From 青木泰樹
小判鮫は大きな鮫やクジラに寄生して生きていますから、吸着相手は生存を左右する大事なパートナーです。
しかし、吸着されている側にとっては迷惑至極でしょう。
全く関係ないにもかかわらず、結果的に小判鮫を養っているわけですから。
意外に思われるかもしれませんが、経済学説間にもこうした寄生関係が存在することを本日はお話ししたいと思います。
以前から強調しているように、経済学は一枚岩的な体系ではなく諸学説の集合体です。
大雑把に言って、ケインズに代表される「需要側の経済学」と新古典派に根幹を置く「供給側の経済学」に大別されます。
両者の最大の違いは、理論と現実の関係についての考え方にあります。理論であるからには、ある程度の一般性を要求されますから、抽象化は必然です。
問題は、一般妥当性と抽象化の程度が正の相関関係にあることです。すなわち、妥当する範囲を拡げたければ、抽象度を高めねばならなくなることです。
例えば、このメルマガの読者の皆様全員に当てはまる理屈をつくるためには、全員の個性を捨象しなければなりません。
なぜなら各人の有する個性こそが他者との違いに他ならず、それが一般妥当性の障害になるからです。
それゆえ、有史以来の全ての社会(事象)に妥当する理論は、必然的に抽象度が高くなります。
経済学説に関して言えば、供給側の経済学がこの方向を辿ってきました。自然科学にできるだけ近づきたかったのかもしれません。
結果的に、国家、歴史、文化、慣習、制度といった各国経済を特徴づける一切を捨象した「市場システム」という架空の場を想定し、それを「経済」と考えることにしたのです。
同時に、そこで活動する人間も没個性の同質的主体と想定することにしました。後は、人間に行動を起こさせる誘因としての価値観をこの中に導入すれば、経済は動き出します。
それが「物欲の充足」です。人間は物欲の充足のために生きるものだと。
もちろん、これは社会関係の一切を捨象したことから発する必然的帰結です。残されたものが人とモノ(資源)だけなのですから当然ですね。
ついでながら言うと、経済学でいう社会における「経済的厚生」とは、構成員の物欲の充足度を指す概念です。
皆の物欲が最大限充足されていることが社会にとっての目標ということであって、言葉からイメージされるような社会福祉とか社会的公正といった高尚な理念的意味はありません。
他方、ケインズ経済学の方はどうかと言えば、抽象度があまり高くないのです。
対象を先進諸国の資本主義経済という狭い範囲に限定しているためです。
あまり大風呂敷を広げずに、「この範囲に妥当すれば良しとしましょう」ということです。
その場合、国家や制度等はどうなったかと申しますと、外的与件として処理されます(ちなみに内的与件は、構造パラメーターや外生的政策変数です)。
経済活動の前提として「既にあるもの」と考えるのです。社会があってはじめて経済があるという考え方です(当たり前のようですが、経済学説の中では少数派)。
その想定によって現実とつながる経路が出来るのです。
与件が変化した時どうなるか、もしくは与件の変化が経済活動に如何に影響するかを考えるのが「与件の理論」です。
私の立脚する経済社会学もこの線上にあります。
さらに、人間の想定も現実的です。ケインズ経済学には、供給側の経済学のように同質的な個人を前提とするミクロ理論はありません。
しかし、それは欠点ではなく利点です。それによって多様な価値観を持った、各々個性を有する人間の集団として社会が構成されていると想定できるからです。
このように二大学説は、現実へのアプローチが根本的に違います。
端的に言って、供給側の経済学は、現実経済とは無縁の学問的構築物です。そこには現実経済を分析する領域がありません。
いわば現実分析は守備範囲外ということです。
しかし、供給側の経済学が現代の主流派である以上、それに立脚する経済学者も現実問題に答える必要に迫られます。
その際、さすがに「無いものはない」と開き直れないのです(正直に言う学者も少数いますが)。
「無いものでもある」と強弁せざるを得ない。そこに無理が生じます。
供給側の経済学の欠落した現実分析を埋め合わせるためには、別の論理が必要になります。
そこが学説間の無理な結合や寄生関係が生ずる温床です。
供給側の経済学のルーツはワルラスの一般均衡論です。現代の最新理論もその発展形です(「動学的一般均衡モデル」)。
実は、そこには政府が存在しないのです。論理の始発点に政府がない(ちなみに貨幣もない)。それゆえ経済政策もないのです。ですから現実分析ができないことは当たり前と言えましょう。
その学説は、民間経済における最適資源配分を達成する諸条件を定立する純粋理論なのです。
政府不在、政策不在を取り繕っている理屈は何でしょうか。
それは供給側の論理とは全く別個の論理であって、便宜上、くっついているだけなのです。
すなわち、供給側の経済論理からは演繹できないものなのです。代表的な吸着物(論理)を三つ挙げておきましょう。
第一に、財政均衡主義です。
「入りを量りて出ずるを制す」という考え方に多くの人は納得するでしょう。
しかし、これは個人や企業にとっての行動指針になるとしても、政府に当てはめることができません。
個人の家計と政府の財政を同一視してはならないのです。
個人の寿命はたかだか百年くらいでしょうが、政府は永続化する存在です。それゆえ財政運営方針は中長期的観点から現実経済に悪影響を及ぼさないように策定されるべきものです。
短期的な財政均衡を目指すために現実経済を疲弊させるなど愚の骨頂です。
目的と手段を完全に取り違えている。
財政均衡主義は、一般的な数学モデルの前提条件である予算制約式の経済的表現に他なりません。
「入り」と「出」が一致しないとモデルが発散してしまうという技術論なのです。
それゆえ財政均衡主義の正当性は論証されておりませんし、今後も論証できません。
当然のことです。単に個人の予算制約式の延長上に政府の予算制約式があるとの想定から発したものにすぎないからです。
政府は単なる家計の集合体ではないのです。
ミクロの家計の論理をいくら積み重ねても、社会全体およびその行く末を考える政府の公共の論理を導き出すことはできないのです。
第二に、ミルトン・フリードマンの提唱した新自由主義思想です。
これは供給側の経済学の中核をなす最適資源配分の達成された一般均衡状態を、「経済的自由が完全に達成された状態」と解釈するイデオロギー(究極的価値判断)です。
簡単に言えば、「完全競争市場においては、誰からも強制されることなく自由に好きなものを取引できるから」というのがその理屈です。
このイデオロギーによって、効率を求める競争は自由を獲得するための社会運動と化したのです。すなわち、競争(効率)と自由は同義となったのです。
構造改革論や小さな政府論のような新自由主義的政策は、全てこの新自由主義思想から発したものです。
政府の活動範囲を狭めれば狭めるほど民間の自由が拡大し、それが望ましいとする短絡的な思想です。
しかし、それは政策不在の供給側の経済学に見事にフィットしたのです。
第三に、前回少しふれましたトリクルダウン仮説(政策)です。
金持ちに所得移転すれば貯蓄が増えて経済は成長するという話でしたね。
これは供給側の経済観である「供給側が経済規模を決める(セー法則)」および「貯蓄は全て実物投資される(貯蓄先行説。また貸付資金説も同様のことを想定しています)」を前提に、現実経済に見られる貧富の差の存在を結合した論理構造になっています。
その意味で、純粋理論と現実の脈絡なき結合という典型的な経済論理の濫用パターンと言えます。これは理屈として成り立ちません。
供給側の世界には、現実世界のような貧富の差はありません。
全員が現状に満足しているのです(主体的均衡状態)。既に最適資源配分が達成されている状態です。
そこに政府が政策的に所得配分を変更するとどうなるか。パレート最適(効率性)状態が崩れます。非効率な社会になってしまうのです。どう見ても、これは変ですね。
これまでお話ししたように、供給側の経済学には様々な寄生学説が付着しています。
予算制約式にくっついたり、市場均衡にくっついたり、経済観にくっついたりと色々です。
一見すると、寄生関係が分からずに一連の論理として認識してしまいがちですが、セットと見なしてはなりません。それぞれ別個に評価すべきでありましょう。
供給側の経済学は、厳しい仮定の下で成り立つ純粋理論です。その仮定を受容すれば、学問的真理を語っており、異論の差し挟む余地はありません。極めて強固な論理性を保持しているのです。
そうした分野で虚心坦懐に研究に専心している経済学者もおります。彼等は「現実経済に口出ししない」という矜持を保っている学者です。
問題は、供給側の経済学を利用して、自らをあたかも極めて論理的であるように見せかけている「学説らしきもの」が存在することです。
さらにそれを吹聴する学者も多いということです。私達はそれを見抜くことが肝要です。
利益誘導だけを目的とするトリクルダウン仮説は論外としても、供給側の経済学に深く浸透している新自由主義思想との合体形の学説(それを私は「ネオリベ経済学」と呼称しております)の存在は注意を要します。
その政策は経済論理にではなく、イデオロギーに根差すものだからです。
真っ当な少数の供給側の経済学者達は、そうした傾向をさぞ苦々しく思っていることでしょう。
PS
このVideoには、一部の人にとって不快な情報が含まれています。
ご覧になる場合は、自己責任でお願いします。
https://www.youtube.com/watch?v=ZK5RY5rIGs8
【青木泰樹】これは経済論理ではありませんへの3件のコメント
2014年10月11日 1:32 AM
どのような世界においても、およそプロの先端、あるいはその世界のパイオニアなどたちはどれもがおのれの取り組む専門の地平線に着いてしまったあとでは、生の人間のあくなき挑戦になるわけで、そこにカミをみるか、因習にみいだすか、それぞれ、さまざまであっても、かれら同士には、通じる何かがあるとしか思えないのです。ごくひとにぎりのプロスポーツ選手、音楽のパイオニア、天文学だか物理学の先端、そして複雑系を相手にする学者、科学者もきっと同じ匂いがするのでしょう。そこではじめて、地平まで来にくくなった高度知識な現代の、ある種大人な境地か、保守的平静か、古の大人ならば得られたであろう境地というものがあるはずで、その点において多くの違いを乗り越えて民主主義のようなチープながら最善ではあるシステムのまま、なんとか今を次につなぐことが出来ればと、なんだか哲学じみた夢を抱きました。心理学が精神分析のような表現力と、スキナーのネズミのような客観性との振り子になっている(私見)、あるいは某学会でまた20年ぶりにアフォーダンス的なもの、つまりはラベルによる記述の放棄、サイエンスからの進歩的脱落と実践学としての諦念でしょうか(これも私見)を思い出しつつ、そう考えれば経済学という学問も、本質的に同種の壁に立ちすくみ、現代では言語的な突破口もなく、右往左往していると、その学問的な性格から実社会との影響がダイレクトに広がり、それゆえ学会内で浮世離れして済ますわけにもならないということなのかと、ずいぶん剣呑な学問だなと知りました。救う剣は殺しもする訳でしょうか。(自分はこちらを選ぶべきだったか!?)>そうした分野で虚心坦懐に研究に専心している経済学者もおります。彼等は「現実経済に口出ししない」という矜持を保っている学者です。これは実にまともな態度でありますね。もしかすると何かに気づいていて、そして己のできる範囲を確認ができている方、なのかもしれませんですね。次の扉を開けて、絶壁の向こうに行くべきでしょうか。科学が社会を基盤とするならば、右往左往するのはその扉を開けてはいけない、その次の世界に耐えない現状であり、時期尚早なのかと、煩悶いたします。
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2014年10月11日 6:16 AM
青木先生の小判鮫の喩え、大変面白く、また小判鮫理論家にたいする警戒警鐘は痛快です。「政府不在 政策不在を取り繕っている理屈は供給側の論理とは全く別個の論理であって、便宜上、くっついているだけであり、供給側の経済論理からは演繹できないものなのです」と喝破されている通り、いろいろな理屈が元の純粋理論から演繹できるかどうかが小判鮫理論 似非理論の見分け方でしょう。経済理論に限らず 没論理で理解不能な似非理論家多いですね。また小判鮫でなくとも過去のトレンドを法則のように主張する人も多いし、全て理論の名に値する理論はCETERIS PARIBUS(その理論で扱う変数以外のすべての変数の値がその理論の定理を成立させた状態から変化してない)がその理論の有効条件であるにもかかわらず、それを無視して、あとで自分の理論にそって予測したことが外れると、「これは確率的現象」とか 「想定外」だと言って逃げる人も多数です。またシステムの均衡状態とシステムの機能的要件の満足状態の区別をせず、加えて日本語では均衡を「最適化」という聞こえのよい言葉で表現することもあって機能的要件の満足化と区別がつけられず 均衡を政策目標としてしまいます。先生がご指摘される財政均衡主義はその典型ですね。なんでも自由にさせて自由競争の行きつく先が最適と主張している人々は、悪貨が良貨を駆逐してもそれが最適状態とでも言うのでしょうか。自由競争の一種である受験戦争に勝ち抜いてきたエリートは適者生存の勝者なのだから、福島原発事故で責任逃れに「想定外」を口にしても我日本国の危機管理意思決定システムは最適化しているとでも言うのでしょうか。
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2014年10月13日 4:54 AM
供給側の理論において、理論自体が「とある仮定」がある前提で成り立つ事に対して、・誠実であるか・不真面目(政治的、及び金儲け目的)であるかの違いなのでせうか?
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