From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
————————————————————–
●三橋貴明の最新無料Videoが公開スタート。EUの闇とは
https://www.youtube.com/watch?v=DID9wg3PIVo
————————————————————–
おっはようございま〜す(^_^)/
このところ、このメルマガをはじめとしてあちこちで安倍政権の「英語偏重の教育改革」を批判しているためか、ビジネスマンや大学関係者、行政官などから、「小学校における早期の英語教育の導入」、「大学入試や国家公務員総合職試験でのトーフル採用」、「企業の英語公用語化」などについてよく意見を尋ねられます。
また、他の多くの大学もそうですが、私の所属する九州大学も、文科省の進めている「スーパーグローバル大学」構想に手を挙げているため、学内外で大学の「英語化」に関する議論をすることが最近、増えてきました。
英語化推進派の主張でよく耳にするのが、「言語はツール(道具)に過ぎない」という言い方です。
例えば、「英語はコミュニケーションのツールなのだから、子どもに教えるのは早ければ早いほどいい」とか、「英語はツールにすぎないのだから、大学の講義の英語化は大胆に進めるべきだ」などの意見をよく聞きます。それも、役員クラスのビジネスマンとか、学長クラスの大学教員、あるいは政治家とか、そういういわゆる「お偉いさん」というか「エリート」とみなされている人々がこういうことをよく言うんですよね。
(-_-;)
私は、「言語はツールにすぎない」というのは、かなり一面的で、ゴーマンな見方だと思います。
人が、あるモノが「ツール(道具)である」というのは、自分の目的が明確に定まっていて、そのモノが目的実現のための手段として役立つことを意味します。
そのとき、そのモノが、目的、あるいは目的の持主に影響を及ぼすことは想定されていません。
言語は、単なる「ツール」以上のものです。言語は、使う人の自我のありかたに影響を及ぼします。(自我に影響を及ぼしますので、当然ながら、その人の目的のあり方にも影響を与えます)。また、文化にも大きな影響力を持ちます。
たとえば、このメルマガでも以前、書きましたが、日本語と英語では、話し手は、異なった自己認識を迫られます。(この点については、下記の前半部分にも以前書きました)。
【施 光恒】日本語の優しさ(2013年11月1日配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/11/01/se-25/
英語の場合は、話し手が自分自身を指すときは、常に”I”ですし、相手を指すのはいつも”you”です。
英語などヨーロッパの言語は、自分や相手を指す語はとても限られています。ヨーロッパ言語では、自分や相手を指す言葉は、せいぜいそれぞれ一語や二語ぐらいしかありません。
他方、日本語では、さまざまです。たとえば男だったら、仕事中やかしこまった場では自分のことを「私」と呼ぶけれども、気のおけない友人や家族との会話では自分のことを「俺」とか「僕」とか呼ぶという人は多いでしょう。
日本語には自分自身を指す語は、「私、俺、僕、自分、わし、手前、小生」などたくさんあります。また、話している相手を指す語も、「あなた、君、お前、貴様」など数多くあります。
これ以外にも、自分や相手を、職場や親族のなかでの「役割」で呼ぶ場合も少なくありません。
たとえば相手を指す場合でしたら、「先生」、「課長」、「部長」などの職場での役職で呼びかけたり、「お母さん」、「お姉ちゃん」「おじいちゃん」などの親族名称で呼んだりするのは普通です。
J( ‘ー`)しカアチャン
日本語では、自分自身を役割名称で呼ぶこともあります。たとえば、小さな子を持つ男性が、子どもの前では自分のことを「パパはね〜」とか「お父さんはな」とか言う場合です。
このように、日本語には、会話のなかで自分や相手を指す言い方が多岐にわたっていて、状況に応じて、うまく使い分けていかなければなりません。
英語の場合は、自分はどんな場合でも常に”I”です。このことは、英語の世界観では、常に自分が出発点、あるいは基準として、そこから周囲を認識するというものの見方になることを示しています。自分がまず揺るぎなく世界の中心に存在していて、そこから他者や周りの状況を規定していくというわけです。
日本語の世界観は違います。日本語は、状況に応じて、適宜、自分を指す言葉を柔軟に使い分けなければなりません。ということは、自分の周りの状況を先によく知って、その後、そこでの自分が認識されるという順番になります。つまり、自分がどういう存在かは、場に応じて臨機応変に決まってくるという具合なんですね。
この自己認識のあり方の相違は、文化の面でも大きく関わってきます。たとえば、日本と、英語を母語とする国とでは、道徳の見方が変わってきます。
日本では、「思いやり」「譲り合い」「気づかい」の道徳が発達します。
状況認識や他者との関係性の認識が先で、それに応じて臨機応変に自分を規定していくという柔軟な日本人の自己認識のありかたは、「思いやり」「譲り合い」の精神を育みやすいのです。
自分の主張や欲求を、状況や他者の観点に照らして、お互いにより望ましいかたちに事前に調整し合う。そして各人には、場の複雑な状況や他者の観点を鋭敏に読み取るための「共感能力」(思いやりの能力)や、自分を客観的に見つめ、必要であれば自分のこれまでの認識や考え方、行為を柔軟に修正していくための「反省」の能力が求められる。そういうものが日本人の道徳となりやすいのです。
他方、英語を母語とする人々でしたら、自己は最初から中心に位置するので、複数の人々の自己主張が前もって調整されることはなく、衝突し合うことになります。そこで、英語圏だと、互いの自己主張のぶつかり合いを事後的に調整する「公正さ」という理念や、それを体現する法律やルールの明記や順守(最近の言葉でいえば「コンプライアンス」)が大切になってくるのです。
「思いやり」や「反省」を重視する日本語の世界と、「公正さ」という理念や「法」「ルール」による事後的調整を重んじる英語圏のあり方。どちらが優れているというものではなく文化的相違の問題ですが、多くの日本人にとっては、慣れ親しんだ日本のやり方のほうが好ましく感じるのではないでしょうか。
加えて、このような道徳は、経済や産業のあり方にも大いに関係してきます。
たとえば、東京オリンピック招致のスピーチで女子アナが使って、昨年の流行語大賞にも選ばれた「おもてなし」です。
老舗料亭の家に生まれ、三越やアメリカのディズニーランドでサービス業を学んだ上田比呂志氏は、おもてなしの中核にある「気づかい」の心とは、「相手が欲しいという言う前にその気持ちを読みとり、さりげない行動で示す」こと、「思いやりの心をもって相手が望むことをする」ことだと述べています 。そして、「気づかい」は、やはり日本文化のなかで育まれた、日本人でないとなかなか身に付けられない文化的色彩の強いものだと語っています。
「おもてなし」「気づかい」は、まさに日本人の道徳意識の発露そのものです。磨かれた「思いやりの精神」を用いて、言われなくとも他者の視点を想像し、他者の視点から自分を見つめ、自分が何をすべきか考え行動する。日本人が、長年育んできたこの能力こそが他の文化で育った人々には真似のできない日本のおもてなしの基礎にあるといえます。また、それが旅館や料亭、あるいは和食やその他の職人仕事にも活かされ、日本の産業の基盤の一つになっているのです。
加えて、日本のものづくりの巧みさも、こうした文化的要素が関係しています。
たとえば、ものづくりの研究をしている経営学者・藤本隆宏氏が近年よく指摘しているのは、日本の製造業の中でも特に強い分野というのは「摺り合わせ型」であるという点です。藤本氏は、製造業を「摺り合わせ型」と「組み合わせ型」に分類します。
「摺り合わせ型」というのは、たとえば自動車やデジタル一眼レフカメラなどで、各部品を相互に上手く適合させる必要のある分野です。自動車なら、たとえばトヨタと部品メーカーは何度も話し合い、トヨタ車用の部品を開発していきます。試作品を作り、各部品を擦り合わせていくわけです。
「組み合わせ型」は、汎用の部品を集めて、組み立てればできてしまう分野です。例えば、コンピューター一般やアップル社のアイ・ポッドやアイ・フォンです。一番安くて品質のいい既存のものを組み合わせていくことが求められます。
日本の製造業で特に強いのは、自動車やデジタル一眼レフカメラなどの「摺り合わせ型」です。逆に、自転車は「組み合わせ型」で、最近は台湾などが強いようですね。
「摺り合わせ型」の産業では、コミュニケーションを密にし、良い物をつくろうという一つの目標に向かって、まさに摺り合せを行います。その際に、「思いやり」「譲り合い」という道徳と通底する日本的なものの見方が役立ちます。つまり、全体の状況を見渡し、自分のあり方を調整する行為が有益なのです。
以上のように、日本語と、日本の道徳、あるいは日本の経済や産業の強みとは、密接に関係しています。「言葉はツールに過ぎない」というのは誤りです。
私は、政治家や、企業や大学の幹部などいわゆる「エリート」と呼ばれる層に、「言語はツールに過ぎない」と言いつつ、「小学校における英語教育の導入」「企業の英語公用語化」などの日本社会の英語化を訴える人々が多いことを懸念します。
「言語はツールに過ぎない」という発言では、言語が、使い手の自我や、文化や社会のあり方に大きな影響を及ぼすものであることがまったくというほど考慮されていないからです。
本来、「エリート」とは、自分自身や自分の属する社会が、先人の培ってきた文化や伝統によって形作られていることを深く認識し、文化や伝統の維持・発展に責任を負う人々のことを指すはずです。
よくいわれるように、エリートが「高貴な徳」(ノブレス・オブリージュ)を負うのは、自分自身の精神が文化や伝統によって形作られ、その恩恵を大いに受けていることを人一倍認識し、それに恩返ししようということからにほかなりません。
(短期的な)教育政策の一つとして英語力強化を主張することを、私はハナから否定するわけではありません。しかしそういう主張を行う場合、言語は文化や伝統を背負っており、日本の文化や伝統の維持・発展にどのような影響を及ぼすかを真剣に考慮することが必要なはずです。
「言語はツールに過ぎない」と言いつつ日本社会の英語化を進める「エリート」がたくさんいる日本の将来が、私は大変心配になります。また、そういう「エリート」が作り出そうとしている「グローバル人材」なるものが本当に増えたとしたら、日本はいったいどうなってしまうんでしょうね。
いつもながら長々と失礼しますた…
<(_ _)>
PS
ドイツとEUの闇とは?
https://www.youtube.com/watch?v=DID9wg3PIVo
【 施 光恒】「言語はツール」の落とし穴への8件のコメント
2014年8月23日 3:37 AM
>アメリカ、イギリスなどの英語圏の政治・経済・軍>事が凋落しようともますます英語が世界の共通語と>なることは確定的であります。多分、それが今後の趨勢であろうと私も思います。しかし、これをラテン語との類推で語る際、難点が一つあります。西ヨーロッパ(西ローマ帝国の圏域)でラテン語がlingua francaとして幅をきかせていたのはその通り。しかし、東ローマ帝国では、比較的早くにラテン語は公用語としての地位をギリシャ語にあけわたしていることを忘れてはならない。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月23日 6:40 AM
グローバル・エリート養成やオールイングリッシュといった機軸に前のめりになる理由の一つに、やはり国際教養大学の存在があるのでしょう。グローバル・エリートなるものが果たして国家を担うべき真のエリート足り得るかどうか、また偏差値や就職率だけでない、起業率や思想・言論の傾向など、多角的で冷徹な分析がまだまだ必要なのに、この方針・方式を全国に広めようというのは、いかにも前身から前科持ちらしい、成功例しか見ようとしないこの役所の浮薄なところで、いい加減にしてもらいたいですね。社保庁が潰されたとき、何とも感じなかったのか。我が国ではあらゆる学問が国語で学び通せる。これを世界中当たり前だと思っている奴らがいるのは本当に驚きだ。そんなに世界共通語なるものが大事で、世界共通語に自信があるのなら、英語圏以外の国々を覗いて来たらいい。国語で高等教育が受けられず、国語だけでは満足な就職先のない国がどのような国なのか、国際教養大学の評判をいつまでもテメエの手柄気取りに喜んでいないで、よく見て来るといいと思う。英語が「言語ツール」に過ぎなくなっている事に最も危機感を抱いているのが英国人だった。英国本来の英語や正しい英語表現を、共通語化されたいわゆる「ペラい」英語が破壊し尽くそうとしていると、かつては正しい英語を守る会のような団体が複数あった。それがいずれも近年までに体力をなくして姿を消してしまった。「力を伴わない文化は明日にでも死滅する文化となってしまう」と言ったチャーチルの国で、この有り様とは。公立図書館には左翼思想の持ち主がしばしば守護神の如く控えているけれど、我が国の書肆書館が決して洋書で埋め尽くされていない、このありふれた光景もまた、チャーチルのいう「力」、文化を支える国の力そのものだと思う。外国語を学んで日本を日本語を豊かに高めよう、という大目的が、いつの間にか英語ができると雇ってもらえる、話相手してもらえる、人と差をつけられるといった、有体に言って卑しい動機にすり替わってしまっている。こんな恥ずべき体たらくなら、いっそのこと英語の授業そのものを国が義務化することをやめたほうがいい。私たちの乞食根性がますます磨かれるだけ、日本人の民度が下がるだけだ。そもそも小学校から英語教育の導入など、まったくとんでもない思想介入だと思うのだが、実際に話を聞くと、母ちゃんたちの要望が高いらしい。高校の英語の先生たちが口を揃えて「やめた方がいい。読み書き重視の中学に入って英語が嫌いになるのが目に見えている。その回復に費やす本人の負担を考えてみてほしい」と言っても、母ちゃんたちは自分の子どもを信じて聞かない。夢を見たがる人は現実を見ようとしない。嗚呼。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月24日 7:28 PM
世界には無数の現地語があって、ある現地語の話者は気持ちが通じ合い、特定の風俗習慣、文化が形成されます。しかし言葉が通じない相手とは不信感、違和感、敵対も自然の成り行きです。はるか紀元前から、ごく少数の有能な人間は文字を読み書きする能力を身につけました。ごく少数の「二重言語者」です。文字で記録された書物は、ある大きな文化圏ごとに共通の言語で書かれていました。現地語ではありませんし、話し言葉でもありません。二重言語者たちは、過去の書物を翻訳して自分の郷土に伝えていました。人類の宝である哲学、文学、天文知識、科学技術、歴史や他国の状況を知り、また逆に自分の郷土の情報を他の言語地域に伝えることもしていました。これらは話し言葉でなく書き言葉で行われました。共通語は具体的には、漢字、ギリシャ語、ラテン語です。ラテン語はローマ帝国滅亡後も歴史的長期間にわたって共通語でした。その後、現地語ではなく、「国語」が発生しました。国単位で「共通語」の役割を果たせる自分たちの書き言葉としての言語が成立しました。フランス語、スペイン語、英語、ドイツ語、イタリア語、などです。日本語もそのひとつになりました。歴史的には最近のことです。各国語の成立過程では、抽象的概念や科学的用語、心情的用語も、ラテン語を土台とする造語が中心でした。明治時代以降、国語として整備されていった日本語は漢字をくっつけて極めて短期間に手抜きで造語してゆきました。話し言葉としての発音による識別性は犠牲にしたということです。ラテン語から造語された多くの用語を使う英語、フランス語、ドイツ語などを翻訳するに当たって漢字を便利に使いました。世界では各国語の内、英語がかつてのラテン語の役割をはたすようになりました。世界を支配した大英帝国とパクスアメリカーナによってそうなりました。文学的、心情的表現を除き世界共通語は「英語」がますます支配的になるのは確実です。インターネットなど情報革命がそうさせます。アメリカ、イギリスなどの英語圏の政治・経済・軍事が凋落しようともますます英語が世界の共通語となることは確定的であります。共通語がラテン語から英語に変わったという大きな歴史認識をすれば許容できることです。「伝えるべきものを持つ者」は「国語」の範囲ましてや「現地語」の範囲で言論活動をとどめたりはしません
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月25日 10:37 PM
以前紹介されていた鈴木孝夫の「ことばと文化」。あの本は教科書にも載っていたと記憶しますが、「言語はツール」などと平然とのたまう人々は、あれを読んでも感銘を受けたり得心が入ったりしなかったんですかね。まあ、受験合格のためのツール程度の付き合いで通り過ぎてしまったのかもしれません。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月26日 4:25 PM
先日、「米中韓より、日本の学生は科学への関心が低い!」みたいな記事を見かけて仰天しました。http://www.asahi.com/articles/ASG88438MG88UTIL010.htmlまず、現状のデータを使っても日米韓で優位差が出ない上に、「無回答」を無視して再分率を行えば殆ど差がありません。これは「結論ありき」の研究報告に他ならず、トンデモナイと思います。更にとんでもないのは、この研究報告を用いて「教育政策」が組み立てられるという点です。正直、小保方論文など比較にならない程の捏造研究報告じゃないでしょうか・・。施先生の仰る英語についてもそうですが、このようにして「都合のいい人材」を目指した教育がなされていく事に、正直ゾっとします。本当に「誰のための教育」なんでしょうか。教育論という意味では、そもそも高校無償化についてもオカシイと思います。高校無償化の根拠の大きな1つに、【「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」に高校無償化を行うことが書かれており、これに批准していないのは160ヶ国中、日本とマダガスカルの2国だけだ・・】 というのがあったかと思います。この規約を読むと、「高等な教育を受けたいと切望するのに、金銭的な理由で教育を受けれずに困っている者がいなくなるように」 が、目的のハズです。果たして、現在の高校生は「高等な教育が受けたいと切望している」のでしょうか?そうではなく「高等な教育など受けたくもないが、単に学歴があれば就職に有利と考えるから」ではないのでしょうか。このシステムを最大に利用しているのが大学で、もはや単なる就職あっせん機関という感じです。だから「いかにして<勉強など全くする気がない>人物を入学させるか」に躍起になっているようにしか見えません。教育改革が・英語ビジネスを手掛ける企業・とにかく高度な人材を排出するのではく単に儲けたい大学・大学を取り巻く教材業者・研究など行わずにラクして安定的に地位と給料を確保したい先生たちのタメではない事を切に願う次第です。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月26日 5:36 PM
いつも施先生の記事は興味深く読ませて頂いてますが、特に今回は個人的に思い当たる事がありました。英語の堪能な知人から聞いた話です。日本じゃ他人様から褒められたりした場合は「とんでもない」等と謙遜する事は珍しくありません。コレを英語で話すと「No way! 」と言うそうですが、こう言うと相手からとてもコンプレックスを持った人だと思われるらしいですね。なので、英語では「Thank you」と返すのがスマートだとか。そういう話を聞くと、言葉って思考や価値観に直結してるな〜と思います。因みに、日本語の「勿体ない」には、相対する英語は無いそうですね。「エコ」が近いと言えば近いですが、根本的には意味合いが違うと聞きました。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2014年8月27日 1:13 AM
言語は文化である。これが、常日頃周囲の人達に私が言っている事。単に日本語を他言語に置き換える事は出来ないし、他言語……例えば英語を学ぼうとしたら、英語圏の文化をも学ばなければ、英語を理解する事は出来ない。正しく、書かれている通りですよね。
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
2018年9月16日 4:08 PM
[…] 新経世済民新聞 「言語はツール」の落とし穴 […]
コメントに返信する
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です
コメントを残す
メールアドレスが公開されることはありません。
* が付いている欄は必須項目です