From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
————————————————————–
●三橋貴明の無料動画「日本企業が中国から撤退する本当の理由」
https://www.youtube.com/watch?v=Wzz3dqOIGrY
————————————————————–
おっはようございま〜す(^_^)/
先日、福岡県久留米市にある石橋美術館に行ってきました。もう終了してしまったのですが、「からくり儀右衛門展──久留米発ニッポンのものづくり」という催しを見てきました。
http://mainichi.jp/feature/news/20131127ddlk40040347000c.html
「からくり儀右衛門(ぎえもん)」こと田中久重(たなか・ひさしげ)(1799-1881年)は、幕末から明治にかけて活躍した技術者です。
田中久重は、べっこう職人の家に生まれ、幼いころから手先が器用で、地元・久留米の神社などでからくり人形の屋台を上演し、大好評を博したそうです。からくり人形師として大坂・京都に赴き、そこでも大評判となりました。
その後、久重は、からくり人形だけでなく、人々の実生活に役立つものも作ろうと志します。そして和時計や懐中燭台(携帯用ローソク立て)、無尽灯(空気の圧縮を利用し、灯油を自動補給するランプ)などを制作します。
50歳を過ぎてからは、佐賀藩や地元・久留米藩などに招かれ、各藩が進めていた近代化事業に協力し、製鉄や、大砲、蒸気船などの製造に尽力します。75歳のときには、こんどは東京に進出。銀座に店舗兼工場を構え、「万般の機械考案の依頼に応ず」と広告を出し、電信機などを製造、販売しています。
銀座のこの店舗兼工場は、現在の大手電機メーカー東芝の前身となりました。田中久重は、東芝の創業者の一人でもあるんですね。
今回の石橋美術館の催しでは、からくり人形や和時計、無尽灯などたくさんの展示があり、からくり人形の実演会もあり充実していました。
また、久留米の地元の小学校の子どもたちの模造紙での案内などもたくさん貼られていて、地元の偉人を大切にしとるなあとうれしくなりました。
(^_^)
田中久重の生涯のなかで一番興味があるのは、佐賀藩に招かれた時代(1853〜1863年ごろ)です。
佐賀藩は、それ以前から(1844年ごろから)、藩主・鍋島直正などのリーダシップのもと、西洋式の科学技術を導入し、製鉄や大砲づくり、蒸気機関の研究を開始していました。久重は頼りになる助っ人として呼ばれたわけです。国産初の実用的な蒸気船「凌風丸」やアームストロング砲などの銃火器の製造などに取り組んでいます。
同じころ、鹿児島の薩摩藩も、佐賀藩よりも少し遅れたようですが、近代化事業を開始していました。
私は数年前に訪れたことがあるのですが、鹿児島の錦江湾に面し、もくもくと煙をあげている桜島を臨む風光明媚な庭園・仙巌園(磯庭園)のなかに尚古集成館という博物館があります。集成館は、薩摩藩の上記のような近代化事業が行われた実験工場の跡です。
http://www.shuseikan.jp/
1851年に藩主となった島津斉彬(しまづ・なりあきら)公のイニシアティブのもと、薩摩藩は、佐賀藩と同じように、集成館を中心拠点として、西洋の最先端の技術の摂取に努め、製鉄、蒸気機関、ガラス製造などの研究を進めました。そして大砲、軍艦、ガラス製品など、当時の先端技術を用いたものの製造を試みました。
1850年代後半ごろの最盛期には、集成館の工場群では、1200人もの人々が働いていたそうです。
なぜ、佐賀や薩摩などの九州の諸藩が、西洋の科学技術を積極的に取り入れる近代化事業に熱心だったのかといえば、現在でいうところの安全保障意識(国防意識)が高かったからだといえそうです。
佐賀藩は、福岡藩とともに、江戸時代には長崎の警備を担当していました。幕末が近づくにつれ、外国船が近辺に出没するようになり、国防が現実的な問題として意識されるようになっていきました。
また薩摩藩も、当時、琉球やその近海を実質的に統治していたこともあり、1800年代前半の相次ぐ外国船の接近に大きな驚異を感じていました。
ペリー来航(1853年)以降になってはじめて、幕府は、欧米列強の脅威を徐々に現実的に感じ始めるわけですが、そのころには、佐賀藩は、すでに近代化事業に着手してから10年近くたっており、製鉄や大砲づくりに成功していました。薩摩藩も、同様だったようです。
佐賀藩や薩摩藩は、黒潮に乗って現れる欧米列強の船を、現実問題として捉え、国防力強化の必要性を幕府にだいぶ先んじて、実感していました。それで、平和ボケしていた幕府に頼らず、独自に、近代化事業に取り組み始めていました。国防の観点から、西洋の近代的な技術や産業を取り入れ、日本の国力を増強していかなければならぬ、と考えていたわけです。
近代化事業に取り組み始めた薩摩藩主・島津斉彬は、「西洋人にできて、佐賀人にできて、薩摩人にできないわけがない!」という趣旨のことをつねづね述べていたそうです。
この気概、いいですよね。さすが武士!
他者を当てにせず、科学技術のはるかに進んだ当時の欧米諸国の脅威もものともせず、「俺たちにだってできるはずだ!負けるものか!!」というわけですから。
また、佐賀藩にしても、薩摩藩にしても、実際に、当時の西洋人も驚くほどの質の高い鉄や大砲や蒸気船などを作り上げたのも、たいしたものだと思います。江戸末期の佐賀、薩摩両藩の組織力、団結力、そして田中久重をはじめとする在野の職人の向学心、探究心、技術力は、かなりのものだったのでしょう。
こういう日本の歴史を、現在、もっと思い出したらいいんじゃないかなと思います。
現在の状況だと、やはり九州・沖縄のほうに、外国から日本の安全保障を脅かそうとする怪しい船がやってきます。欧米からではなくて、中国からの船ですが。
少々情けない、へんなたとえで恐縮ですが、このままいくとごく近い将来、安全保障に関しては、幕末の九州は現在の日本で、幕府がアメリカというような構図が生じるかもしれません。
つまり、国防に関して頼りになるかなと思っていたアメリカは、最近の動向から判断するに、どうもあまり頼りになりそうもありません。近年のアメリカは、東アジア情勢について、正直なところ「関わるのが面倒くさいし、東アジア諸国の性格についての現実的認識も実はもっておらず、よく知らない」といったところではないでしょうか。
そして、「とりあえず先延ばし。もめ事さえ起きなければ、どっちに理があるかなんかは関係ない」という態度をアメリカはとり続けるように思います。まあ昔の幕府と違って、現代のアメリカにとって東アジア情勢など、実際にヒトゴト以外のなにものでもないですからね。
日本は、現在のところまだ「平和ボケ」から抜けきっておりませんが、地理的に中国など東アジア諸国に近いだけに、それに当たり前ですが当事者なので、ホントにごく少しずつですが、現実的感覚を取り戻す方向にさすがに向かうのではないかと思います。
べつに、やみくもに国防力増強に舵を切れ!などと言いたいわけではありません…
ただ、幕末の九州諸藩が徐々に身に付けていった、国際情勢に対する冷厳な認識や危機感、他者を当てにせず独力でできることはするという独立心、まさかの事態に備えて準備をするという用心深さ、自分たちもやればできるという自信、万難を排しやるんだという気概、こういうものは、幕末の佐賀藩や薩摩藩から大いに学べるのではないかと思います。
ちなみに、先日、昭和ひとケタ生まれのかたから伺ったのですが、戦前の「修身」の教科書には、田中久重が、題材にあがっていたそうです。
どういうふうに描かれていたのかまだ調べていないのですが、現代でも、田中久重のことを小学校などで教えるのは、なかなかいいですよね。
探究心や科学技術の大切さでも、己の技術に誇りを持ちそれを怠らずに磨いていく職人意識でも、創意工夫で他者を喜ばすことの素晴らしさでも、独立心や国防意識の重要性でも、あるいは郷土愛についてでも、田中久重の生涯から学ぶことは現代でもとても多そうです。
あれれ、結局、まとまらないままですが、今回はこの辺で。
長々と失礼しますた…
<(_ _)>
PS
月刊三橋1月号のテーマは「日本経済激震」です。2/10まで無料お試し音声を公開中
http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_D_1980/index2.php
<施 光恒からのお知らせ>
柴山さんとイベントをします
http://www.kinokuniya.co.jp/contents/pc/store/Grand-Front-Osaka-Store/20140121095000.html
ものづくりの社会的基盤をこわされないために。
http://amzn.to/1aao2uo
【施 光恒】「からくり儀右衛門」から学ぶことへの2件のコメント
2014年1月24日 5:02 PM
実に当を得た観察とご意見、いつもながらありがとうございます。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年1月25日 7:23 PM
アヘン戦争の情報が入って以降、幕府も西洋式軍備研究を行っており、西洋式訓練や徴兵制度を導入して、国防に当たらせることも検討されていました。海外の情報の入手と分析にも熱心で、欧米列強が不平等条約を結ばせることで、弱小国を支配下に置く手口を熟知していたので、条約を結ぶことについて、あれほど内部でもめたわけです。決して、幕府全部が、危機意識がなかったわけではなく、そうした人達が主流にならず、それどころか足を引っ張るものたちがいたのです。現に、西洋式砲術導入に熱心だった人は、失脚しました。本当の敵は、内部にいるものであることを示唆していると言えるでしょう。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
コメントを残す
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です