コラム

2022年10月8日

【竹村公太郎】江戸最大の謎「赤穂浪士の討ち入り」(その1)―半蔵門とはなにか?―

既視感
 2002年から2年間、千代田区麹町の事務所へ通うこととなった。皇居まで歩いて数分なので、天気のよい昼休みにはぶらぶらとお堀端の半蔵門あたりを歩いた。
普段、半蔵門は人通りが少ない。皇居周回ランナーがたまに通り過ぎるだけだ。しかし、桜の季節になると様子は一変する。昼休みお弁当を持ったサラリーマンやOLが半蔵門に向かう。霞ヶ関から公務員達が、麹町や平河町からはビジネスマン達が楽しそうに歩いて行く。半蔵門の先の千鳥ケ淵公園で弁当を広げ一時のお花見をするのだ。
 桜を眺めながら歩いていると「どこかで見たことがある」という既視感に包まれた。
 とりとめのない感覚であった。どこで経験したか思い出せない。少しボケが来たかなと頭を振って事務所へ戻った。

広重の半蔵門
 その2週間後、銀座の教文館ギャラリーで「広重『名所江戸百景』展」が開催された。日曜日、銀座へ出かけた。広重はいつ見ても楽しい。江戸の風景と庶民生活が面白い構図で描かれている。広重の119点の浮世絵を順に見ているうちに「麹町一丁目山王祭ねり込み」の前にきた。
 足がそこで止った。「そーか!これだった」2週間前、半蔵門で感じた既視感はこれだった。江戸っ子の山王祭の行列が半蔵門に繰り込んでいく。この光景が半蔵門の花見の人波とダブっていたのだ。自分で経験したのではなかった。あの既視感は何度も見ていた広重の「山王祭ねり込み」だった。

(図―1)が広重の「麹町一丁目山王祭り込み」である。
 ボケではなかったと自嘲しながら「山王祭ねり込み」を見直していた。
やはり、この半蔵門は何かがおかしい。改めて、腕を組んで「山王祭ねり込み」を凝視してしまった。
 「赤穂浪士の討ち入り」の謎の森に入っていく瞬間であった。

半蔵門の天皇・皇后両陛下
 最初に「半蔵門は何かおかしい」と感じたのは1年前にさかのぼる。
会議までの時間があったので、麹町から半蔵門に出て日比谷方面に歩いていった。半蔵門の前を通り過ぎようとした時、警備の警察官に強く制止された。びっくりして顔を上げると、半蔵門の扉が開いていた。

(写真―1)は、いつもは閉まっている半蔵門である。
 他の通行人と一緒に立ち止まっていると、二台の乗用車がすべるように半蔵門から出てきた。何げなくその車を見ていると、二台目の窓には美智子皇后のお姿があり、その奥には天皇陛下のお姿も目に入った。
驚いたことに、手前の皇后が私達に向かって軽く会釈された。我々を立ち止まらせたことへのご挨拶であったのかもしれない。あわてて頭を深く下げたが、すでに車は新宿通りに走り去っていた。
 皇居内堀の坂を下りながら「何か変だ」という思いを抱えていた。「なぜ、天皇・皇后両陛下は、裏門の半蔵門からお出になるのか?」であった。

皇居の正門は?
 年の暮れ、旧友たちと食事をした。宮内庁記者だった仲間がいたのであの半蔵門のことを聞いた。
 彼に「皇居の正門は何処?」と聞いた。彼は呆れた顔で「二重橋」と答えた。更に「二重橋は公式行事の正門だろ。両陛下にとっての普段の正門は?」と聞いた。「そうだな、半蔵門だな」と答えてくれた。
 私は「でも、半蔵門は裏門だろ」と聞くと、「確かにそうだな・・・」彼は返事に詰まっていた。
 Wikipedia を含めどの説明書も、皇居の正門は二重橋と記載されている。二重橋は晴の行事や外国賓客の訪問で利用されている正門である。皇居前広場には閣僚の認証式で使われている和田倉門がある。二重橋と和田倉門は東京駅と面している。和田倉門から東京駅へ向かう73m幅の「御幸通り」もある。
 たしかに、日比谷側の二重橋と和田倉門は正門である。そうなると、日比谷の反対側にある半蔵門は裏門となる。

裏門の半蔵門
 半蔵門は二重橋と和田倉門の反対側に位置している。
 1590年、徳川家康が江戸入りしたとき、随行した武将の一人に服部半蔵がいた。服部半蔵は1582年の本能寺の変の際、堺に滞在していた家康を伊賀越えで逃した。家康の人生で最も危険な局面であったと言われている。
 命の恩人の服部半蔵が、この門の近くに住居を構えたので「半蔵門」と呼ばれるようになった。
 半蔵門は、甲州街道つまり新宿通りから江戸城に入る門である。この甲州街道は五街道の中で際立った特徴を持っている。
 東海道、中山道、奥州道、日光街道の四街道は江戸城に直結しない。これらの四街道は江戸城を斜めに見ながら日本橋に入る。唯一、甲州街道だけが江戸城にまっすぐ配置されている。

(図―2)で、五街道と江戸市内への進入路を示した。
 「半蔵」という名前が忍者を思い出させることと、江戸城の裏口の甲州街道に直結することから、半蔵門は家康が脱出する際の非常用の裏門と解説されてきた。
 何故、両陛下は裏門をお通りになるのだろうか?
 誰かに軽々しく聞ける質問ではない。問いかける相手もいない。この小さな謎は心の中に沈んでいった。

半蔵門の土手
 半蔵門の小さな疑問を抱えていた私が、教文館ギャラリーで凝視した「山王祭ねり込み」の半蔵門の「土手」であった。
 日枝神社の山王祭は江戸三大祭の一つである。この祭の祭行列は、江戸城内に入ることが許され将軍の高覧を受けていた。広重の絵には、祭の行列が江戸城にくり込む様子が描かれている。江戸っ子達の楽しそうな掛け声が聞こえてくるようだ。
 ギャラリーで見る以前にもこの絵は何度も見ていた。しかし、今までこの絵の重要な部分を見落としていた。

(写真―2)は、浮世絵と同じ構図で取った写真である。広重の山車は、筆者の肩である。広重の祭り行列は、咲きほこる花である。江戸の広重の絵と21世紀の写真の構図は同じあった。
 そして、祭の行列が堀を渡ろうとしているのは「橋」ではなく「土手」であった。
半蔵門の土手は明治以降に掘りを埋めた、と私は勝手に思い込んでいた。半蔵門の土手は江戸時代からあった!
 敵の攻撃を防ぐのが堀の役目である。堀は橋で渡ると決まっていた。いざという時、橋を落として敵を防ぐ。それは戦国時代の常識であった。土手は不意打ち攻撃に対して絶対的に弱い。敵は間違いなくこの土手を攻める。それを承知で江戸幕府は半蔵門に土手を築いた。

(写真―3)が上空から見た半蔵門である。
なぜ、江戸幕府は防御リスクを冒してまで半蔵門を土手にしたのか。

本当に裏門か?
 江戸幕府は防御リスクを冒して半蔵門を土手にした。土手の半蔵門が本当に緊急脱出用だったのか?
 半蔵門が緊急脱出用の門であるはずがない!土盛りの門は敵をおびき寄せてしまう。わざわざ敵をおびき寄せる土盛りにするはずがない。
 時間があれば図書館や書店へ行き、江戸城の書籍や古地図を当たった。しかし、どの書物を読んでも「半蔵門は裏口」扱いの記述であった。
 出張から早めに帰京した日、八重洲ブックセンターへ向かった。旅の疲れもあり地下の地図コーナーでしゃがみ込み江戸古地図を広げて眺めていた。
その時、妙な感覚に襲われた。八重洲ブックセンターの地下はあまり明るくない。その暗い照明のためか、目が疲れていたのか、江戸古地図の字がよく見えなくなった。
江戸古地図は見にくい。場所や屋敷を表示する漢字があちらこちらの方向を向いている。
 江戸古地図を読むときは、地図を回転させながら読まなければならない。江戸古地図を回転させた。その時「御城」という字が飛び込んできた。「御城」という正立した太字が飛び込んできた。


(図-3)が江戸古地図であり、江戸城の「御城」は倒立している。

(図-4)で地図を一回転させた。倒立していた「御城」は正立した。
 (図―4)で「御城」にまっすぐ向かっている街道がある。それが今の新宿通り、つまり甲州街道である。
 甲州街道から見ると江戸城の「御城」は正立している。甲州街道から見るのが「御城」の見方であった。

地図の錯覚
 ヨーロッパの大航海時代以降、世界地図が日本に入ってきた。世界地図は北を上、南を下にしていた。ヨーロッパ大陸を上にして地球を俯瞰する西洋の世界観であった。
 それに対し、日本では地球全体を見る概念はなかった。日本の国土は山脈と海峡で分断されている。その分断された地域の地図は、それぞれの地域の象徴や権力者を中心に置き、その方向から地図は作成されていた。
 西洋の地図基準に、日本も影響を受けざるを得なかった。地域の象徴を正立させる日本古来の基準と、西洋基準の地図が混在していたのが江戸時代の地図であった。
 江戸の中心はもちろん江戸城である。江戸の地図は江戸城を正立して描かれなければならない。江戸城を正立して見る方向、それは甲州街道からであった。甲州街道から江戸城を見て「御城」と描いた。
 甲州街道と江戸城を結ぶ門が半蔵門である。ここで「半蔵門が江戸城の正門」という仮説がたつ。

地形からの実証
「半蔵門が江戸城の正門」の仮説を実証しなければならない。皇居はそれほど広くない。地形だけに注目するなら丸一日も歩けば十分である。
私の仮説は確信となった。皇居周辺の地形は「江戸城の正門は半蔵門」を指していた。
 甲州街道は都内に入ると新宿通りと呼ばれ、地形的にはっきりした特徴を持っている。JR四ツ谷駅から半蔵門まで新宿通りを歩けば分かる。皇居に向かって右側に紀尾井町、平河町があり、左側には麹町、番町街がある。左右に存在する街並みの全てが地形的に下に落ち込んでいる。
 新宿通りは「尾根道」であった。
 70%が山地の日本で、人々が最初に踏みしめるのは尾根道である。尾根道の左右には何もなく、見晴らしが良い。尾根道は豪雨でも浸水しない。尾根道は上から石が落ちてこない。上から敵に襲われることもない。道のなかで一番安全なのが尾根道である。
 西から江戸に入る最古の街道が、尾根道の甲州街道であった。東海道、中山道、日光街道、奥羽街道はどこかで湿地にはまってしまう。
 甲州街道は尾根道を通って半蔵門に入って行く。甲州街道(新宿通り)は安全で、半蔵門こそ地形的に江戸城の正門の資格を有していた。
 日比谷側の二重橋や和田倉門、大手門は正反対の低平地にある。ここはもともと入江を埋め立てた土地であった。少し強い雨が降ると水浸しになる。

(図―5)は家康が入城したころの江戸城周辺の地形である。
 二重橋は堀の一番水深の深いところに架かっていて、構造を上下二重にした不安定な木橋であった。

 (写真―4)が江戸幕末の二重橋である。役人たちが通勤しているのが写っている。
 和田倉門や大手門は、ある意味で江戸城の正門であった。しかし、それは諸大名の正門にすぎなかった。諸大名達はここで馬を降り、徒歩で潮見坂を登り江戸城に向かうこととなる。諸大名は坂を登るとき、体を折り曲げて歩く。上の高台に住む将軍にへりくだる姿勢を地形が強要した。

歴史を引き継ぐ
 服部半蔵は関が原の戦いを待たずして1596年に死去した。その半蔵の息子は不始末のため半蔵門からすぐ他の屋敷へ移されている。それ以降、服部家は日本史の表舞台に登場することはなかった。
 半蔵門に服部家が住んだのはきわめて短い。江戸古地図を見ても服部家の屋敷跡は描かれていない。それにもかかわらず、江戸幕府260年を通じて服部半蔵の名前は消されなかった。
 明治になってもこの名前はそのまま伝わった。服部半蔵の名は影の世界を思い起こさせた。そして、新たに正門の二重橋が建設されたため「半蔵門は江戸城の裏門」として定着してしまった。
 しかし、皇居にお住いの天皇・皇后両陛下は、この半蔵門を正式な門として今でも使用されておられる。江戸城の正門は半蔵門という歴史は、皇居の天皇家が引き継がれたのであった。

 半蔵門は裏門ではない。江戸城の正門であった。その正門の半蔵門は橋ではなく「土手」だった。
この「土手」が、筆者を赤穂浪士の謎の森に引きずり込んでいった。 
(次号へつづく)

 

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【竹村公太郎】江戸最大の謎「赤穂浪士の討ち入り」(その1)―半蔵門とはなにか?―への3件のコメント

  1. 東京だヨお母さん より

    おお、半蔵門は正門か否か!

    八重洲BCの地下は薄暗いとか、

    本好きなら誰でもにんまり。

    いやあ面白いです!次回が待ちきれません。

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  2. コメントに返信する

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      1. r より

        調べてみたところ、江戸地図では表門が上にくるように建物の名前を書き、紋も表門の位置に刷るようになっていたようですね。失礼いたしました。

        返信

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