夏になると東京の運河ではカヌーを良く目にする。特に、小名木川運河は東京湾の水位と河川の水位差を解消する閘門がある。さらに、沿岸の店舗整備が進んできて、人通りが増えてきたので人気がある。
(写真―1)が小名木川でカヌーを楽しむ人々である。
この小名木川は日本の歴史上で第1号の運河である。
日本最初の運河・名木川
日本列島は全周を海に囲まれていて、中央脊梁山脈から無数の河川が流れ下り、河口部には大きな湿地帯が展開され、山間の盆地にも水面が広がっていた。そのため日本の水運の歴史は古代にまで遡り、日本文明は水運とは切っても切り離せない関係にある。
日本の長い歴史で、人工的な運河の歴史は極めて短い。何しろ人工の運河は膨大な労力と費用を必要とする。人工運河を造るより、自然の水面である海、河川そして湖沼を利用する水運が発達した。その自然の水面利用の水運が便利な土地から集落共同体と都市が生まれていった。
運河の歴史書や文献を読むと、日本の運河の歴史は、江戸時代初期の1614年の京都中心と伏見を結んだ9.7㎞の高瀬川と1615年の大坂市内の2.5㎞の道頓堀から始まっている。しかし、それは間違いである。
日本の運河は、戦国時代の徳川家康が築造した15㎞の小名木川運河を発祥とする。
東京の中央区、江東区、墨田区あたりは、江戸時代にどんどん海に向かって埋め立てられていった。その埋め立てに伴い、大小さまざまな運河が造られていったが、昭和時代に多くの運河が埋められてしまった。奇跡的の残ったのが小名木川運河である。
家康が急いだ小名木川運河
(図ー1)の「小名木川五本松」は、幕末に広重が描いた小名木川である。この小名木川運河が造られたのは、家康が秀吉に命ぜられて江戸入りした1590年代まで遡る。江戸入りした家康が取る物もとりあえず、最初に造ったインフラであった。
家康は何の目的で、江戸入城早々にこの小名木川運河を築造したのか?どの資料にも小名木川の目的は、今の千葉県市川市の行徳でとれた塩を江戸城に運搬するためとされている。
しかし、この説は明らかに誤っている。
というのも、家康の出身地は岡崎市である。その岡崎には矢作川が流れ、その河口には家康の配下の吉良家が開発した膨大な塩田があった。兵糧の塩など、行徳から運搬しなくとも、地元の矢作川から運べばよかった。三河名産の極上の塩が売るほど取り寄せられた。
たしかに小名木川は「塩の道」と呼ばれ行徳から塩を運搬していた。しかし、それは江戸中期から末期そして明治にかけてである。家康が江戸入城した時期は、戦国の決戦の豊臣秀吉との戦いを控えた重要な時期である。のんびり塩の道など造っている場合ではなかった。
さらに、この小名木川は徳川家康の自前の資金で造られたと伝わっている。1603年に江戸幕府が開かれて以降、江戸の運河のみならず、お城、埋め立て、虎ノ門ダムそして水道システムなどのインフラは、全て全国の大名たちの資金と技術と労力によるお手伝い普請で行われていった。
戦国の緊張していた時期、自前の資金で造った小名木川の目的は何だったか?
幽閉された家康
1590年、豊臣秀吉は北条氏を降伏させ天下人となった。その年、秀吉は家康に戦功報償として関東を与える、という名目で家康を江戸城に移封した。
この移封は左遷と言われているが、正確に言えば家康を江戸に幽閉したのであった。江戸城は天下を狙う家康が入るような城ではなかった。砦のような城は大湿地帯を望む武蔵野台地の端にポツンと建っていた。
(図―2)は、江戸時代の大湿地帯を現わしている。
さらに、この江戸は日本の東西の交流軸からも外れていた。古代より、関西から関東を抜け東北へ目指すルートは何本かあった。ルートの1本が東山道(のちの中山道)である。滋賀、岐阜、長野の山々を超えて、関東の難所の利根川と渡良瀬川を越えるのは、上流の群馬、栃木を選んで行われた。
愛知・静岡から甲府盆地を通過し、相模川を下ると平塚・鎌倉そして横須賀へ出るルートもあった。横須賀からは船で房総半島に渡り東北へ向かった。
静岡から箱根を超えるルートも、鎌倉から横須賀に出て房総半島に渡った。房総半島からの陸路は、国府台から北上していくルートと、霞ケ浦を船で渡り北上するルートとなった。
海上ルートもあったが、房総半島の銚子沖は海流が太平洋に流れ出て危険だったので、房総半島に上陸して、東北に向かって行った。
江戸は湿地帯と武蔵野台地に囲まれた不毛の土地であった。その江戸は日本列島の東西を結ぶどの主要ルートからも外れていた。江戸は天下を狙う拠点となる地ではなかった。
家康は秀吉によってこの江戸に幽閉されたのであった。
関東制圧の地形の急所
当時、江戸城の目の湿地帯には荒川、利根川が流れ込んでいた。(図―2)でそれを示している。この関東は水吐けが悪く、雨が降ると水は何カ月も引かなかった。北条氏一党の武将たちは、約100年間この広大な関東の湿地帯の各所に構えていた。家康はこの武将たちを一刻も早く制圧しなければならなかった。
広大な関東を制圧するためには絶対に抑えなければならない急所の土地があった。房総半島とその根元にある「国府台」であった。
房総半島は京都から東北へ行く海上ルートの玄関口であった。江戸湾内は干潟で座礁しやすい。房総半島には大きな河川がなく、船が横付けできる岩場の良港が数多くあった。
房総半島に上陸し、陸路を北に向かうルートに「国府台」があった。この国府台を過ぎると関宿となり、関東地方で唯一、陸路で東北へ進軍することができた。国府台は関東の地形上の急所であった。
国府台(こうのだい)
国府台は関東で最も古い由緒ある土地である。1千年近く遡る645年の奈良時代、関東支配のために国府が置かれた。その国府がなぜ「こうのだい」と呼ばれるのか。
それはさらに日本書記の日本武尊まで遡る。日本武尊がこの国府台に立って、この地から西に広がる対岸、つまり、江戸一帯を制圧しようとした。しかし、目の前には目もくらむような広大な湿地が広がっていた。あまりにも複雑で広大な湿地帯に躊躇していると、コウノトリが飛んできて、そのコウノトリが道案内をしてくれるという。日本武尊はコウノトリのおかげで湿地帯を無事に渡り、対岸の江戸一帯を制圧した。それ以降、関東では国府台と書いて「こうのだい」と呼ばれるようになった。
645年、国府が設置された以降も、この国府台は関東の重要な土地となっている。1192年、源頼朝はこの国府台に陣を張り、決起する拠点とした。1538年、1564年と北条氏と里見氏がこの国府台を巡って、国府台合戦が展開された。1868年(明治元年)、戊辰戦争で旧幕府軍は、江戸奪還のためこの国府台で構えた。昭和になり、国府台は帝都・東京防衛のため陸軍砲兵隊の駐屯地にもなった。
(図―3)は広重が描いた国府台である。広重はこの国府台が関東平野を見渡せる重要な高台であったことを明らかにしている。
国府台は日本史における、東日本での最大の戦闘の舞台であった。家康がこの国府台を占拠することが関東制覇の条件でもあった。その国府台を占拠するために家康は取るものもとりあえず小名木川運河に着手した。
では、なぜ最初に手掛けたのが小名木川であったのか?その理由は、江戸湾の地形にあった。21世紀の地形ではない。江戸初期の江戸湾の地形に戻る必要がある。
干潟のアウトバーン
(図―4)の上図は、江戸初期の江戸湾の海岸線である。小名木川は海岸線に沿った干潟の中に造られていた。その断面図を(図―4)の下図で示した。
行徳の塩田から塩を運ぶなら、わざわざ水路を建設する必要はない。天気の良い日に、江戸湾を海岸沿いに行徳まで行けばよい。
なぜ小名木川はわざわざ干潟に造られたのか。その理由はっきりしている。江戸湾の波に影響されないための運河であった。小名木川は江戸湾の波が高くても、いつでも進軍できる高速水路であった。江戸城から道三堀を通り小名木川運河を進めば、北から流れ下る複数の河川を遡れる。
舟で兵士を大挙して派遣して、圧倒的なスピードによって関東各地の豪族たちを戦わずして制覇していく。この軍事戦術が小名木川の目的だった。
ヒットラーは20世紀に、ヨーロッパ一円を制圧する高速道路のアウトバーンを建設した。ヒットラーより350年前、家康は関東一円の湿地帯を制圧する高速水路のアウトバーンを建設した。
(写真―2)は第二次大戦前夜のアウトバーンであり、家康が舟を進める小名木川とダブってくる。
佃島の謎
この説を傍証する史実もある。小名木川が築造されたのと同時期の1590年(天正18年)に、家康は、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)から、その地の名主であり漁師であった、森孫右衛門一族33名を、江戸に連れてきている。
昔から江戸は海産物の名産地であり、漁師は多数いた。江戸湾の地形や潮の流れ、魚の群れの溜まり場などについては、地元の漁師のほうが熟知していたはずだ。漁業のためなら、森一族をわざわざ大坂から連れてくる意味はない。
漁師としてではなく、軍事船の船頭として必要だった。戦国時代においては、漁船は魚を獲るばかりでなく、商船などの護衛をする水軍の役目も果たしていた。
この森孫右衛門は本能寺の変が発生した際、いち早く家康の逃げ道の水路を確保し、大坂からの逃亡を助けた。軍事的に有能な水運集団であり、かつ、家康に対して忠実でもあった。そのため、小名木川築造と同時に、家康は森孫右衛門一族を大坂から呼び寄せた。
舟で兵士を運ぶ際、船頭が裏切者であった場合には、わざと転覆させられてしまう。重い武具や鎧を装着した兵士たちは全滅する。軍事船においては、船頭の操舵能力と忠誠心こそが、満載された兵士たちの命綱であった。
家康は、北条100年の支配下にあった江戸漁師たちを信用できなかった。わざわざ大坂から呼び寄せた史実が、小名木川が軍事用水路アウトバーンであったことの傍証である。
家康は秀吉の命令で江戸に閉じ込められ、大湿地帯の地形を見て「不毛の湿地帯!」と愕然とした。しかし、その一方で、この地形を利用すれば、水軍で関東を制覇できる判断した。そして、直ちに小名木川築造に向かった家康のすごさが見えてくる。
のどかに見える、広重の描いた幕末の小名木川の風景には、そんな歴史のドラマが隠れていた。
ところで実際の小名木川は、この絵のように、湾曲していない。真っすぐの運河である。広重は遠近感を出すために、小名木川をゴルフのスライスのように右に曲げて描いた。実は、広重が小名木川を描いた二十年前「江戸名所図会」が出版されている。その「江戸名所図会」の絵師も小名木川の遠近を出すために曲げて描いている。その絵師は小名木川をゴルフのスライスではなく、フックのように左に曲げて描いている。
二十年後、これを見た広重は右に曲げて描くことで、「江戸名所図会」と自分の絵を重ねることで小名木川を真っ直ぐに修正したのだろう。
時空を超えて二人の絵師が楽しく遊んでいる。
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