「赤穂浪士」を書くきっかけは「半蔵門とはなにか?」であった。
「江戸城の正門は半蔵門」と主張したため、赤穂浪士討ち入りの思わぬ謎に入り込んでしまった。
地形から見ていると、赤穂浪士の吉良討ち入りの物語「忠臣蔵」が反転して見えてくる。
吉良家の移転
「忠臣蔵」の物語には、次から次へと不思議な事が出てくる。
大石内蔵助らが京都で討ち入り会議を開いていた頃、討ち入りの成否にとって決定的な出来事が江戸で発生していた。吉良上野介邸の移転であった。
松の廊下の刃傷が起きた時、吉良邸は今の東京駅八重洲口の呉服橋門にあった。当時、東京駅八重洲口の前の外堀通りはまさに堀であった。外堀から江戸城側が郭内であり、吉良邸はその郭内の中にあった。
(写真―1)は外堀通りが埋め立てる前、外堀通りと江戸城郭内が分かる東京駅の絵葉書である。
高家(こうけ)の吉良上野介が江戸城郭内に屋敷を構えたのは当然であった。その吉良邸が本所(ほんじょ)へ移転した。刃傷沙汰で高家職を辞したといっても、これは途方もない引っ越しであった。
両国橋は明暦大火の後1661年に建造された。両国橋は二つの国、江戸の武蔵国と千葉の下総国を結ぶ橋である。両国橋を渡るとそこは江戸ではなく、下総という田舎の国だった。
現代の私達は、広重の浮世絵を通じて両国橋周辺の賑わいを知っている。しかし、注意すべきは、その賑わいは両国橋が建造されてから200年近く後の姿である。吉良邸が移転した時はいくらか住宅が建っていたが、一帯は隅田川の船着場であり、川向こうの本所は御竹蔵、御米蔵や御船蔵などの倉庫群が連なっていた。さらに、空地はいくらもあったので明暦大火災の無縁仏を弔う回向院も建設された。
(図―1)江戸古地図である。両国橋が架けられた隅田川の川向こうの本所一帯は、下総の田舎の寂しい場所で、水はけが悪いジメジメする土地だったことが想像できる。
吉良上野介はその本所へ移転させられた。
幕府による舞台の整え
吉良邸が隅田川の川向こうに移転しなかったら、赤穂浪士の討ち入りはなかったと断言できる。江戸城郭内の旧吉良邸の近くには北町奉行所があった。1604年に設置された北町奉行は、司法、行政、裁判所、検察、警察、刑務所、消防などを司る強力な武装機構である。
さらに旧吉良邸の呉服橋門から八丁堀にかけては町奉行所の与力、同心の住居屋敷が展開していた。その数は幕末には約7千人余といわれ、治安警備関係者の根城となっていた。
赤穂浪士がいくら準備しても、江戸城郭内への討ち入りはできない。江戸幕府は面目にかけても許さない。しかし、隅田川の川向こうは薄暗くて人目がない。吉良邸移転は、赤穂浪士に「さあ討ち入ってくれ」といわんばかりであった。
当時、大名や幕臣の邸宅移転は幕府の指示で行われた。高家だった吉良上野介を、寂しい湿地帯の本所へ移転させたのは江戸幕府である。江戸幕府は、吉良邸を移転させたというより、江戸市内から放逐した。
江戸幕府が赤穂浪士討ち入りの舞台を整えた。江戸古地図がそれを示している。
大木戸を通り抜ける行進
討ち入り当日の江戸幕府の挙動は怪しい。
討ち入りで吉良上野介の首を取った赤穂浪士四十七人は、本所から泉岳寺に向かって行進した。
江戸市内の町境の要所や橋には木戸があった。木戸の脇には木戸番があり、夜は木戸の扉は閉じられていた。特に重要な木戸は東海道にあった高輪の大木戸である。
(写真―2)は第一京浜(旧東海道)に残っている高輪大木戸跡である。がっしりした石垣の高輪大木戸跡を見ていると、江戸への警戒厳重な関門だったことが分かる。
元禄15年(1702年)12月14日の雪の早朝、血だらけの赤穂の浪士たちは、この大木戸を平然と通り抜けた。本来なら通行をとがめられるところだが、そのようなことは伝わっていない。徳川幕府の「見て見ぬ振りをせよ」という指令は、末端の役人まで行渡っていたと考えられる。
さらに驚くべきことがあった。泉岳寺である。
泉岳寺を創健した者
赤穂浪士の取材で泉岳寺には何度も行った。しかし、泉岳寺の門前の立札の内容の重要性に1年ほど気が付かなかった。
(写真―3)がその立札である。ある時、二行目の「徳川家康公の創立」に目が釘付けになった。
家康が泉岳寺を創建した!四十七士が祀られている寺は、家康が創った寺であった。信じがたい事実だった。
四十七士の討ち入りは、徳川幕府の威信を損ない、天下の平穏を乱した。そのため、四十七士は取調ベの後、全員切腹させられ、その日のうちに埋葬された。当時、四十七士は間違いなく重大犯罪者たちであった。その犯罪者が埋葬された寺が、家康が創建した寺であったという。
泉岳寺の僧侶とお会いして事情をお聞きした。話しの内容は「1612年、泉岳寺は家康公によって創建された。幼少の頃に預けられた今川義元を弔うため創建した。1641年の寛永の大火事で焼けて、家光公がこの高輪に再建した」という事であった。
泉岳寺は、家康が創建して、家光が再建した。徳川家にとってそれほど大切な寺であった。家光の命令で普請に当った5大名が、毛利、浅野、水野、朽木、水谷家であった。その縁で、泉岳寺が浅野家の江戸での菩提寺になった。
家康が葬られている寺や、家康に縁のある寺は数多い。江戸や出身地の岡崎や静岡には、家康が祀られた寺は数ある。しかし、家康が創建した寺など他にあるのだろうか。
徳川家にとってそれほど大切な泉岳寺に、犯罪者の赤穂浪士が埋葬された。それも一人二人ではない。四十七人の不逞の輩が、貴重な泉岳寺の敷地を大きく占めてしまった。
浅野家の江戸での菩提寺だったから、では説明にならない。徳川幕府の許可、いや徳川幕府の積極的な同意がなければ、四十七士がまとまって泉岳寺に埋葬されることなどありえない。
高輪大木戸と品川宿に挟まれた泉岳寺
泉岳寺の坂を下りると、第一京浜に出る。その地点で左を向くと、高輪の大木戸が目に入る。右に顔を向けると品川駅の歩道橋が見える。泉岳寺は、高輪大木戸と品川宿に挟まれている。
四十七士の泉岳寺への埋葬は、徳川幕府の許可のもとに行われた。赤穂浪士の討ち入りを忠義の物語として仕上げるためである。主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬することで、四十七士の忠義が浮き彫りにされていく。
品川宿は旅立つ人々の最初の宿であり、江戸入りする旅人の最後の宿である。東海道を旅する全ての旅人が、品川宿と高輪大木戸の間を歩いていく。街道に沿って茶屋や土産物屋が出店し、春は花見、夏は磯遊び、秋は月見で、江戸有数の賑わいの場所であった。
その賑わいは(図―2)の江戸名所図会の高輪大木戸で伝わってくる。
この賑わいの高輪大木戸と品川宿の間に、泉岳寺が門を開けて待っていた。
高輪大木戸の移動
実は、高輪大木戸は今の「札の辻」交差点の芝口にあった。1710年、「札の辻」から現在の「高輪」に移設された。
(図―3)が、辻の札から品川宿へかけての略図である。
江戸幕府は赤穂浪士の討ち入り後に、「札の辻」にあった大木戸をわざわざ泉岳寺の直近に持ってきた。
江戸の発展がそうさせた、という説明がある。しかし、江戸地図を見れば分かるが、三田の東海道周辺は大名の外屋敷地域である。その東海道筋で大木戸が、簡単に移転されたりはしない。四谷、板橋の大木戸が、江戸の拡大で移動したこともない。やはり、この高輪大木戸の移転は普通ではない。
大木戸移転も徳川幕府の仕掛けと考えると納得がいく。
大木戸が「札の辻」にあった時には、早朝、品川宿を出て江戸に向かう旅人たちは、泉岳寺を横目で見るが大木戸はまだ見えない。つい泉岳寺を通り過ぎて、先を急いでしまう。
江戸から出る旅人も同様だ。札の辻大木戸を通り抜けても、品川宿は見えない。泉岳寺を横目で見ながら、酒と女郎が待っている品川宿に急いでしまう。
大木戸が泉岳寺の直近の「高輪」にあれば、江戸に入る旅人は大木戸の手前で滞留して、江戸の最初の名所の泉岳寺に吸い込まれていく。
江戸から出る旅人も、高輪大木戸を抜け、品川宿が見ればホットして足を緩める。その場所に、泉岳寺の総門が扉を開いている。まるで泉岳寺に入れ、といわんばかりであった。人々は泉岳寺に入り、赤穂浪士たちに手を合わせて旅の無事も祈る。そして、旅の先々で赤穂浪士の討ち入りを見てきたように語った。各地の人々は涙を流して耳を傾けた。
大木戸の「札の辻」から「高輪」への移転という仕掛けによって、「忠臣」が津々浦々の日本人の心の中に染込んでいった。
忠臣蔵の最終幕
「忠臣蔵」は日本人が大好きな劇である。しかし、忠臣蔵は謎に包まれた劇だ。第一幕の松の廊下の刃傷劇の原因がわかっていない。多くの歴史家や作家がこの謎に取り組んでいる。しかし、それらを実証する具体的なものはない。忠臣蔵という劇は、第一幕があいまいなまま進んでいく不思議な劇である。
そして、最終幕も釈然としない。
最終幕は四十七士の切腹の場面である。観客もこの場面を見終わると、涙を流しながら席を立ってしまう。しかし、観客が席を立ち去り誰も観ていない舞台で、最終幕がもう一幕、密かに繰り広げられている。
忠臣蔵の最終幕の演題は「吉良家の滅亡」である。
吉良上野介は赤穂浪士によって討ち取られたが、吉良家の悲劇はここで終わらなかった。吉良家の悲劇はこれから始まった。岳真也「吉良上野介を弁護する」(文春新書、文藝春秋)が詳しい。
吉良上野介の実子で上杉家を継いだ綱憲は、父を救えなかったことを悔やみ一年後に悶死する。上野介夫人の富子は、息子の死後二ヵ月後にあとを追うように病死してしまう。
さらに、実孫で養嫡男、吉良左兵衛は討ち入りの夜、深傷を受け気絶するまで赤穂浪士と戦った。しかし、徳川幕府は「父、上野介を守らなかった!」という言いがかりをつけ、吉良家を断絶させ領地を没収してしまう。吉良左兵衛は信州へ流罪となり、厳しい環境の幽閉で病に犯され3年後には息を引きとってしまう。吉良家の血筋は絶えてしまう。
忠臣蔵の舞台は撤去され、劇は完全に終了する。
刃傷沙汰を起こした赤穂浅野家はお家取りつぶしになり、浅野内匠頭の弟の浅野長広は広島浅野宗家にお預けになる。
芝居が終了し、舞台が撤去された。ところが、舞台が撤去された数年後に重大な仕掛けが行われた。
千葉房総半島の先端
2021年秋、仕事の関係で房総半島に行った。現場視察を終え昼過ぎになり館山の海辺の食堂に向かった。食事中、同行仲間が「アワ神社に行きたいんですが」と言った。何かの聞き間違えかと思い「阿波神社?」と聞き返した。四国徳島の出身の彼は「そうですアワ神社です」と繰り返した。
なぜ四国の阿波神社が房総半島にと腑に落ちなかったが、神社と聞いたら断れない。神社は館山市の小高い丘の上に建っていた。看板には「安房神社」とあった。落ち着いた立派な神社であった。
神社の説明板では、大昔、徳島の阿波の人々が開拓した土地だという。安房神社は大神宮で、官幣大社の由緒ある神社であった。お守りを購入して帰路についた。その間、ずーっとモヤモヤした思いに包まれていた。何かが私に訴えていた。
この房総半島の最先端の地理的重要性は大きい。日本史を左右する重要な地点であった。その地点に安房神社があった。
日本列島の東西の結節点
古代から房総半島は西日本と東日本を結ぶ要であった。房総半島には大河川がないため干潟が少なく座礁の恐れがない。岸が海に迫っていて船が接岸しやすい良港が多くあった。船で西から来た人々は、房総半島の館山や大湊で上陸して東北に向かった。
房総半島の南が上総(かずさ)と呼ばれ「上」が付くのは、京都から東北へ行く玄関口だったからだ。
(図―4)で、房総半島が東西交流の交差点であり交流の要であることを示した。
房総半島の先端の「安房」の歴史は長い。安房神社周辺では弥生、縄文遺跡どころか旧石器時代の遺跡が発掘される。
安房が重要だった理由は海流にある。房総半島の銚子で南からの黒潮と北からの親潮がぶつかる。その潮流はぶつかった後太平洋に流れ出してしまう。(図―5)で海流を示した。
この海流を乗り越えるのは危険であった。間違えば太平洋に押し出されてしまう。高知の漁師のジョン万次郎が太平洋に流されたのも銚子沖であった。古代より、海路で西から来た人々は房総半島で上陸した。陸上して関宿から栃木、福島に向かった。ある人々は霞ヶ浦、鹿嶋から再び海路で東北に向った。
江戸湾制海権の要
1603年、徳川家康は江戸で開府した。徳川家康は江戸防御のため江戸に入る街道には親藩を配置し、厳重な関所も設けた。問題は江戸湾であった。江戸湾の制海権は江戸存続の絶対条件であった。敵が江戸湾を制すれば、物資の出入りが止まり江戸は危機に陥る。
江戸湾入口の三浦と安房は歴史的にも重要な役目を果たしている。温暖な黒潮に面していて、2万年前の氷河期からの遺跡が出土している。
源頼朝が関東で決起時には、三浦氏と千葉氏が頼朝を支えた。江戸時代には三浦、安房共に幕府が支配する幕府領・旗本領となった。
特に、安房国は太平洋に突き出ているため、侵入してくる船を監視する重要な地であった。江戸時代後半の1700年代以降は4代続いて松平家が安房守となり、幕末は勝海舟が安房守となっている。
(図―6)で江戸湾にとって安房の重要性が理解できる。
1709年、赤穂事件の際の将軍徳川綱吉が死去した。綱吉死去の大赦で、翌年、赤穂浅野長広は旗本として復した。所領は安房国の平郡・朝夷郡であった。赤穂浅野家が「アワ」で復権した、とはどこかで目にしたことがある。しかし、それは四国徳島の「アワ」ではない。江戸湾の防御にとって最重要である「安房国」での復権であった。
浅野家の所領の安房国の平郡・朝夷郡は江戸湾に面している。いつでも海に出撃できる港を持つ安房国の中心の地であった。
(図―7)は広重が描いた安房の小湊内浦である。
江戸幕府と赤穂浅野は心から信頼し合う盟友であった。赤穂浅野家は激動の幕末のハリス、ペリーの黒船来航を見張った。幕末の徳川慶喜の船の出入りを見守った。倒幕、佐幕の入り乱れた船の出入りを見張った。この重責を負った浅野家は、明治になって明治天皇からお褒めの褒賞を受けたほどであった。
私は赤穂事件を地形から見直した。
江戸城の半蔵門。半蔵門を守る麹町。吉良邸の隅田川の対岸の移転。浪士たちの泉岳寺の集合。切腹後の泉岳寺での埋葬。高輪大木戸の移設。
地形からの積み上げで「江戸幕府が赤穂事件を裏で企てた」と仮説を立てた。それらは全て仮説であった。
遂に江戸幕府と赤穂浅野家の密接な関係を示す動かぬ証拠を掴んだ。江戸幕府によって復した赤穂浅野は、江戸防御の急所の安房に配置させられたのだ。
「江戸幕府が赤穂事件を裏で企てた」は、仮説から事実となった。
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