From 青木泰樹@経済学者
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●日本はなぜ、負ける戦いへと突き進むのか?
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世間の常識はひとつでも、経済学の常識は幾つもあるので厄介です。
社会の常識はその国の文化、伝統、慣習等によって形成され、歴史によって選別された「取り決め(規範)」ですから、国民は常識の内容について同一のイメージを共有しています。
しかし、経済学の世界では事情が異なります。
経済学が統一体ではなく諸学説の集合体であるために、「経済学の常識」も一つではなく複数個存在してしまうのです。
以前お話ししたように、経済学には理論の抽象度の相違によって供給側および需要側の経済学という二大学説が並存し、さらに私の依拠する経済社会学といった分野もあり、それぞれに常識を持っています。
そうした幾つもある経済学の常識を区別するには、各々の常識が妥当する範囲を知る必要があります。
イスラム文化圏の常識をアングロ・サクソン文化圏に持ち込んでも意味がないでしょうから。
新古典派を源流とする「供給側の経済学(主流派)の常識」は、合理的経済人だけから成る世界に妥当する常識です。
他方、需要側のケインズ経済学は非合理な主体や不確実性の存在する世界に妥当する常識ですし、また経済社会学はその延長線上としてより現実的な国家・国民が存在する世界での常識を構築しようとしているわけです。
各々の経済学の常識は妥当範囲を逸脱しない限り、学問上の常識として棲み分けることが可能です。
しかし、常識の適用範囲を誤れば、例えば主流派経済学の常識を現実経済に適用するならば、結果的に大いに経済を混乱させることになります。
本日は、学問上の常識が、現実経済を前提とすれば非常識になってしまう事例を二つ考えたいと思います。
先般、ムーディーズ社が消費税増税の先送りや実体経済の弱さを理由に日本国債の格付けを引き下げました。
消費税増税による財政再建論を未だに叫ぶ主流派学者やエコノミストと同様に、格付け会社の人たちも国家の信用(認)や国債問題について全く理解していないようです。
というより新古典派モデルの常識(入りと出が一致する予算制約式)に従っていると言い換えた方がよいのかも知れません。
「国債の償還資金は全て税収で賄わなければならない」という常識に従えば、国債残高が増加するほど将来の税負担が重くなるのは必然です。
そこから「消費税増税を延期したところで結局将来の大増税は不可避である」とのお決まりの結論が導き出される。
日経新聞の論説委員長も一面で「どう考えても、膨大な借金を抱えたままで、この国が先々までやっていけるわけがない」という誤った認識を撒き散らしているのが現状ですから、私としても繰り返し誤解を指摘していく外なさそうです。
日本国債の格付けの引き下げは、格付け会社が「日本国債は将来価格が下がる(金利が上がる)リスクが高まりました。保有者の皆さん、これから購入を考えている投資家の皆さん、気を付けましょう」と宣言したことと同じです。
主流派の常識から言えば、リスクが高まったという追加情報によって日本国債は売られるはずですが、そうした事態は現在全く生じておりません。長期金利の低位安定が続いています。
それどころか2年以下の短期国債のマイナス金利の発生に続き、5年国債の金利も低下の一途をたどり限りなくゼロに近づいています。
どうしてでしょうか。
「国債を大量に購入する日銀の存在が大きい。国債の流動性が乏しくなっているので、金利が少しでも上がれば(国債価格が下がれば)、すぐさま買い向かう投資家が出てくる」というのが金融関係のエコノミストたちの代表的見解でしょう。
その通りなのです。
日銀による長期国債の買い切り策が奏功しているのです。
それによって主流派の常識は通じなくなっているわけですから、もはやそれは常識とは言えません。
主流派はデフレ不況という民間の資金需要が停滞している状況および日銀による国債買い切り策といった政策手段を全く想定していないため、そうした状況下では無力なのです。
残念でしょうが、主流派の経済学の教科書通りにはならないのですね。
そこが現実経済に見合った新常識が必要な所以です。
「自国通貨建ての国債が償還不能になることはない」という認識が世間に広まりつつありますから、ようやく「財政破綻は借金が返済不能になることを意味しない」段階までには到達したと思います。
もう一歩進んで、「財政破綻とは民間から追加の借金が出来なくなることである」ことに思い至れば国債問題の本質も見えてきますし、そこから国の信用(認)とは何かという問題も理解できるはずです。
言うまでもなく、信用のない人がカネを借りるには、信用のある人よりも高い金利をオファーする必要があります。逆は逆。その点に関しては国家も同じです。
それゆえ国家の信用は長期金利の水準に反映されているのです。
日本は長期間にわたって世界最低の金利水準ですから、世界一信用のある国ということになります。
さらにそこに日銀が年80兆円の長期国債の買い切りを実施するわけですから、日本が財政破綻することなど考えられません(あったとしても世界一可能性は低い)。
また日銀保有の国債残高の増加は、民間保有の国債残高の減少を意味し、国債問題の解決に資することは前回指摘した通りです。
「借金が巨額すぎて、返しようがない」と嘆いている人たちに、二年余りで130兆円余りの実質的な国債残高が減少したこと、今後も毎年40兆円ずつ(新規発行を40兆円として)減っていく事実をなんとか伝えたいものです。
こうしたことが現在の国債問題に関する新常識なのだと教えたいものです。
次に現在の日本における金融政策の景気浮揚効果に関して考えましょう。
ケインズ経済学やリフレ派の常識がぶつかり合う主戦場は、金融政策の効果をめぐるものですからね。
ケインズ経済学ではデフレ下での金融政策はあまり効果がないというのが常識です。
その端的な表現が、金融政策を「ひも」に例えるものです。
曰く、「ひもは引っ張れるが押せない」と。
金融政策は景気の足を引っ張れるが(過熱した景気を引き締めることは出来るが)、景気を押し上げることは出来ないという意味です。
これを経済学の用語では、「金融政策の非対称性」と言います。それゆえ財政政策が必要となるのです。
他方、リフレ派の方はどうでしょうか。
黒田総裁就任以前、実際に金融政策を策定する日銀の人たちは、「岩田・翁論争」に見られるように、経済理論に対して懐疑的であったように思われます(日銀理論もあることですし。ただこの詳しい説明は別の機会に譲ります)。
もちろん、現在は日銀のツートップがリフレ派ですから否応なしに追随せざるを得ないでしょうが。
それゆえ現在の日銀の政策は、ゼロ金利制約下における非伝統的金融政策にインフレ目標というリフレ派の理屈を接ぎ木したものとなっています。
簡単に言えば、「名目金利を下限近くまで下げても実物投資は盛り上がらないから(伝統的金融政策の限界)、直接民間にカネを渡そう。しかし、しょぼしょぼ出しても駄目だから、ドカンと出して驚かせ、人々の期待を変えよう」ということです。
しかし、日銀は民間金融機関にカネを渡せても、実体経済に直接渡すことは出来ないという現実の壁に直面しており(マネタリズムもそれを越えられない)、そこを突破することは困難な状況です。
総務省発表の10月のコアコアCPIは前年同月比2.2%の上昇ですが、消費税分2%を引けば「プラス0.2%」です。
消費財の中には当然輸入品も含まれますから、物価上昇はほとんど円安による輸入物価インフレによるものといえます。7−9月期のGDPデフレーターも「マイナス0.3%で」したね。
二年で130兆円のベースマネーを投入した結果がこの有様です。
もちろん日銀による長期国債の買い切りによる量的緩和政策は、何度も強調するように国債問題の解決策としてはベストの政策ですから、私は現行の量的緩和策を評価しています。今後もバブルの発生に気配りしつつ実施すべきでしょう。
しかし、景気浮揚効果はほとんど期待できないのも、これまでの経緯からして明らかなのではないでしょうか。
リフレ派の常識は、身内の小さな学者サークル内での常識に過ぎず、それを越えて世間に通じるものではないのです。
副作用としての輸入物価インフレを相殺するためにも、国土強靭化計画のような明確な理念の下での中長期的な財政出動が望まれるところです。
ただリフレ派の先生方も多様なようです。
黒田日銀総裁や岩田副総裁のように、一般にリフレ派の人達は量的緩和が人々の期待に働きかけるという理屈に基づき定性的な説明(傾向叙述)をするのが常ですが、実際にインフレにならないのでやきもきしているのが現状だとお話ししました。
しかし、先日、リフレ派の著名な学者が定量的な説明をしているのを聞く機会があり、その内容に驚天動地の思いを致しました。
彼は有効需要の作り方と称して、「量的緩和の半分が有効需要(総供給と一致する総需要の水準)の創出になる」と論じていたのです。
10兆円の有効需要を創出するには20兆円の量的緩和をすればよいのだと。
もしもそれが本当であれば日本ばかりでなく世界中にとって福音と言えますが・・。
先述したように日本は二年間で130兆円の量的緩和を行なったのですから、それによって65兆円の有効需要が拡大したことになりますし、総需要不足に悩む諸国(ユーロを除く)は自前の輪転機(中銀)を持っているのですから、デフレギャップの倍額のお札を刷ればよいことになります。
もちろん財政出動などする必要もなくなります。
でも、本当でしょうか。そんなことを信じられますか。
詳しい効果波及過程は明示してくれませんでしたので理屈は良くわからないのですが、
経済学の常識は学者レベルでも異なるのだなあとつくづく感じた次第です。
世間的にも学問的にも常識人でありたいものです。
PS
日本はなぜ、負ける戦いへと突き進むのか?
月刊三橋の最新号「消費増税特集」を聞けるのは12/10まで
http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_D_1980/index_sv2.php
※月刊三橋メンバー限定「三橋貴明の情報の読み方」を発売中。
政治家、御用学者、マスコミの「嘘」を見破る具体的なテクニックを公開。
【青木泰樹】経済学の常識への7件のコメント
2014年12月7日 3:37 AM
10兆の有効需要は20兆の量的緩和? だから何。その需要が実体経済に流れへんのが問題ちゃいまんのか。リフレ派のみなさん、株で相当儲けたんやろうから、そろそろ金融学をやめて国家経済学を学んだらどうでっか。
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2014年12月8日 3:25 AM
「妥当しなくないことから」 は「妥当しないことから」ですね。 訂正いたします。
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2014年12月8日 8:51 PM
「経済学の常識を区別するには、各々の常識が妥当する範囲を知る必要があります。」これに尽きますね。 それぞれの学派が自論ですべてカバ−できると主張して、自派以外を否定する。否定されれば誰もが反発しますから、科学的論議ではなく権力闘争に陥っているのでしょう。物理学でも光速よりおそい物体の運動では古典的力学が十分に妥当していたが、光速で運動する物体では妥当しなくないことから相対性理論が生まれたわけで、 他を互いに否定するものではないように、諸経済学理論の妥当する領域を同定すればよいのです。まあ科学に忠実ではないことによって飯を食っている御用学者さんはセクトの教祖様と同じで、妥当する領域の同定でも飯の種が剥奪されるという恐怖で権力闘争を続けるのでしょうが...。 普通の市民が科学する心に覚醒すれば、科学に忠実でないことで飯くっている自称科学者は消滅していくでしょう。
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2014年12月10日 7:32 AM
高橋洋一ですね、彼は青木先生に痛いところを突かれて必死で誤魔化してましたね。
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2014年12月12日 6:09 AM
目から鱗♪一本の「補助線」を引いていただくだけで疑問が氷解します。経済学を理解するさいの補助線は、、青木さまのおっしゃる『経済学が統一体ではなく諸学説の集合体である』スルメの形態にいくら精通していても生きたイカの泳ぎ方はわからないリフレ派のスルメはけっして泳ぎだすことはないでしょうね。世間的にも学問的にも常識人でありたいものと切に思っております。
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2014年12月14日 6:05 AM
この前のバカリフレ達との討論お疲れ様でしたあいつらは詭弁使いなので、あんなやつらと青木先生が論争するのは不毛なのでもはや見たくもないですね例えば三橋さんはバカリフレ達を徹底的にシカトしてますが、それが正解なのでしょうまずあのバカリフレたちは人格に問題があります韓国みたいな人達と会話すると心が汚れるので、やはり無視でお願いしたいところですねチャンネル桜ももうバカリフレ達なんて放ったらかせばいいと思いますわ
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2014年12月16日 4:25 AM
デフレもインフレも貨幣現象である。そう考えたいのは純粋経済を理論化したい方であり、私もその中に存在します。貨幣現象の結果インフレとなった最たる政策は、江戸時代に何度も行われた貨幣改鋳であり、実証実験としても興味を注ぐ現象です。では純粋経済(新自由主義)とはこの世に存在するのかといえば、過去に於いても現在に於いても皆無であり、ミルトン・フリードマンも特例を設けてしまっている以上、証明には至っていません。只、この特例が重要な訳で、これを「安全保障」と言い、それを定義し換言するならば「国民総意の生存権」とし、財政政策で賄わなければならないのです。しかし、その効果は常に予測可能な『未来』に対してあるべき姿勢であり、『過去』や『現在』の問題対策には金融政策が最適であると考えます。それを怠ってきた日本銀行の政策は罪に値し、義を見てせざるは勇無きなる総裁が、歴代を飾ってきました。新自由主義者が嫌う「国民総意の生存権」なる財政出動とは,常に政治力学が働き、それを数値化できないが故に純粋な経済理論に不要との発想が根底にあります。しかしそうでしょうか。官僚の天下り先を設けるための財政政策は別として、「安全保障」の為の政治力学は数値化が可能と判断しています。いわば「理論政経学」とでも申しましょうか、概念さえ確立すれば、それに必須な資金は必ず積み上げることが可能なのです。逆に、新自由主義を標榜し、国際間での特定な集団のための政治力学を働かせている存在は、純粋な経済理論とは相矛盾している事実は興味深い現象です。IMF、BIS、格付会社等々がその実例として挙げられます。日本に於けるエネルギー政策も「国民総意の生存権」を前提に、財政政策から原子力発電政策に資金を向けていく姿勢は、これもまた相矛盾している故、興味深く且つ厄介な代物なのです。
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