コラム

2023年4月15日

【竹村公太郎】 家康の隠居・駿府の謎―陸の防御、海の攻撃都市― 

 静岡にこだわった戦国大名
静岡市は駿河の国の府中、
つまり駿府(すんぷ)と呼ばれていた。
1600年、関ケ原の戦いで
勝利した徳川家康は、1603年に
征夷大将軍に任じられた。
その2年後の1605年に家康は
将軍職を秀忠に譲り、
1607年に江戸から駿府へ隠居した、
と云われている。

 家康の駿府入りの説は
様々云われている。
何しろ現在の静岡は、
街道のど真ん中に位置している。
新幹線、東名高速、
そのほか主要動脈幹線が
通過している。
日本中の人々が通過する
無防備な土地が静岡である。

 戦国時代、駿府は
地理的に重要な土地であった。
そのことは、戦国の主要大名が
入れ替わりこの駿府を
占めたことで分かる。
150年の戦国時代の
要の地を挙げろといえば、
西の京都そして東の駿府となる。

 14世紀中ごろ、
源氏を継ぐ名門の今川家が
駿府守護職となった。
家康が歴史に登場していたころ
駿府を制していたのは
今川氏であった。

 1560年、桶狭間で
今川義元が織田信長に討たれた。
その後、武田氏が駿府一帯を支配した。
1582年に織田、徳川軍によって
武田氏が滅びると、
徳川家康が駿府に入り
駿府城を築造した。
しかし、1590年、
家康は豊臣秀吉の命令で
関東の江戸に移封させられ、
駿府は豊臣家のものとなった。

 そして、関ケ原の戦いで
勝った家康は、将軍職を
息子に譲って駿府に移った。

 つまり、駿府は40年間に、
今川、武田、家康、秀吉
そして家康と名だたる戦国大名の
支配下に置かれた。

 なぜ、これほど歴代の
戦国大名が駿府を拠点にしたのか?

 日本列島の東西の要
駿府は家康の終(つい)の
棲家(すみか)となった。
そのため、家康の駿府入りは
隠居のためと云われている。
しかし、この隠居説には重大な疑問がある。

 また、家康は今川義元全盛のころ、
今川家の人質として駿府で暮らした。
その駿府が懐かしいから、
駿府に移ったとも云われている。
しかし、この説は
とうてい受け入れられない。

 1607年に家康が駿府に入った時期は、
戦国時代の最終決戦の大坂冬の陣、
大坂夏の陣の8年前である。
大坂城には豊臣家が構え、
西国には毛利氏、島津氏などが
厳然と勢力を誇っていた。
更に、東北では伊達政宗が
勢力を伸ばし、南下を狙っていた。
徳川家康にとって油断できる
世の中ではなかった。
決して隠居するとか、懐かしいから、
というような悠長な時期ではなかった。

 家康は油断する男ではなかった。
油断できない戦国の時期だからこそ、
家康は駿府に入った
と考えるべきである。
それは駿府の地理と地形を考えれば、
おのずと理解できる。

 駿府は日本列島全体を制する
重要な土地であった。

 西日本から東へ行く陸路には
3本のルートがある。
北陸道、東山道(後の中山道)
そして東海道である。

 この3本の街道の内、
北陸道と東山道は
3~4ケ月間雪に閉じ込められてしまう。
何カ月も大軍が
行き来できないような街道は、
日本列島を統一するに
ふさわしい街道ではない。

 やはり、東海道が
東西日本を統一する街道であった。
その東海道の中央に位置する
駿府こそが東西日本を
結ぶ要の地であった。
つまり、日本列島を統一する
要の土地であった。

 この日本列島の東西の要の駿府は、
防御と攻撃で第一級の
地形を保有していた。

 鉄壁の防御の駿府
駿府の地形は
極めて特異な地形を示している。
駿府の背後には2,000m級の
日本アルプスが控えている。
この険しい山岳地帯のおかげで、
静岡は決して背後からは攻撃されない。

 さらに、この山岳地帯は
両手のように二つの尾根を
太平洋まで伸ばしていた。
この2つの尾根は、
静岡を西の焼津市と、
東の富士市と完全に分断していた。
西の焼津市との境は岡部峠、
東の富士市との境は
由比峠であった。
江戸時代この静岡
すなわち駿府に入るには、
この東西の峠を越えなければ
ならなかった。

 (図―1)は
静岡周辺の地形陰影図である。
東西の峠が静岡を
挟んでいることが分かる。
現在はトンネルや海岸の
張出し道路で簡単に通過してしまう。
しかし、徒歩で行く時代には、
極めて厳しい地形であった。

 広重の東海道五十三次でも
その険しさが描かれている。

 (図―2)は、
東海道五十三次の
16番目の由比の薩多峠
(さったとうげ)である。
絵の左上に、小さく旅人が描かれている。
いかにこの峠が東海道の
難所の中の難所であったかが分かる。

 (図―3)は現在の薩多峠であり、
道路が海に飛び出している。

 西の岡部の峠も険しい。
今では日本坂トンネルが抜けているため、
厳しさは全く実感できない。
東海道五十三次では
岡部に向かう宇津ノ山の峠越えが
描かれている。
この峠は昼間も暗く、
歌舞伎の「蔦紅葉宇都谷峠」で、
文弥が重兵衛に殺され
百両を奪われる舞台である。

 駿府は、アルプスの山々と
そのアルプスから伸びている
尾根に抱かれた鉄壁の防御都市であった。

 しかし、駿府は南の海に
無防備に開いていた。

安倍川が造った防衛都市
 一見して駿府は、
南側で無防備に海に開いている。
実は、この海が駿府を守っていた。

 駿府はアルプスから
流れ下る安倍川の沖積平野である。
安倍川は地質構造線の破砕帯にあり、
有名な大谷崩れも抱えている。
2,000m級の山々から
土砂は無尽蔵に供給され、
駿府の平野を形成した。

 駿府の平野だけではない。
安倍川の土砂は海に
広大な遠浅海岸を形成した。

 遠浅の海岸は、鉄壁の防御海岸である。
海から船団が陸を攻撃する際、
一番の難所は遠浅である。
船は座礁したら動きが取れない。
砂浜での上陸作戦は、
座礁しない水深で兵隊たちは
海に飛び降りなければならない。
1m水深の浜に飛び降りた兵隊たちは、
武装しているので身動きが取れない。
飛び降りたとたん、
矢で射抜かれ放題になる。
もし、浜辺に辿り着いても、
濡れ鼠になった兵隊たちは
戦うどころではない。

 遠浅の砂浜は一見すると頼りない。
しかし、陸地に陣を
構える者たちにとって、
遠浅の砂浜は鉄の防御壁だった。

この駿府は鉄壁の防御都市であった。
と同時に、この駿府は
敵を攻撃する第一級の
攻撃都市でもあった。

安倍川が造った攻撃都市
 安倍川が供給する土砂は、
静岡海岸の遠浅を
形成しただけではない。
有り余る安倍川の土砂は、
時計回りの海岸流に乗って
三保半島という日本でも最大級の
巨大な砂嘴(さし)も形成した。
この砂嘴は安倍川の流砂と
太平洋の波がバランスを取り合い、
何万年間もかけて形成された。

 この砂嘴の内側に清水港が形成された。
この清水港は太平洋の荒波に
影響されない天然の良港であった。
湾内で航路を維持すれば、
いくらでも船が停泊できた。


その様子は広重の(図―4)の
「江尻・三保遠望」で見事に描かれている。
日本の東西を行きかう
船の休息の場が清水港であった。

 西の戦国大名が、
大軍の船団で東へ攻め込む場合、
駿河湾を横断せざるを得ない。
清水港で待ち伏せしていれば、
東へ進撃する船団を横から攻撃できる。
敵を簡単に討てることができた。
なにしろ駿河湾を横断する船団は
長旅でヘトヘトになっている。

 駿河湾の海流を知り尽くし、
清水港で力を蓄えている
家康船団にかなうわけがない。
家康は陸の戦が注目されているが、
家康水軍は瀬戸の毛利水軍、
九鬼水軍に匹敵する力を保有していた。
秀吉の1590年の北条攻めで
徳川水軍は相模湾から攻め立てていた。

 駿府の前面の砂浜は鉄壁の守り。
三保の港は最強の攻撃拠点であった。

 命ある限り関東を守った家康
家康は、駿府の地形の防御性と
攻撃性を熟知していた。
何しろ、今川義元の庇護の下、
この地で8歳から
17歳までを過ごしていた。

 戦いに明け暮れた家康は、
戦国の幕を下ろすための戦い、
大坂の陣の出発本拠地として、
防御と攻撃の第一級都市の駿府に構えた。
1615年、大坂の陣で豊臣家は滅んだ。

 江戸では息子の秀忠の
徳川幕府が円滑に動き出していた。
しかし、家康は駿府に構え続けて、
駿府で息を引き取った。

 家康は命のある限り、
自分がつくった関東平野と
江戸を守り通そうとしたのだ。

 

(追記)

 (図―5)は、
家康が駿府に入る400年前、
源頼朝が幕府を開いた
三浦半島の鎌倉の地形である。
駿府と鎌倉の規模は異なるが、
全く相似形を示している。
駿府は日本列島の
東西の境の要所であった。
鎌倉は横須賀から房総半島へ、
そして東日本へ向かう要所であった。

 

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  1. ts より

    巻頭の遠景は何気なく載せてあるが、奥の山が富士なら有り得ないフェイク。
    鏡像になってますね。

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