From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
こんにちは~(^_^)/(遅くなりますた…)
今月10日発売の月刊誌『ボイス』(PHP)「共同体の力を再生し、強靭な国づくりを」という小文を書きました。「総力特集:菅新政権と日本再生論」という企画の一篇です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B08HW5W8LV
だいたい次のような内容です。
***
コロナ禍で明らかになったのは、日本の国力の源泉とは、「文化の力」「共同体の力」とでもいうべきものだろう。感染拡大を防ぐために人々が依拠したのは、結局のところ、法や権力、あるいは罰則やデジタル技術というよりは、日本国民の規範意識の高さ、自発的な協調行動、衛生的な生活習慣などといったものだったことからもこれはわかる。
安倍前首相や麻生財務大臣は、文化や共同体の力に依拠したコロナへの対処を「日本モデル」「民度の高さ」などと賞賛したが、それにとどまらず政治家としては、文化や共同体の力を将来にわたって維持し、いい方向にさらに伸ばすことを目的として政治を行ってほしい。
菅新政権も、一応、保守の政党であるはずの自民党を中心とする政権なのだから、文化や共同体の力の維持・発展という目的を高い優先順位に据えた政治をしてほしい。
そのためには、今の政治や我々の認識のどこを変え、何をなすべきだろうか考えてみたい。
***
過去の本メルマガの記事でも、似たようなことを断片的に書きましたが、『ボイス』の拙文ではまとまったかたちで書いています。
これを書きながらあらためて思ったのは、今の日本のいわゆる「保守派」は、特に経済政策の面ではまったく「保守」ではないという点です。
本来、保守派は、自分たちの文化や伝統、生活様式、普通の人々の日々の暮らしといったものを重視し、それを守ることを大きな目標として政治をするはずです。
しかし、日本では周知のとおり、ここ20年余、「保守派」であるはずの自民党が中心となって、「構造改革」を主導し、新自由主義に基づくグローバル化の推進を担ってきました。
その過程で、文化や伝統といった本来、保守派が重視すべきものを守るどころか壊すことが多かったように思います。
一番わかりやすいのは、家庭や地域共同体を損なってきたことです。文化や伝統を受け継ぎ、次世代に伝える主な場所は家庭や地域共同体なので、これが損なわれると、文化や伝統も衰退していきます。
家庭に関して言えば、若い世代の生活の基盤が弱体化・不安定化したため、晩婚化や少子化が進んでいますし、地域共同体については都市部では「シャッター街」が増え、農村部では過疎化が顕著です。
なぜ、「保守派」が、本来、重視すべき文化や伝統、およびその継承・発展の場である家庭や地域共同体を壊すような「改革」ばかり続けてきたのでしょうか。
いろいろと理由はあると思いますが、一つは、現在に至っても、日本の「保守派」の多くがやはり戦後の冷戦期の思考パターンにとらわれてしまっている点が大きいと思います。
冷戦期には、「革新派=親・共産主義=市場否定」「保守派=反共=市場重視」という図式がありました。
冷戦期は、「共産主義こそが日本の文化や伝統に対する第一の脅威だ」という意識が強かったので、「保守」は、その反対だから「親・市場」、つまり市場経済を重視するのだ!と考えていました。冷戦期は、この見方はそれなりに適切だったのだと思います。
ですが、冷戦が終わり、新自由主義に基づくグローバル化の時代になると、市場が変質します。そして、グローバル化した市場経済の行きすぎが、日本の文化や伝統、普通の人々の暮らしを壊すように作用する場面が増えてきました。
しかし、日本の「保守派」はなかなか冷戦期の思考パターンから抜け出せませんでした。
例えば、昨年亡くなった中曽根康弘元首相は、2006年のインタビューで「保守主義」とは何かと問われ、次のように述べました。
「あえて言うなら、歴史的、文化的に伝承してきた民族的エネルギーが、自由、自然に発露している生き様が、保守主義である。現代においては、具体的には反共主義、反社会民主主義として表れる。自由か統制か、自由経済か計画経済かという判断基準で分かれるわけだ。保守主義は小さな政府や規制解除の方向へ行く」(『読売新聞』2006年10月19日付朝刊)。
2006年と言えば、冷戦終結から15年以上たち、郵政民営化などの小泉・竹中コンビの新自由主義的改革も経験した後ですが、まだ、「保守派=反共=市場重視」という図式が強かったのが見て取れます。自民党の議員やその支持者の多くが、「改革」を支持したのは、中曽根元首相のような見方が根強かったのが一因でしょう。
それからまた15年近く立った現在ではどうでしょうか。
今は、「保守」が何か、それに対立するものが何かもよくわからなくなっているのではないでしょうか。ただ、惰性で「カイカク、カイカク」「スピード感ある改革が大切だ!」とか言っているだけになってしまっているようです。
先週あたりから、日本学術会議の新会員の任命拒否問題が話題になっていますが、菅政権はこれも「行政改革の一環」としてみてほしいというふうに主張し始めているようです。
例えば、以下の記事です。
「自民、「学術会議改革」で反撃 閉鎖体質と非難、論点ずらし狙う」(『時事通信』2020年10月8日配信)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100801098&g=pol
確かに、日本学術会議のあり方を見直す必要は私もあると思いますが、ただ、それと今回の新会員の任命拒否の問題とは別でしょう。
「改革」を何のためにするのかもはやわからなくなる一方、ひとまず「改革」と言っておけば、世間は大抵のことは納得してくれるのではないかと思っているようです。
まあ実際のところ、人々は「改革」という言葉に弱いですから、菅政権のやり方が結構、通ってしまうのかもしれませんね…。
ですが、冷静に振り返ってみれば、ここ20数年、日本は常に構造改革に取り組んできました。その結果、普通の人々の暮らしは良くなるどころか悪くなったように思います。
やはり、「保守」とは何を大切にする考え方なのか、「保守の政治」とは何を目標とすべきなのか、きちんと考えてみる必要が大いにあるようです。
長々と失礼しますた…
<(_ _)>
【施 光恒】「保守」も「改革」も空洞化への3件のコメント
2020年10月11日 7:33 AM
「保守」も「革新」も
根っこは 一緒
すなわち 売国
売国主義の ホスハ カクスンハ ってか、、
ちなみに
ガクヅツカイギ(学筒会議)って
ILC誘致に反対してました よね、、
たしかに 筒
中身は カラッポ だ ♪
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2020年10月12日 4:04 AM
この問題の最大の原因こそが紛れもなく歴代の長期政権と、それをなんの疑いもなく平和ボケで支持してきた大衆の結果なのです。それだから故・西部邁先生は早い段階からオルテガの本質を解いて的を射ることとなるプロパガンダの核心【大衆の反逆】について執筆なさっていた偉大な方だったのです。つまりそれが認識できれば社会のダニに該当するメディアの存在目的が認識できますから出来る出来ない問わずにメディアといかがわしい法律は追放しなければならないのです。だとすると舛添要一やら北岡伸一やら維新の会とか立憲民主党とか人権問題を口実にする姑息な政党などの連中が存在する必要はないと認識できる結果におのずとなる訳ですね!ちなみに話題の国民の自殺やら日本の学術会議のゴタゴタ問題は、私ならば将来世代に大きな禍根を残す可能性が高いためとして安全保障の観点から秘密保護での処理を目指すかなと思う訳ですがね。もしそれを菅政権が実行すればまた新たな話題をオールドメディアが仕掛ける可能性が極めて高くなるのが国際社会の仕組みだからと認識するべきなんだとね!
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2020年10月13日 5:58 PM
>晩婚化や少子化
菅総理は不妊についての政策を出されました。否定をすることはありませんけど、避妊に至る方が問題ですよね。
保守で在りながら、商売や結婚について自由が最良としてきた時代背景に乗って、改革嗜好…
思考は改革出来ないでいますね。
商売…家族構成が問題になる仕事は多い筈です。自由で斑の極致では商売も成り立たなく成る地域が出てきます。
今ヤクルトの販売店の横を通りましたけど、地場的な家族維持(近親相姦的な推進をしろと言ってるわけではありません)を計るために、
やはり自由だけじゃなくさなくてはならないのです。
菅総理だって田舎から過密都市に来たわけでしょ。そしてマウンティング自由主義偏執ファシズムにいまだに走るとは狂気としか言えません。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
コメントを残す
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です