平和賞ノミネート」というテーマは、いろいろな角度から論じることができる面白いものなのです。
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【佐藤健志】日本自立への二つのシナリオへの8件のコメント
2014年11月5日 3:57 AM
あまり論理的な意見ではないのですが、率直な気持ちを申しますと、憲法9条でノーベル平和賞もらうなんて、嫌、かな・・。 もし賞を頂いたら、事情を知らなかった外国の方々にまで知らしめる事になり、きっと「日本の憲法ってこうなの?うわあ・・ゾッコクー。これが誇らしいのかあ。日本人がノーベル賞級かどうかは判らないけど、天然記念物ではあるね!」と言われそうな気がします。 こんな形で恥を拡散したくないような・・。 そして、「これが日本の憲法なんだ」と国内外に認識させ、決定づけてしまう危険もありうるので、危険があると感じる以上は、受賞という変化を起こさずにいた方が良いように思うのです。 以前、東田剛先生が、憲法とは何かについて、その国の国柄そのものである、という意味の事を書いていらっしゃいましたが、今の日本が日本としてのコモンセンスに満ちていれば、自ずと定まる事なのかもしれません。もしそうなれば、西部先生が仰るように「17条憲法」でも良い位かもしれませんね。 70年近く現行憲法が続いた事で、表面的にはこれが国柄みたいになっていると言えるかもしれませんが、これは私たちにとって本来的ではないという、落ち着かなさもあります。
2014年11月5日 6:29 AM
↑ゆきこさんこそ、そんな低俗なコメントスルーすれば良いのでは?こちらは物書きでもありません。延々と苛立たせる文章を送りつけられた被害者でもあります。あなたのようになにもかも分かっていないから三橋メルマガを購読はじめたばかり。三橋氏の他は名前も知りません。とにかく届くものすべて目を通しているところ。なぜそれを批判されるのか?あなたはたいそうエライのだろうが自己中でしょう。ワタシのような低俗な人間のことは理解できないと切り捨てているのですね。そんなゆきこさんに横から知ったかぶりで批判される筋合いはないと考えます。この記事の内容へのコメントでもない横ヤリだけのゆきこさんのコメントのほうが余程不愉快ですよ。
2014年11月6日 4:22 AM
ノーベル賞の「平和賞」のうさん臭さ自体を、ネットを通じて広めれば良いな。(ノーベル家も「平和賞」の存在に苦言を呈してるというそうだし)そうすれば、この議論は消滅。
2014年11月7日 1:52 PM
お気に召さないのか何なのか、ちょっと低俗なコメントが散見されますね。嫌なら読まなきゃいいのではないかと思いますが。大体どなたの記事が何曜日に配信されるか決まっているのだし、最初に書かれた方の名前も入っているのだから、避ける事は可能な筈です。佐藤氏の主張等よりも、ヒステリックな反応をする一部のコメントの方が、余程不愉快ですよ。
2014年11月9日 7:40 AM
私はエンジニアであり、市場で製品を販売する人間です。組織運営やマーケティングの知見を用いてコメントしたいと思います。> しかし国民にそこまで見識や主体性がなければ、平和賞を受賞するかどうかによらず、改憲は無理と見なすべきです。自ら探求して情報を得て、自分なりの理論で行動できる人は、そう多くありません。全体の数%〜十数%です。ほとんどの人は「どの意見に従うのが正しいか」という主体性で動いています。これは日本人が賢いか、賢くないかと言う問題ではなく、集団とはそういう傾向を示します。この数%〜十数%の行動を集団のマジョリティに波及させるのが最も難しいと言われています。最もパワー、トリガー、時には運が必要です。誰しも、日米構造や米中関係などを理解しながら憲法改正を判断しているわけではありません。みんな仕事、家事、自分の生活に忙しいのです。改憲派がマジョリティを引き寄せるには、ノーベル平和賞受賞以上の大きな武器が必要ですが、それがあるようには見えません。大きな犠牲を払う事件が起きれば可能かもしれませんが、私はそれを望みません。> 九条と日本国民、どちらが前面に出るかは、受賞の意味合いを大きく左右するのではないでしょうか?ここからはマーケティングは関係なくなりますが、私は、改憲は次世代に跨る長い話になると思っています。そこで教科書は問題にならないでしょうか。昨今の中国漁船の記事はきっと教科書には載りません。しかし、ノーベル平和賞はきっと載ります。佐藤栄作さんのノーベル平和賞受賞は授業で習いましたが、ほとんどの人が「非核三原則により日本人がノーベル平和賞を受賞した」と覚えているはずです。こちらが前面に出ていたと思います。施さんは、5〜10年遅れると書かれていましたが、一世代遅れる危険すらあるのではないでしょうか。
2014年11月11日 7:34 AM
施氏への誹謗中傷に対する名誉棄損は既に成立している。この件についての謝罪はまだだろうに。早めに埒を開けろよダンス。
2014年11月12日 4:57 PM
はぁ〜(溜息)。また遠回しなM島さん批判をしているのですか。いつまで続けるのでしょうか。
2014年11月14日 12:49 AM
第一に皇室の存在、そして日本国民の生命と財産並びに領土を守るという観点から、法の法たる憲法すなわち日本国憲法は構築されていなければなりません。今の日本国憲法はそうなっているでしょうか。?「公正と信義」など他国に求めること自体がお人良しです。?法を担保するものは物理的強制力であり、国際社会において「世界警察」というものが存在しない以上、自ら(自国)の事は自ら守るしかありません。ところが第9条ではそれを否定しています。この??を否定する、日本国民の生存を確保しようとしないこの憲法はそれこそ「違憲」ではないでしょうか。その違憲な第9条がノーベル平和賞(あれっ、世界遺産だったか)などということを論じること自体ナンセンスだと私は勝手に思っています。追記:今回の施先生と佐藤先生の論争に「ものの論じ方はこうあるべき」というものを感じました。日本のマスコミはみならうべし!