コラム

2021年12月11日

【竹村公太郎】情報公開と社会進化 ―浸水想定区域図の誕生―

 今から20年前の平成12年(2000年)9月12日、夜半から東海地方を記録的豪雨が襲った。

 当時、国土交通省の河川局長(現・国土保全、水管理局)だった私は次々と入ってくる出水状況の報告を受けていた。一夜明けた13日の朝、この水害の重大さがテレビ画面を通じて全国へ伝えられた。低平地の名古屋市は泥水の下になっていた。

(写真―1)は、浸水で外に出られなくなった中部整備局の職員が撮影した名古屋市内の浸水状況である。

 今では当たり前になっている「浸水想定区域図」を世に出す二度とない機会となった。

江戸の国土開発から近代の治水へ
 1600年関ケ原の戦いで勝った徳川家康は、1603年に征夷大将軍の称号を受けると江戸に戻り、幕府を開府した。戦国時代の領土膨張は封じられ、人々のエネルギーは内なる国土開発に向かっていった。

 当時、河川は山地から扇状地へ出ると一気に広がり、沖積平野を形成しながら八岐の大蛇(ヤワタノオロチ)のような姿で海に流れ出ていた。全国の沖積平野で、このヤワタノオロチとの戦いが開始された。

 人々は力を合わせて堤防を築き、ヤワタノオロチの河道を1本の堤防に押し込んでいった。かつての湿地帯は田畑へと変貌した。今ある日本の堤防の大部分はこの江戸時代に築造された。耕作地は拡大し、日本国土の原型がこの江戸時代に形成された。

 19世紀末、日本は近代化に突入していった。河口域の沖積平野で都市化が一気に進展した。田畑が工業地帯と住宅地に変わっていった。大雨になると水が遊んでいた水田が消え、コンクリートとアスファルトの都市になっていった。

 都市部に人々と財産が集積していった。江戸時代の河川工事は、国土開発というオフェンスであった。近代の河川工事は、人々の命と財産を守るというディフェンスになっていった。その守備の治水は、土地利用変遷に伴い急速に重要性を増していった。

 (図―1)は、過去100年間の東京都の土地利用変化である。

(図―2)は日本の国土利用と水害危険地域の関係図であり、洪水に対して危険な土地に人と財産が集中していることを表している。

安全はコインの裏表
 行政が実施する治水計画は制約の下にある。制約とは一定の自然の力、つまり洪水の規模を想定して、その想定した洪水を押さえ込む装置を建設する点にある。

 「自然の力を想定する」がいかに不自然か、それは自然と付き合えば直ぐに分かる。人間が想定した自然の力は、自然によって必ず乗り越えられてしまう。治水計画でも同様である。想定した洪水規模は、いつかは必ず、実際の洪水によって乗り越えられてしまう。

 治水で「100年に一度の洪水」という確率の言葉が使われる。これは「100年に一度の大洪水が、100年に1度発生する」ことを意味しない。

 この100年確率を厳密な確率論ではなく、小学生でも理解できるように分かりやすく言いかえる。100年に1度の洪水の確率とは、次の算式で表わされる。
 1/100=1/2×1/50。

 この算式の意味は、ある川のほとりに家を新築したとする。その家で50年間住み続けるとする。その川が100年に一度の洪水で堤防が破堤して、濁水がその家を襲う確率は2分の1ということなのだ。確率2分の1の安全性とはコインの裏表の確率である。コインを投げて裏が出る確率で、その家は濁流に呑まれてしまう。100年確率の治水事業というのは、その程度の安全しか国民に提供できていないことを意味している。

 自然の猛威がこの程度の治水計画を乗り越えてしまうのは当然である。

 なお、オランダの治水計画は1/10,000年、英国は1/1,000年、米国は1/500年の安全確率で行われている。

機会到来
 日本で治水の安全確率を上げていくことが治水なのか?実は、治水の安全確率をいくら上げても問題の解決とならない。なぜなら、自然の力はいつかその確率を上回ってしまう。

 治水施設に守られていると、人々は自然の暴力を忘れていく。施設に守られ、自然の暴力を忘れている社会が自然の猛威に打ち破られた時、その被害は取り返しがつかない。ハード施設だけで安全性を上げていく問題点がここにある。

 自然相手の分野は、ハードの施設対策だけでは土台無理なのだ。人間はいつしか必ず自然に乗り越えられる。その認識からソフト対策が浮上してくる。

 平成12年の東海豪雨で「自然の猛威は人間の想定を超え我々を襲ってくる」という認識が、一瞬であったが日本社会に広がった。

 日本人は忘れることで生き抜いてきた。その忘れっぽい日本人たちが同じ認識を持った。「自分たちの土地は危険だ」命の危険はともかく、あっという間に自分たちの財産が損なわれる。この認識の一瞬の時こそ、抜本的なソフト対策を仕掛ける絶好の機会であった。

 そのソフト対策とは法律で「浸水想定区域」を公表することであった。

タブー
 浸水想定区域図とは河川が氾濫した場合の浸水範囲と浸水程度を明らかにする地図である。この図によって、大水害である地区は50cm浸水し、ある地区は1m浸水し、ある地区は5mも浸水することが明らかになる。

 過去20年来、浸水想定区域の作成と公表は、行政内部で悩ましい課題であった。河川行政はこの浸水想定区域図にトラウマを持っていた。建設省時代、ある川で浸水想定図を公表したことがあった。ところが地元の国会議員、自治体、そして不動産関係者から猛反発を受けてしまったのだ。

 建設省は無責任だ!そのような図を作っている暇があるなら早く治水事業をやれ!地域の不動産価値が下がる!などであった。

 河川行政内部でも賛否の議論があった。発表する対象の洪水規模を一体どう考えるのか?堤防のどの箇所から破堤と仮定するのか?実際に浸水した時の責任はとれるのか?この図の公表によって治水事業の優先度が混乱する!などの難問が山のように提起された。それ以降、この浸水想定図を外部へ出すことはタブーとなってしまった。

情報公開
 昭和の後半から開始された長良川河口堰は、平成元年(1989年)ごろから激しい市民運動の対象となった。公共事業全体への不信感と相まって、その反対運動は市民団体、マスコミ、政治を通して激しさを増していた。

 私もその中の真っただ中にいた。この苦境を乗り切った原因の一つに、情報公開があった。平成5年、苦境に追いやられた私たちは、長良川河口堰事業の技術情報は全て公開することにした。この情報公開は、マスコミや世論の支持を得た。この当時、「情報公開」という言葉は日本社会ではなかった。建設省内部でも反対意見が多かった。

 情報公開という捨て身で、やっと長良川河口堰事業乗り切った河川局は、この経験を大切な遺産として受け継いでいた。「技術情報は世に出す」という河川局の方針に、建設省内部でも反対する意見は消えていた。

 社会全体も変っていた。行政は情報を公開し、国民は知る権利がある時代に向かっていた。浸水想定区域策定の専門技術上の問題は残されている。しかし、これは国民の安全に係る情報である。ともかく国民へ情報は提供すべきだという判断に至った。

安全のためのソフト
 自然の力は大きい。我々の計画はいつか乗り越えられる。もし建物が被災しても、情報さえあれば人の命だけは助かる。「情報が人々を助ける」という共通認識により、国会は全党一致でこの水防法改正を支持した。不動産業界も反対の意向を表明することはなかった。

 平成12年の大豪雨の翌年の平成13年、水防法においてハザードマップ、つまり浸水想定区域の作成が義務つけられた。

近年、全国各地の川で浸水想定区域図が次々と発表されている。

 このハザードマップは、どこが危険で、どこが安全なのか?どこを開発し、どこを保存すべきか?いざという時どのように連絡して、どこへ避難するのか?これらの問いに答えられる都市づくりの重要な基礎資料となっていった。
 21世紀、気候の変動は激しく気象は凶暴化する。平成13年水防法改正で、未来の日本人の安全のソフト手法が揃った。 

                                                                                
(追記)
 名古屋が大浸水した東海豪雨から20年後の2020年、宅地建物取引施行規則が改正された。不動産取引時の重要事項説明の対象項目として「水防法に基づき作成された水害ハザードマップを提示し、対象物件の概ねの位置を示すこと」となった。20年かかって「浸水想定区域」は、日本人の安全の基本事項に位置づけられた。

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【竹村公太郎】情報公開と社会進化 ―浸水想定区域図の誕生―への3件のコメント

  1. 始末の極意 より

    人も住まなくなるような 
    流域整備に 使うカネが どこにある、、

    というのが 財務の意思 かと、、、

    高いカネを支払って助けてもらうよりも
    溺死したほうが マシ という噺や

    無駄を省きつくした 大店の旦那が
    最大の無駄は 自分が 生存すること
    悟る 噺

    自分が大好きな 落語なれど

    何が無駄って 国家 国民の存在ほど
    無駄なモノは なし。。

    というわけで

    国家も 国民も 消えてなくれば

    一銭も 使わなくて済む ので ございます

    これぞ 財務の極意 ♪

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  2. つぼた より

    改めて、竹村先生は偉い方なんだなと思いました。おみそれしました。

    自分の地域のハザードマップを見たことがありますが、海抜がそれほど高くなく、川に挟まれていることもあって、結構水につかるんだなと思いました。

    それなら山間の方に行けばどうかと思いましたが、今度は土砂崩れの危険性が大きくて、日本はどこも危ないんだなあと思ったのを覚えています。

    それにしても最近の豪雨被害は酷くて、コロナも合わせて、大変な世相だなあと思います。

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  3. この世は既にあの世 より

    役所からハザードマップもらいましたが一度も開いたことがありません。

    子供の頃、テレビに映る洪水を見て「あーあ、俺んちも洪水にならないかなあ」なんて母親に行ってましたね。

    私は本能が働き、運がいい人なので、一度も災害に遭ったことがありませんし、事故も起こしたことがありませんし、病気になって入院したこともありません。

    安全など気にしてないですねぇ、車の運転と同じで本能的に危険予測を無意識にしてますから、風を読み、神様の御告げの通りに生きてます。

    死ぬ時は死ぬんですが、何も気にせず好きなように普通に生きているとなかなか死ねません。

    子供だけで防空壕に入って遊んだ記憶があり、今考えると生き埋めになってたとしてもおかしくありません。子供だけで遊んでてダムに落ちたこともありますし、子供だけで水深の深い川で泳いで遊んでましたし、自転車に乗ってコンクリートの階段に頭ぶつけたこともありますが、死ねない、どうやっても普通に生きてるだけでは死ねない。

    どうしたものか?

    何故だか金がなければ金が降ってくる、食べものにありつける。

    どうやっても死ねない。

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