From 竹村公太郎@元国土交通省/日本水フォーラム事務局長
日本の近代化の謎
東日本JRの品川駅と田町駅の間に、天井が異常に低いトンネルがある。高さ制限は1.5mとなっていて、幅も狭く車は一方通行である。社名マークを屋根に乗せているタクシーは、天井を擦りそうに走っていく。
(写真―1)筆者撮影
(写真―1)が、トンネルを通過していく人々と自動車である。
このトンネルは第一京浜と海側を連絡する大切な通路となっている。
このトンネルの生まれ素性は分かっていない。JR東日本の電話相談に聞いても「あれは道路トンネルなので分からない」という。道路管理者の東京都の芝浦港南総合支所の土木係に聞くと「トンネルを造ったのは旧国鉄で、東京都はそれを引き継いだだけ。JRに聞いてくれ」という返事が帰ってくる。
鉄道も道路も、あの低いトンネルは自分の責任ではない、と言い張っている。
このトンネルは生みの親を失った孤児のトンネルである。
実は、この道路構造令違反の低く狭いトンネルは、日本の歴史の生き証人である。海の中を走る蒸気機関
1853年、米国のペリー提督は黒船で日本人の前に現れた。その黒船の動力は石炭を燃やした蒸気であった。熱が乗り物の強力な動力になることに日本人は心底から驚き、欧米文明に圧倒された。
明治5年(1872年)、その蒸気機関は、近代文明の象徴の汽車となって日本に登場した。多くの絵師がその蒸気機関車を描いている。
(図―1)東京品川海辺蒸気車鉄道之真図景 広重(三代)
その1枚が(図―1)の三代目広重の「東京品川海辺蒸気車鉄道之真図景」である。
旧東海道、今の第一京浜を多くの人々や馬車が行き交っている。その向こうの土手を、蒸気機関車が煙を吐いて優雅に走っている。この土手は海の上にあった。一艘の小さな漁舟が、そのトンネルを潜ろうとしている。海の中に土手を築いたため、漁にでる舟のためのトンネルが必要であったのだろう。
ここに描かれている小さなトンネルが、JR線の品川と田町間のあの不思議な小さなトンネルである。
あの孤児のトンネルの誕生を、広重はしっかり描いていてくれた。
何故、海の中を走るのか?
何故、日本最初の鉄道線路は海岸の中に造られたのか?
その謎の答えは江戸末期の古地図を見れば推定できる。
(図―2)出典:須原屋茂兵衛版
江戸末期の古地図の高輪周辺を(図―2)に示す。旧東海道筋には薩摩藩、肥後藩、細川藩、紀伊松平など名門の大名たちの屋敷がびっしりと建ち並んでいる。
ここに居住していた旧大名たちから、黒い煙を吐く機関車が藩邸の横を通るなどとは絶対に許さない、と反対の声が上げた。
やっかいな用地問題に遭遇した鉄道事業者、突拍子もない案を出した。海の中に土手を築き、その土手の上に蒸気機関車を走らせるというものであった。何しろ海の中に人は住んでいない。漁業を営む漁民はいたが、小舟が通れるトンネルを土手に設ければよい。
こうして蒸気機関車は旧大名たちの邸を迂回して、海の中を走ることとなった。
この海という地形を克服した蒸気機関車は、日本社会の大転換を招いた。
地形が支えた江戸の封建社会
日本列島は極めて特徴的な地形を持っている。
列島中央には脊梁山脈が走り、その脊梁山脈から日本海と太平洋に向かって無数の川が流れ下っている。日本各地は山々と海峡と川で分断されていた。平野といえば、河川の河口の湿地の沖積平野であった。人々は稲作のため盆地や沖積平野に住みついたが、これらの土地は山々と海峡と川で分断されていた。
江戸幕府はこの地形で分断された流域に大名たちを封じ込めた。大名たちは与えられた流域で堤防を築き、川から水を引き、農地を開発していった。領地は流域地形で分けられていたので、領地を開発しても隣国と衝突することなかった。
流域に封じられた大名たちは、新たな富を拡大し、地方権力を確立していった。
強固な「流域封建」の社会体制であった。
この強固な流域封建社会こそ、次の近代化の幕開けにおいて最大の障害となった。
封建から中央集権への脱皮
幕末から明治にかけて、鎖国を解いた日本は常に欧米列国の植民地化に曝されていた。彼らはアフリカ、中東、インド、東南アジア、太平洋諸島そして清国を次々に植民地にしてきた。
彼らの植民地政策の原則は「分割統治(Divide and Rule)」であった。
その国の権力層の亀裂を拡大させ、地方間の疑心暗鬼を増幅させ、内戦へ誘った。内戦で体力が消耗したころ、傀儡政権を擁立しその国を支配していく。それが植民地化の手法であった。
日本も分割され植民地化される瀬戸際にあった。欧米列国にとって、日本の幕藩封建体制は絶好の条件であった。各地の地方権力者を分断させればいい。内戦を起こさせればいい。
明治新政府にとって、日本国内の分裂内戦は絶対避けなければならなかった。地方の大名の権力を解消し、中央集権の国家を作らなければならない。全国に分散していた権力と富を首都・東京に集中させ、一丸となって国民国家を構築していかなければならない。
日本の封建社会は、海峡と山々と川で分断された流域の地形に適応していた。この流域地形で形成された強固な地方主義から脱皮しなければならない。
明治新政府にとって、廃藩置県は最も重要な政治課題となった。政権を担った西郷隆盛や大久保利通が、廃藩置県の困難な政治課題の渦中で苦闘しているときに、これをインフラから実現しようとする人間が現われた。その海峡と山々と川で分断されていた流域地形を貫き、東京へ人々が集るインフラ装置である。
それが蒸気機関車であった。
鉄道の衝撃
この鉄道計画を推し進めた中心人物は、大隈重信と伊藤博文であった。
さかのぼる10数年前の1855年(安政2年)、佐賀藩はアルコールで動く全長30cmの模型蒸気機関車を日本で初めて製作していた。当時、17歳の若き佐賀藩士だった大隈重信は、この模型蒸気機関車を驚きの眼差しで目撃していた。その大隈重信は、日本の近代化にとっての鉄道の必要性を確信していた。
蒸気機関車の計画は明治維新になって具体化した。当初計画は東京~京阪神のルートであった。しかし、あまりにも費用がかかるため新政府内の了解が得られなかった。
これを突破するため首都・東京と開港した横浜間の29km間を敷設することとした。1869年(明治2年)、西郷隆盛や大久保利通の新政府もその計画をしぶしぶ認めた。
建設区間を新橋と横浜間に短縮したとはいえ新政府の財政は困窮していた。大隈重信は日本では最初の債権を英国で売り出し、どうにか建設資金を確保した。英国の技術を導入し、新橋と横浜間の鉄道が実現したのだ。
多摩川橋梁 六郷蒸気車往返之全図 三代広重1871年(明治4年)出典:恵の本音
蒸気機関車を見た日本人たちは心から驚いた。蒸気機関車は東京と横浜をたった1時間で結んだ。多摩川や鶴見川を1分もかからず越えてしまった。それまでの多摩川や鶴見川は、地域を分ける厳然とした境界であった。蒸気機関車はその河川をあっけなく渡り、河川の境界としての機能を消し去ってしまった。
大久保利通の凄さは、この鉄道の社会的な衝撃性を一瞬にして理解したことだ。あれほど鉄道に反対した大久保利通は、鉄道に乗車した日の日記に「百聞は一見にしかず。愉快に絶えず。鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」と記述している。
その後、大久保利通は一気に鉄道建設への投資に舵をとった。
明治22年、新橋から名古屋、京都、大阪、神戸までの全線が開通した。明治24年、上野から福島、仙台、盛岡、青森までの全線が開通し、偶然に、その年に日本帝国議会が開催されこととなった。
新橋―横浜間の開業からわずか30年余りで、鉄道網は北海道から九州まで7000kmを突破した。
流域は江戸の封建社会を支えていた。流域に分断されていた日本列島は、鉄道によって貫かれ1つに結ばれてしまった。
目の前を横断していく蒸気機関車を見て、人々は自分たちの人生を流域に閉じ込める時代は終わったことを理解した。
(図―3)河川流域に横穴をあけた鉄道 作図:筆者
(図―3)は東京へ向かう鉄道網。
全国の人材と資金が、鉄道に乗って東京へ、東京へと集中していった。
日本は封建制度から一気に中央集権国家に変身した。人材と資金を東京に集中させた民族は強かった。
団結して企業を起こした。口角泡を飛ばし議論をした。そして、世界史の最後の帝国国家に滑り込んで行った。
明治5年、新橋で汽笛一声が響きわたった。
その汽笛は、日本人が慣れ親しんできた流域封建社会への別離を告げた。東京一極集中の近代文明への号砲であった。
それにしてもまだ謎が残る。なぜ、日本人はこだわりを持たず、躊躇なく東京へ向かったのか?
—発行者より—
・なぜ織田信長は比叡山を焼き討ちにしたのか?
・国を治めた徳川家康とヒトラーの共通点とは?
・忠臣蔵は最初から黒幕によるシナリオがあった?
地形を見れば、
歴史の謎がすんなり解けていく、、、
竹村公太郎の地勢歴史学講座 vol.1
「地形で読み解く日本史の謎」
https://pages.keieikagakupub.com/cpm_takerk1_s_d_24800/
【竹村公太郎】不思議な日本共同体(その2)流域封建から中央集権へへの2件のコメント
2019年6月8日 11:34 AM
日本人は なぜ 躊躇せず 東京へ向うのか?
答え
江戸時代に参勤交代で殿様たちが 江戸と国元を 往復していたので
自分も江戸に行くことにより
殿様たちのように 偉くなったような気持ちを
味わえるから
(冗談です 念のため)
小生は根っからの 田舎者 ゆえ
吉幾三の歌にあるように
「ゼニっこ貯めで 銀座さ山買うだ がっ!」
などとは これっぽっちも
おもいません ♪
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2019年6月9日 12:36 PM
講座のレポートを見返すと、
多分、鉄道の起点が東京だから、勝手に東京に着いてしまうのではないでしょうか?
他にも、赤穂浪士のテーマパークがあったり、吉原があったり、ペリーが来航した港を見物するのではないでしょうか?
背の低いガードについては、先日TVの番組でもやっていましたが、水道管が埋設されているので、簡単に工事ができないとか言っていました。
日本は、狭い国土を埋め立てたんだと実感できます。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
コメントを残す
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です