リアル空間で学ぶ
新型コロナウイルスの緊急事態宣言によって、筆者が参加しているNPOでもテレワークが行われている。通勤のないテレワークは思いのほか快適な手法であることを知った。このパンデミックス後は、一気にウェブによるテレワークが定着していくことになる。このテレワークは成人にはよい。
しかし、児童に関しては別である。この期間、児童たちも学校に行けなかった。そのためウェブ教育が肯定的に議論された。児童たちのウェブでのゲーム時間が大幅に増えてもしまった。
しかし、児童たちがウェブに漬かることは絶対に避けなければならない。児童たちはリアルの空間で学ばなければならない。リアル空間でしか学べないことがある。多くの動物の中で、人間ほど未熟な状態で誕生する生物はない。未熟児として生を受けた人間は、親に抱かれ一人前になるまでさまざまなことを周囲の環境から学んでいく。周囲の環境から学ばなければ、その人は生きていけない。
今、子供たちはそのリアル空間で学ぶ機会を急速に失いつつある。このパンデミックスがそれをさらに推し進めていくことになる。リアル空間でしか学べない大切なモノ。それは「恐怖」である。恐怖こそ人間が存続していく上での基盤・インフラとなる。
生存の原点、喰うか喰われるか
約40億年前の地球誕生の初期、原核生物の細菌や藍藻の単細胞の生物が発生した。それから30億年以上も経過した6億年前、海の中で進化の大爆発があり、クラゲ、ゴカイなどの無脊椎動物が誕生した。
それ以前の生物は、自身の光合成でエネルギーは自ら生産していた。しかし、この無脊椎動物は自身でエネルギーを生産しなかった。この生物は表皮を通して外界と物質交換を行った。彼らは他の生物を「喰う」ことによって、安易にエネルギーを得る進化を遂げた。
他者を喰うという効率的なエネルギー獲得手段を手にした動物は強かった。カンブリア紀の進化大爆発を経て、水中から陸上へ進出を果たした。魚から両生類へ、そして爬虫類が誕生した。その爬虫類の王者、恐竜は約1億6千万年間という長きにわたり栄華を誇った。その恐竜は6500万年前に突然絶滅し、進化の舞台を鳥類と哺乳類に明け渡した。
約7000万年前、モグラの仲間の食虫類が樹上に進出した。霊長目の進化が開始された。約3000万年前に霊長目から類人猿が分岐し、約800万年前にゴリラの系統が、600万年前にチンパンジーが分かれた。
そして遂に、約500万年前に不完全ながら直立二足歩行の猿人が出現し、100万年前には完全直立二足歩行で火を使用する原人(ホモ・エレクトゥス)が登場し、20万年前、現在の新人(ホモ・サピエンス)が登場した。
約6億年前から始まったこれら動物の進化の共通点は、他の生物を「喰う」ことでエネルギーを獲得したことであった。自分自身でエネルギーを生産しない。他の生命を喰うことで、自分の生命を維持する。自身が生きることは、他の生物を喰うこと。他の動物が生きることは、自分が喰われること。
動物の生存の原則は「喰うか喰われるか」になった。この喰うか喰われるかの生存原則は、脳の一番奥底に刻み込まれていった。
三つの脳
人間の脳は複雑な機能を持つ。進化に注目すると、大きく3つに分けられる。(図―1)はその脳の模式図である。(「脳と心の仕組み」永田和哉監修、かんき出版)
(図―1 「脳と心の仕組み」永田和哉監修、かんき出版)
一番古くて底にある脳が古皮質。その古皮質の周りを旧皮質、さらにその周りを新皮質の脳が積み重なるように覆っている。この三つの脳はそれぞれ役割を分担している。
古皮質は爬虫類の脳と呼ばれ「食欲、性欲、自己の生存」など生存のための役割を担っている。旧皮質は哺乳類の脳と呼ばれ「喜び、悲しみ」などの情動の役割を担っている。新皮質はヒトの脳と呼ばれ「予知し、計画し、制御する」いわゆる知的な働きの役割を担っている。
人間はヒトの脳が異常に発達した二足歩行の哺乳類である。「唯脳論」の著者、養老孟司氏のヒトの脳についての表現が参考になる。予知し、計画し、制御するヒトの脳は、予知できないもの、計画できないもの、制御できないものが大嫌いである。人にとって予知できず、計画できず、制御できないものが一つある。それは「自然」である。
人間が嫌いなモノ
人間にとって、自然は予知できず、計画できず、制御できない。だから、ヒトの脳は、思うままにならない自然が嫌いで避ける。ヒトの脳はその嫌いな自然を排除し、自分で制御できる空間を造っていった。その空間は都市であった。
この都市では、自然は徹底的に排除された。自然愛好家や自然保護派もレストランでゴキブリがうろちょろすることは決して許さなかった。ネズミが走り回ってでもいたら、そのレストランを告訴しかねない。食材豊富なレストランに、ゴキブリやネズミがいるのは自然なことだ。しかし、その自然は徹底的に排除されていく。自分が今パソコンで作業しているこの空間は人間が作ったモノに囲まれている。観葉植物はあるがこれも人間が制御していて自然ではない。自然のモノは一つもない。
ヒトの脳は自然を排除した都市を造った。計画され、制御された都市に住む人々は、更にヒトの脳を肥大化させていった。
自然体験と社会規範
20年前、ある会合で文部科学省初等教育局の幹部が挨拶に立った。どうせ退屈な挨拶だろうと思っていたら「自然体験を多く持つ子供は、道徳観が優れている」というスピーチであった。
驚いてしまった。自然体験と道徳の関係の根拠はあるのか?さっそく彼をつかまえて、あのスピーチの根拠を尋ねた。その幹部は余裕しゃくしゃくとして、あのスピーチの基になったデータはある、喜んで提供すると答えてくれた。
さっそくその資料が届いた。それは文部省(現在の文部科学省)ならではの全国の小中学生11,1123人の膨大な児童を対象にしたアンケート結果であった。それは、子供達が川、海、山で遊んだ体験があるか否か、そしてその子供達はどの程度の道徳観を身につけているか、というものであった。そのアンケート結果を分かりやすくした図が(図―2)である。
(図―2 文部省 青少年教育活動研究会 子ども体験活動に関する調査:H10.7より)
この図では、自然体験と道徳というか社会規範というか別にして、明瞭な傾向が表わされていた。川、海、山で遊んでいる子供ほど、挨拶したり、席を譲ったりする社会規範を身につけている。それに対し、自然体験のない子供ほど、社会規範を身につけていない。
「何故、自然体験によって、社会規範の子供が育つのか?」その答えは文部省のレポートには触れられていない。電話で文部省の幹部に問い合わせたがわからないということであった。しかし、人間の脳の構造を考察すれば、その謎の答えは「恐怖」であることが分かる。
爬虫類の脳
脳の機能で、自己の生存の役割を担っているのは、一番古い爬虫類の脳である。その爬虫類の脳は、自己の命を生存させるため、恐怖を感じる仕組みを作った。恐怖を感じなければ、危険な状況を感知したり、危険を避けたりはできない。危険を感じる恐怖心を持たなければ 生物は簡単に他の生物に喰われて命を失っていく。
爬虫類は「集団」を形成していった。集団になることで、喰われる恐怖を乗り越え、他の生物を喰う力を得ていく。集団になることは、生きるための基本となった。集団が形成されれば、そこには必ず強いものと弱いもの、優れたものと劣るもの、経験を積んだもの未熟なものの差がでてくる。その強いもの、優れたもの、経験をつんだものが、集団をリードするようになった。
リーダーの指揮で集団行動をとることが、その集団にとって生き延びる最良の方法であった。リーダーが集団を指導し、集団はリーダーに従う。生き残りのためには有利な集団行動をとる。こうして種ごとの行動様式が定まっていった。
映画のジュラシックパークを見ていると、恐竜たちは集団で敵から逃げ、集団で敵を襲っていく。その恐竜の集団行動には無駄がなく、美しささえ感じる。1億6千万年もの長い間、恐竜が生態系の王者として栄華を誇った秘密は、集団を形成し、他の生物群を効率よく喰う行動様式の確立に成功したからだ。
その何億年後、言葉を持った人類が登場した。言葉を持った人類は、自分たちの集団の様式や約束事を「社会規範」とか「道徳」と呼ぶこととなった。
「社会規範」や「道徳」はヒトの脳が支えているのではない。最も古い爬虫類の脳が支えているのだ。これを理解すると、社会規範や道徳心をどうやって身につけるか、おのずと推論できる。
恐怖の体験
共同体の社会規範は、一番古い爬虫類の脳が役割を担っている。そのため、爬虫類の恐怖を体験させれば爬虫類の脳は活性化して、社会規範を備えた人格形成がなされる。
爬虫類の恐怖は喰うか喰われるかであり、その舞台は自然である。自然の体験とは、本質的に恐怖の体験である。自然体験は、決して心穏やかなものではない。その自然体験の一番身近な場所として、川がある。
川で遊ぶのは恐怖の連続となる。川岸まで行くまでに、藪の棘の小枝で皮膚を傷つける。足元の水溜りに靴を汚し、突然鳥が飛び立つ音に驚き、蛇が逃げていくのを見て足がすくむ。怪しい動物の死骸の臭いもある。
視界が広っている川岸も安全ではない。石はぬるぬるしていて、気を抜けばあっという間に倒れ、手を擦りむき血も流れる。もちろん気味悪い虫もいる。流れている水も恐い。川の水の流れは変化する。淀みの少し先は急に速くなり、油断すればあっという間に流される。歩くたびに水深は変化し、腰までだった水深は、一歩進めば頭まで深くなる。自然の川は学校の安全なプールではない。
でも、川遊びは楽しい。目、耳、鼻、口と肌の五感のすべてを使って風と草と生物と水の流れを感じる。子供たちは時間を忘れ、くたくたになるまで遊ぶ。この自然で遊ぶ子供を支えているのは、爬虫類の脳である。自然の中で自身を守るため、五感を総動員して、爬虫類の脳を活性させている。
予知できない自然、自分の思うままにならない自然、その中で感じるのは不安であり恐怖である。その自然の中で、子供達はいつのまにか団体行動をとり、ガキ大将や年長者の指示に素直に従い、仲間同士の無言の約束事が生まれていく。社会性を持った子供たちの誕生の瞬間である。
子供たちを自然に
小学校長たちが口を揃えて言うのが、集団行動ができない子どもたちが増えていることだ。集団行動ができない子どもに、道徳を教えても空しいともいう。何しろ道徳の時間、自席に座らせておくことすら困難だという。
何故、自分の席に座っていなければならないのか?何故、他の生徒の迷惑になってはいけないのか?子供達はその当たり前のことを理解していない。今の子供達は何か決定的に何かを欠いている。その傾向はますます強くなり、憂鬱になってくると語っていた。
21世紀、日本は世界でも有数な豊かな近代国家を実現した。この豊かな近代化の成果は、計画され、制御されている都市の実現であった。
都市は自然を排除することに成功した。都市に住む子供らは、予知できない自然、制御できない自然を体験することはない。自然を体験しない子供らは、恐怖の体験をしない。恐怖を体験しない子供たちは、集団行動を知らず、社会規範を身につけないまま成長していく。
将来の日本をリードする子供が、集団行動をとらず、社会規範を身につけない大人になった社会は一体どのような社会になるのか。いや、もうすでに現在でも社会規範など無視し、自分の利益最大化だけをゴールにして行動する人々が登場してマスコミでもてはやされている。
今生きている私たちは先人たちの努力の文明を目いっぱい享受している。その私たちの役目は、未来社会でも子孫たちが安全で心地よい社会で生きていくことである。そのためには社会規範を身に着け、共同体のことを思いやれるリーダーを育てることが必要である。
そのようなリーダーを育てるには、子供らを自然へ連れて行き、自然の中に放つ。小さな事故や怪我は覚悟して、子供らに自然の恐怖を体験させ、爬虫類の脳を鍛えさせることだ。(写真ー1)は昭和25年、滋賀県野洲川で遊ぶ子供たちはなんと健康的で社会規範を身に着けていたことか。
(写真ー1)
今やっておくことは、未来の子供たちが自然体験できて、恐怖を鍛える場を用意してやること。そのために都市で唯一可能性のある空間が川となる。都市の川を自然豊かにする。未来を背負う子供たちは、その川の体験で恐怖と社会規範を学んでいく。これが都市を造る人々の責任となる。
【竹村公太郎】子供のための恐怖への1件のコメント
2020年10月10日 11:56 PM
この世の中はどこもかしこも権力者に仕える、お金まみれのすなわち腐敗したの糞まみれのバカたれだらけ!それがまた低次元でカスの竹中平蔵とか松井一郎とか上山信一やら橋下徹やら百田尚樹などがまたまたカスがカスを呼ぶので屑の岸某やら足立某やら小野某やら吉村某やら有本何某などを子分に従えている腐敗の構図なんだよね!しかしコイツらに抱くのは羨望の眼差しよりも糞まみれに汚れたカスの躾をほどこしたバカ親の顔しか頭に浮かばないのよね!つまりそれが将来世代に抱く恐怖なんだと危惧しています。もちろん私の周りにも高学歴の東大などの出身者はいますが、世の中を十分に認識しているので低次元の行動は起こさないのよね!ところで一度あることは二度あるで丸山騒動から一年ちょっとでまた松井一郎の子分で、かって野党の連中に暴言を繰り返していた低次元の足立某が今度も色めき立っていつも通りに調子に乗って批判しているようですが、足立なぁお前のような屑に他者を批判する資格なんぞねぇよ!よって足立お前こそが低次元の小西洋之と同じバカ者なんだし図に乗んなよって話だけど中学生以下の文章を繰り返すバカの松井一郎の意向を示すとベントレーは許されとるようでデタラメの支離滅裂は凄いよね!
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