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2023年11月11日

【竹村公太郎】どうする家康!―荒ぶる戦国大名の統治―

 ずいぶん以前、
モンゴルの経済協力に
力を注いでいる先輩と
話をしていて印象に残る言葉があった。
モンゴルには
『馬を疾走させ征服するのは簡単だ。
しかし、馬を降りて統治するのは難しい』
という諺があるという。

 徳川家康は1600年に
関ケ原の戦いで勝利し、
1615年に大坂夏の陣で
豊臣家を完全に滅ぼした。
徳川家康にとっては、
まさにモンゴルの
あの諺が頭の中を占めていたことだろう。

 血の臭いをただよわせている
戦国大名たちを、
家康はどうやって統治するのか!

最終戦に向けての親藩配置
 関ケ原で勝利した徳川家康は、
大坂城の豊臣家との最終戦を想定し
徳川親藩の配置を行った。

 1602年、
水戸の佐竹氏を秋田へ移封し、
徳川の第5子武田信吉を経て
1609年第11子の
徳川頼房(よりふさ)を水戸に配した。
水戸徳川家は、東北の伊達政宗と
豊臣家の盟友上杉家を
けん制するものであった。
奥州街道・日光街道
そして水戸街道の押さえと、
鹿島港と東北地方間の海上水運の
押さえを狙ったものであった。

 1606年、尾張名古屋に徳川義直を配した。
尾張徳川家は、
日本列島の東西の自由な交流を
制限するものであった。
中山道と東海道の陸路の抑えと、
伊勢湾と三河湾の
海上水運の押さえであった。
 
豊臣家が構えた大坂城に隣接する
紀伊の和歌山には浅野家を配した。
浅野家は長く織田信長、
豊臣秀吉に仕えてきたが、
浅野幸長(よしなが)は
関ケ原の戦いで
徳川家康に仕えて活躍した。
家康は浅野幸長に
37万石を与え紀伊国和歌山に配した。
大坂の陣で豊臣家が滅んだ後の1619年、
浅野家は42万石の広島の
安芸・備後に移封され、
紀伊和歌山には家康の
十男の徳川頼宣が入城した。
紀伊徳川家は日本最大の
水運拠点の大坂湾を制することとなった。


 (図―1)は江戸時代の主要な街道と
御三家の関係、


(図―2)は水運網と御三家の関係を示した。

天下制覇直後の命令、武家諸法度
 1615年、
大坂夏の陣で家康は豊臣家を滅ぼした。
同年、徳川秀忠は伏見城に
全国の大名たちを集めて
武家諸法度を発布した。
家康は征夷大将軍を
長男の秀忠に譲っていたが、
実質の命令者は家康であった。

 武家諸法度は家康による
天下統治の法律と一般に云われている。
本物は条文形式ではないが、
条文形式にして口語で紹介する。
(口語訳はRekisiru編集部一橋京藤一葉)

武家諸法度
1条:文武両道に励む
2条:酒や遊びをつつしむ
3条:法令にそむいたものを匿わない
4条:家臣が反逆や殺害を働いたら追放する
5条:他国の者を雇わない
6条:居城を補修する際は必ず届ける、新築厳禁
7条:隣国に不審な動きがあれば幕府に報告する
8条:勝手に婚姻を決めない
9条:参勤作法を守る
10条:身分をわきまえた服装をする
11条:身分が低い者は輿に乗らない
12条:質素倹約に努める
13条:政務は適格者を選ぶ
 
 まだ大坂城の戦火の臭いが
漂っているこの時期、
武家諸法度が発せられるので
大名たちは緊張していたことだろう。
しかし、この武家諸法度を聞いて
固い心がホッと
緩んで行ったに違いない。
「文武両道」「酒をつつしめ」
「犯罪者の追放」「参勤作法」
「身分の服装」「輿に乗るな」
「質素倹約」「政務は適格者」の条文は
反対するようなものではない。
「勝手に婚姻決めるな」は
秀吉時代から命令されていた。
血なまぐさい150年の戦国の幕を下ろす
命令にしては間が抜けていた。
外様大名になる
毛利、島津、前田、
伊達、浅野、加藤、藤堂家らも
安心して家康に頭を下げ受け入れた。

 これは家康のトリックだった。
ユルユルの命令書の中に
第6条が忍び込んでいた。
ゆるい武家諸法度の全体が
第6条を隠していた。

 
家康の仕掛け
 13条の中の第6条は異質である。
6条は武士のたしなみでもなければ、
とらえどころのない
人間関係の約束事でもない。
6条だけが極めて具体的な
インフラに関する禁止事項である。

 福島正則がこれにかかってしまった。
福島正則は豊臣秀吉に従って
戦ってきた戦場の英雄であった。
山崎の戦、賤ケ岳の戦い、
小牧長久手の戦い、四国征伐、
九州平定、文禄の役と名をはせた。
石田三成との仲が険悪になり、
会津成敗から家康方となり、
関ケ原の戦いでは宇喜多勢との戦いで
大きな戦果を挙げた。
関ケ原の戦い後、
家康から広島安芸・備後50万石を
得ていた有力大名であった。

 1619年、台風で破壊された
広島城を無断修繕してしまった。
武家諸法度違反に問われ、
戦国の雄・福島正則は
信濃国川中島の
高井4万5千石へと左遷移封された。

 城の改築、新築がなければ
戦いなどできない。
武家諸法度の第6条は
戦争に対する
絶対的な禁止命令であった。

 1615年の武家諸法度の翌年、
徳川家康は明朝以外の入港は
長崎・平戸に限定する命令を発した。
3代将軍家光による
鎖国令の実質的な実施が
この時から開始された。

 家康は大名たちに戦いを禁じた。
海外との交易も禁じた。
つまり大名たちの膨張する欲望を
完全に封じたのであった。

 150年間、大名たちは
領地拡大に血を流し戦い続けた。
国内の領地拡大が困難になると
朝鮮半島まで膨張していった。
家康は、その戦国大名たちの
限りない膨張欲望を抑え込む
という極めて危険な道を選んだ。


(図―3)は日本列島の流域分布であり、


(図―4)は全国大名の配置図である。
膨張したい大名たちを流域に抑え込む危険を、
家康はどう解消しようとしたのか?

家康の全国統治の旗印
 家康はある壮大な社会実験に成功していた。
日本で最初の
大規模農地開発の
「二ヶ領用水」であった。

 関ケ原の戦いから
遡ること10年前の1590年、
徳川家康は豊臣秀吉に江戸へ幽閉された。
江戸の西に広がる武蔵野台地には河川がなく、
米が獲れない不毛の地であった。
江戸城の東には荒川、利根川が
流れ込み広大な干潟を形成し、
江戸湾の海水が満潮のたびに
逆流する不毛の土地であった。

 日本列島を見まわして、
江戸ほど悲惨な土地はなかった。
江戸に押し込められた徳川家康は、
一日も早く3万人の部下たちを養う
農地を必要とした。
結局、多摩川と鶴見川が合流する
氾濫原の砂州を開発することにした。


(図―5)は、
21世紀現在の川崎の地形図であるが、
かつては多摩川と鶴見川の
合流地点で砂州が
広がっていたのが分かる。

 関ケ原の戦いの3年前、
1597年、家康は小泉次太夫に命じて
多摩川で大規模な農地開発を命じた。
二ヶ領用水は関ケ原の戦いの休止を経て
1611年に完成した。


 (図―6)は、二ヶ領用水の全体図である。
取水は上河原堰、宿川原堰から行われ、
上流の稲毛領37村、
下流の川崎領23村で
約32㎞の大規模な
水路網が張り巡らされた。
二ヶ領用水は日本史上で
最初の大規模農地開発となった。
二ヶ領用水で収穫した米は
稲毛米として、
江戸市民に供給されていった。

 徳川家康はこの二ヶ領用水を、
参勤交代で江戸に来る
大名たちに見せつけた。
流域の中に封じ込められた大名たちは、
流域の尾根を超えて
領地を広げることを禁じられた。
海を越えて海外に
向かうことも禁じられた。
大名たちはこの二ヶ領用水を
見て目を剥いた。
外に膨張しなくても、
自領内の流域で新田開発は
可能と思われた。
新田開発に関して
江戸幕府の制約は全くなかった。

 新田開発が大名たちの旗印となった。

大名たちの新田開発
 大名たちは、
まず小規模の川で堤防を築造した。
乱流している流れを
堤防の中に押し込めると、
旧河道が豊かな農地になった。
川の水の取り入れと
農業用水路を建設した。
その経験を経て、
大きな川でも堤防を築き、
取水堰と農業用水路を整備していった。

 戦いのない平和な江戸時代、
日本中の全ての流域で
農地開発が行われた。
日本列島の米の生産力は
急速に増大していった。


 (図―7)は、
日本の1千年の耕地面積の変遷と
人口増加を示す図である。
戦国時代までは農地の変化はない。
江戸時代に農地開発が一気に行われ、
豊かさが実現し、
それに伴い人口も急激に
増加していることが明瞭に分かる。

 江戸時代、
大名たちは流域に封じられた。
流域から外への膨張を禁じられた。
日本人のエネルギーは
流域の農地開発に向かった。
その結果、血を流す
領地の奪い合いの闘争より
遥かに大きい豊かさを実現した。

 家康の統治の方針は
後世になって明確になった。
1611年、家康は二ヶ領用水開発に成功し、
1615年の武家諸法度に
第6条を忍び込ませた。
家康は精神的条項で
戦国大名を縛れるとは
思ってもいなかった。
統治はインフラが鍵であることを
知っていた。

 江戸時代は幕藩封建体制と云われている。
インフラ屋の私から見ると、
流域に大名たちが封じられたこの時代を
「流域封建制度」と呼びたくなる。
家康は豊かさに向かわせたことで
大名たちの統治に成功した。
 
 家康の荒ぶる戦国大名たちの統治は、
21世紀現在の世界緊張の
解決の方向性を示している。
・江戸防衛を万全にした
・大名たちを流域に封じて、膨張を禁じた
・流域内の新田開発は自由にして豊かさに向けた

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