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ここ最近、耳にする言葉として多いのが、「○○という政治家を支える、信じる」といったものです。とり分け、現政権が発足してから、そういった声は「保守派」と呼ばれる人々から多く聞こえるようになりました。
2009年から約3年間、異例の民主党政権が続き、震災復興、外交、経済など全く落第点であったのは言うまでもありません。その「失政続き」だった民主党政権が終わり、自民党政権が復活し、しかも殊更外交的には「保守色」が強い、と思われる安倍政権が再登板したのですから、主に「保守派」が現政権に対して、過剰な期待を抱いたとしても、非難するべきではありません。
しかしながら、第二次安倍政権も発足から今年度で丸二年を迎えるわけで、その政策内容が、必ずしも当初「保守派」が想定したものとは違っている、とみなされる発言や政策が際立ってきました。
私は政治評論家ではありませんので、詳細に「当初想定した公約」と「現政権のそれ」を比較し、どこがどう違っているのか、ということを分析することはしません。しかし、「保守派が当初想定した公約」と現実のそれが時間を経るにつれて徐々に食い違いの色彩を濃くしていくとき、やおら盛り上がりを見せている言説こそが、冒頭で紹介した「○○という政治家を支える、信じる」といったものなのです。この「○○」の中には、安倍首相とか、色々な人の名前を入れて差し支えありません。
たぶん、間違った政策を行っているとしても、特定の政治家を「信じ」「支える」ことによって、その間違いが将来訂正されていくか、あるいは特定の政治家そのものを国民よりも「上位」の存在として認識しているかのようです。このような態度や表現には大変な違和感を感じます。
ここで、民主主義の基本に立ち返りたいと思います。そもそも、特定の政治家を「支える」「信じる」という姿勢は、主権者である国民の態度として、あるべき姿なのか、ということです。
フランスの啓蒙思想家であるルソーは、『社会契約論』の中で「一般意思」という造語を用い、「政府は国民(人民)が合意する一般意思(共通利益、共通利害)の下僕でなくてはならない」と考え、後世の近代民主主義に大きな影響を与えたことは言うまでもなりません。
簡単に言えば、国民の間で形成された共通利益の「下位」に政府(や政治家)が存在し、実際の政策の実行により、国民の共通益に従う、という考え方です。このような社会や国家の姿は、それまで『王権神授説』(王権は、神が与えた神聖なもの)に代表され、王権が正当化されていた中世、近世期の欧州や後のアメリカで、市民革命の理論的支柱になった考え方であります。
一方、日本では、明治維新以降の近代化によってこのような近代啓蒙思想の影響を強く受けたことは言うまでもありませんが、明治憲法は「天皇陛下が制定し国民に与える」(欽定憲法)という形式をとり、その下に「輔弼」(助ける)機関として政府が位置づけられています。とはいえ、明治天皇は「君民一体の原則により、日本国民の一般意思を代弁するお方」と解釈すると、やはり明治憲法下における政府も「一般意思の下僕」であることには変わりありません。戦後制定された日本国憲法については、言うに及ばずであると思います。
政府は一般意思の下僕である、という考え方に基づきますと、冒頭の「○○という政治家を支える、信じる」という言説は大変おかしなものになってくることに気づかれた方も多いと思います。
なにしろ、政府(と政治家)は、「一般意思の下僕」なのですから、「支える」とか「信じる」とかいう表現自体、そもそも馴染まないものだからです。
「一般意思の下僕」である政府(と政治家)には、国民の合意で形成された「一般意思」を忠実に、その意に沿うように実行するかどうか、という「点検」と「監視」こそ求められるのであって、「支える」とか「信じる」という性質のものではありません。
繰り返すようですが、「一般意思の下」に政府や政治家が存在するのであって、我々の上位に彼らが存在しているわけではありません。国民は彼らを「監督」する立場にあるわけですから、「支える」とか「信じる」という表現は政府や政治家を「一般意思」よりも一段高い、上位のものと認識している事となり、どちらかといえば先に述べたような中世の考え方に近いような気がします。
つまり、世襲で就任した王様を「支える」「信じる」という領民と同じような感覚になります。確かに中世の領民は王権に服属していましたので、「支える」「信じる」でもいたし方ありません。しかし近代人である我々は、「一般意思の下」に政府(と政治家)を従えているのですから、彼らに求めるのは「支える」ではなくて「監視する」が正しい態度でしょう。
社会学者のマックス・ウェーバーは、中国のことを「家産制国家」と表現しました。「家産制」の「家」とは王朝、「産」は土地や人民などの財産を指します。つまり、中国は歴代王朝(皇帝)という個人が、土地や人民などの財産を私物化して支配している、という意味で簡単に言うと「家畜」に近いようなニュアンスを持っています。
このような「家産制国家」は、中国に限らず、北朝鮮や中東の産油国など、現代でも開発途上国にまま、見ることのできる国家体制です。そこにすむ人々は、どんな暴虐な支配者でも、「支える」「信じる」という選択肢しかありえません。中国共産党がどんなに酷い政治を行っても、「家産制国家」の中では、人民は(皇帝=共産党)の私有物なのですから、異を唱えることなどできないのです。
北朝鮮の金正日や金正恩に対する賞賛や、中国共産党に対する美辞麗句の中で、必ずといっていい程「人民は党中央を支える」「偉大なる指導者を信じて主体強国の建設に邁進しよう」などというフレーズが登場するのは、これらの非民主国の指導者が「一般意思」の存在そのものを否定しているからです。
翻って、わが日本はどうでしょうか。民主主義国家であるわが国では、「一般意思の下僕である」政府や政治家が、「一般意思」に沿わぬことをすれば、懲罰として次の選挙で落選させることができます(2012年の政権交代のように)。一方、「一般意思」を存分に汲み取って良い政策を行った場合には、褒章として次の選挙でも政権や政治家の地位を保証してやることができます。
日本国民は政府や政治家のより上位にいる監督者なのですから、彼らの行いが「当初国民と合意されていたものと違う」のであれば、それを厳しく点検し、必要であれば懲罰しなければなりません。その対象は、安倍首相であろうと、別の政治家であろうと、同じことです。安倍政権が間違った政策を行った場合、我々にはそれに懲罰を与える義務があり、及第点であれば次の選挙でも政権を任せるという論功行賞が行われるのは当然のことです。
政府や政治家は、「支える」「信じる」対象ではなく、「監視する」対象であることを、近代民主主義国の国民である我々はもっと自覚する必要があります。
つい先日、1966年に静岡県で起こった一家四人殺害事件、通称「袴田事件」の再審(裁判やり直し)が決定され、受刑者であった袴田巌さんが約半世紀ぶりに釈放されました。同様の再審決定案件は近年相次いでおり、1990年に栃木県で起こった「足利事件」、1948年に熊本県で起こった「免田事件」、1997年に東京で起こった「東電OL殺害事件」は、いずれも有罪が確定していた受刑者が再審決定により、無実となって釈放されたケースです。
これらの免罪事件は、主に警察による強引な自白と、検察のずさんな主張を鵜呑みにした裁判官の判断力不足、などが主な要因ですが、私は警察や国家権力が悪いんだ、と殊更主張したいわけではありません。
人間は、誰でも間違いを犯す、ということをいいたいのです。しかも、検事や判事といった社会的地位のある人が、複数人、複数回にわたって、間違いを訂正する機会があったにもかかわらず、それらが黙殺された結果、このような世紀の冤罪事件が発生したのです。
刑事事件と政策・行政は違いますけれども、我々はどんな政治家であろうと、人間である以上、かならず間違いを犯すことを前提に政府や政治家をみつめなければなりません。
「○○という政治家を支える、信じる」という姿勢は、遅れた前近代的な政治意識だけではなく、たぶんに「願望」が入り込んでいます。つまり「○○という政治家は良い人だからそんなことしない」などの手前勝手な「願望」に基づいた「期待」の表現です。
しかし、すでに述べてきましたように、政府(や政治家)は「一般意思の下僕」なのであって、その人が善人か悪人なのかは一切関係がありません。「一般意思に従って」政策・行政を進めるかどうか、が重要なのであって、個人の性格はどうだって良いのです。「あの王様は名君だから信じます」などという、中世の発想で政府や政治家をみる発想を捨て、聡明な監督者として日本を益々強国にするため、国民全員で頑張っていきたいものです。
PS
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【古谷経衡】”監視対象”としての安倍首相と政治家への19件のコメント
2014年4月12日 4:00 PM
回答ありがとうございます。わたしは政府と庶民と言うように、分けて考えていません。そもそも庶民でも政府でも日本と言う国家にいるのであれば、敵対する意味が分かりません。 それぞれの立場で日本人として国を豊かに良くして行く目的のために、自分の出来る事をすればいいのです。 私自身政府を敵視する時や逆にありがたがる時は自分もその一翼を担う人間である事を忘れているのではないでしょうか。自己矛盾です。 政府を批判する前に、自分の回りをみます。自分の会社をみます。家族を友達を友人を恋人を、道ですれ違う人々を。 自分の胸に手を当ててみます。私は人を批判できるほど立派なのだろうか? 政府をありがたがる時はなにを期待しているのか?何でもかんでも彼らが与えてくれるわけではないのです。どちらも私の甘えです。 庶民についても私は政府と同じように観ています。そこで私に出来る事は何か、親に心配かけないよう大事にするとか、職場できちんと挨拶するとか、嘘をつかないとか。悪いと思ったら謝るとか、コメントを不用意に連投しないとか、そう言った常識的な事も出来ていないわたしにはまずそれらを先にしろと言う事が言えると思います。 馬鹿がしゃしゃり出てくるなと言う事です。まず自分の身の回りの問題もろくに解決できない私の様なものが、暴れ回らないように自制することを教育する事が求められると思います。 おそらくそれだけでも、日本は良くなるのではないかとわたしは日々思っている次第です。政府がどうの庶民がどうしたなどと言う話はそんな常識もしらない様な私がいくらほざいても、何の説得力もありません。 私が私を自制する。 日本を良くする道はなんとここにあったのです。kobunaさんお付き合いいただきありがとうございました。『三橋貴明の「新」日本経済新聞』様長々とコメントしてしまい申し訳ありませんでした。
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2014年4月14日 1:29 AM
世の中が良くなるまでの道筋を漠然とでもいいから逆算して行くとする。たぶんあなたの場合、「政府が良い政策をする、」というのが重要になっています。 私はそんなものに期待していません。復興予算を流用する様な奴らがいたり、国民をモルモットにして経済政策の大実験をやるような奴らがいたり、自分が認められる社会になれば日本のGDPが900兆円になると思っているような狂人がいる。ここからしてもう駄目です。この連中のモラルや常識が改善するまでいったい何年かかるのやら。 また、かりにおかしな連中のモラルや常識が改善してさえ期待できません。経済をカタカナやアルファベットでしか考えられない様な人達が大半だからです。しかも、カタカナやアルファベットで考えたものさえ間違っています。ですからもしも奇跡が起こって「心を入れ替えて政策を考えます」という人達が増えていってさえ私は期待しない。 詳しく説明しろと言われても困るのですが、私が期待するのは庶民(日本人)です。政府がどんな経済政策をやろうと駄目そうですが、いずれ日本人が突破口を開くだろうと思っております。 例えば、働く人=???といった事についてすでに庶民は面白い事をやっています。YOUTUBEやニコニコ動画では色々な動画をただで見る事が出来ます。これは儲けを重視せずに娯楽を大勢に提供する人達がいればこそです。提供されているものが「娯楽」だから軽んじられていますが、他人に楽しんでもらえて視聴者数が増えればそれで満足、という人達がいるわけです。この何歩か先には儲けを重視せずに「食料」を大勢に提供する人達がいる世の中だってあるかもしれない。よって、庶民は政治家が指示を出すまでもなくすでに色々と試行錯誤をしている、というふうに見る事も出来ます。 あとは、いつの間にかホリエモンや孫正義が尊敬されない世の中になっています。こういった人達が何かを喋るとしても、それはパンダがどのように吠えるのかというくらいの関心しか持たれない。ようは、評価基準についても庶民の方ですでに勝手に変えて行っている。
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2014年4月15日 2:14 AM
回答ありがとうございます。>「癒着対策までしっかりと考えて公共事業をする、」この方法が見つかるならそれは発明と呼んでもいいでしょう。 しかし、「お金が余っているのだから俺達にリアルシムシティーをさせろ、」これが発明と錯覚されるようになってはまずい。とゆうことですがわたしは、このとき『目的は何か』が重要な要素になると思っております。たとえば「お金が余っているのだから俺達にリアルシムシティーをさせろ、」これが目的であれば、「癒着対策までしっかりと考えて公共事業をする、」発明とは言えないでしょう。しかしながら「津波がくるのが予測できるのだから観光地に避難ビルの設置をさせろ、」これが目的であれば「癒着対策までしっかりと考えて公共事業をする、」発明と言えると思います。 癒着かそうでないかは『その目的は何か』このことによって判断されるべきだと思います。 >政策の決定に関わってきた人達に対して「オマエらは馬鹿なんだからあまり仕事をしないでくれ、」 わたしは逆の立場です。政策の決定に関わってきた人達に対して「あなたたちは完璧ではないんだから真剣に仕事をしてほしい。」そう思っています。>現在政策の決定に関っている人達がその立場につくまでの過程から見直すべきでしょう。 これは民主主義の否定ととらえてよろしいでしょうか。それとも、竹中氏などの民間人が政府に直接関与する事がすでに民主主義の否定になっている事への危惧でしょうか。 どちらにしてもその人間が、自分の利益に関わる様な政策決定に関わる事にわたしは疑問を禁じ得ません。『目的』が手段化したときそこに大義は無いと思っています。癒着とは『目的』が手段化したときに起きるのではないかと言うのが私の仮説です。 であると仮定するならば「癒着対策までしっかりと考えて公共事業をする、」ためには公共事業の『目的』が手段化しないことが、その解決方法となる。とゆう事が言えると思います。もしこれが、実証されればkobunaさんは発明をしたといってもよいと私は思います。>資本主義という仕組みは本当にまともなのか?デフレやGDPというように経済をカタカナやアルファベットで考えているままでいいのか? とゆうことですが、具体的にはなにで考えるとゆうことでしょうか。言葉で考えるのが、人間であると私は思うのですが、日本語で考えるとすると、日本人の文化や伝統から考えると言う事でしょうか。そこには昔の日本人の価値観が出てくると思います。 であるならば、昔の奉公や丁稚はもとい主婦の仕事や、ボランティアなどGDPに加味されないものも含めて考えるとゆう理解でよろしいでしょうか。 であるならば、『働く人=???』の???にはいる言葉がわかれば新しい枠組みが出来るように思います。GDPを加味した枠組みです。 わたしの拙い経験から言わせていただくと、働く事が苦痛であると言う考えが私の中にもあると思います。なぜ苦痛なのか、それは働く事がただ食べるだけのために働いている部分が概ね理由だからでしょう。 これでは動物と何が違うのかと日々,疑問に思う次第です。 しかしながら『目的』がその中に見えた時、自分は人間として生きている事を実感できるのではないか。と、思うのです。癒着はペットの餌付けに似ています。 餌をもらうために、すり寄ります。そこに『目的』が生まれたとき、ペットは番犬になりライオンになり、主人を守る兵士となります。 目的がないのはペットであり共通の目的のために闘うのが兵士です。 『目的』が生まれたときそれがGDPに加味されないものであっても『働く人』とみなすのであれば、こういえると思います。『働く人=目的を持って生きる人』 であるなら目的を持って生きる人の影響にGDPを加味した枠組みが新たな価値観につながると思うのです。とすると『GDP上は成長していないが、目的は達成されている。』事が、その評価基準となると私は思います。 この目的を『経世済民』とするならば、国富の新たな定義がその評価基準として必要となるでしょう。 このことについてkobunaさんはどう思われますか。
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2014年4月15日 3:21 AM
まずは政府の投資についてですが、「癒着対策までしっかりと考えて公共事業をする、」この方法が見つかるならそれは発明と呼んでもいいでしょう。 しかし、「お金が余っているのだから俺達にリアルシムシティーをさせろ、」これが発明と錯覚されるようになってはまずい。 問題は「先生」と呼ばれる様な人達までがけっこう簡単に錯覚してしまう事です。むしろ知識人や政治家の方が錯覚しやすいのではないかと思えるほど。 >政府は金融政策だけでなく財政政策もし、>調査や計画、啓蒙、指示、反省、評価などなど 私としては、政策の決定に関わってきた人達に対して「オマエらは馬鹿なんだからあまり仕事をしないでくれ、」という思いをもっています。下手にやる気を出される事の方が怖い。たぶん、現在政策の決定に関っている人達がその立場につくまでの過程から見直すべきでしょう。不思議なほどに馬鹿だらけになっていますから。 それから、発想の話であればこういった事も言えます。資本主義という仕組みは本当にまともなのか?デフレやGDPというように経済をカタカナやアルファベットで考えているままでいいのか? 現在は『枠』の様なものが狭すぎて、経済成長の方法といったふうに特定の事しか考えられていないと感じております。
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2014年4月15日 12:40 PM
回答ありがとうございます。>政府には正しい経済政策が出来るはずだ、と思うのが間違いです。それでも正しそうな経済政策を考えるとして、それは「経済成長は続いて当たり前」という前提から考えるものではいけない。これは、教育にとてもよく似ています。『教師には正しい教育が出来るはずだ、と思うのが間違いです。それでも正しそうな教育を考えるとして、それは「学問の発達は続いて当たり前」という前提から考えるものではいけない。』 こういいかえると私にはしっくりきます。人間のこころの有り様です。 生徒は教師の言葉からだけ学ぶものではなく、日々の何気ない表情や、声、話し方、態度全てを感じています。 教師だけではありません。子供からすれば全ての大人が学ぶ対象でしょう。特に親であればこれを言ったらまずい、悲しむだろう弱点の一つや二つ三つ。。十個は知っていると思います。 それらを含めて教育と言えるのであれば、口先の御託が頼りないのは当然のこと。心の無い教育の説得力の無さは証明されていると私の凡庸な体験からも言えると思います。 同じ事を経済政策について言うのであれば、口先だけの経済学のモデルが頼りないのも、説得力が無いのもそこに心があるかどうかなのではないかと私は思うのです。 日々の何気ない表情や、声、話し方、態度全てを駆使しなければ、子供に教育するなど無駄であるように、 政府は金融政策だけでなく財政政策もし、調査や計画、啓蒙、指示、反省、評価などなど全てを駆使しなければ経済政策が効果をなさないのは自明の理のように思えるのです。 また「学問の発達は続いて当たり前」ではない証明として、私自身を証拠とするならわたしは今まで教えてもらった事以上のことを自分で考えたり発明した事は無いのではないかと思うのです。ただ人からもらった知識を並べ替えているだけなのではないかと思う次第です。私は教師にはなれません。しかし生徒にはなれると思います。 生徒には教師が必要だと思うのです。なかには優秀な人が出てきて教師になることもあるでしょう。しかし概ねほとんどの人が生徒なのではないかと言うのが、私の仮説です。 それならば「経済成長は続いて当たり前」ではない。と言うのも納得がいきます。経済成長にも政府の経済政策が必要だとおもいます。民間に政府のかわりに投資をする企業があればいいのですが、>現在は失業者の家にまで一通りの物が揃っています。また、娯楽や贅沢品の店があちこちにあってさえ失業者だらけ であるため政府がかわりの投資をしなければなりません。いいかえれば政府による新たな価値の発明と言えるかもしれません。公共投資がその代表でしょうか。 であるならば、kobunaさんが先日仰っておられたGDP以外の価値基準の発明や、働く人=???とゆう話は大変興味深いものに思えてきます。このことについてkobunaさんの意見をお聞きしたいのですがどう思われますか?
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2014年4月17日 8:01 AM
何から話したものやら。 まず、政府には有効な経済政策を行う事が出来る、というのがそもそも錯覚です。理由は簡単で、政府の政策に庶民や企業がどのような反応をするかで結果がまるで変わってくるからです。 例えば、? 金融政策をやった年に企業が投資を増やす、? 金融政策をやった年に企業が投資を増やし、それが次の年からも継続する、この二つは違います。そして?になるか?になるかは庶民や企業が決める行動で決まります。庶民や企業の行動によっては金融政策や財政政策の効果もすぐに切れてしまいます。それでアメリカのように金融政策を繰り返す国もあるし、日本のように国債発行を繰り返す国もある。 基本的には?まで確実に達成できる様な経済政策なんて存在しません。ですので、「正しい経済政策」などと軽々しく言っている人達がおかしいのだし、その人達がおかしいからといって変わりに正しい経済政策が出せるものでもないんです。 それでも傾向からある程度は考えていける。ただ、今ある傾向は「経済成長は続くものではないのかもしれない、」といったものです。先進国の経済成長は横ばいになっています。これは資本主義にとっての異常事態なのですが、冷静に考えてみれば当然だとも言える。現在は失業者の家にまで一通りの物が揃っています。また、娯楽や贅沢品の店があちこちにあってさえ失業者だらけという事になっています。 この状態から経済成長を続けるとなるとちょっと大変です。● 一通りの物が揃っている人達がさらに消費を増やして家の中をデパートみたいにしていく、● 娯楽や贅沢品をもっと作る為に働いて、稼いだお金でもっと娯楽や贅沢品にお金を使う、こういうのが経済成長を続ける為に必要な経済活動になります。ちょっと期待できないものとなるのです。 話まとめると、政府には正しい経済政策が出来るはずだ、と思うのが間違いです。それでも正しそうな経済政策を考えるとして、それは「経済成長は続いて当たり前」という前提から考えるものではいけない。多くの経済評論家はこの両方で間違っていると思っております。
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2014年4月17日 12:34 PM
『金融政策や財政政策を検討してもいい様な状況』がこれまで続いてきた中で、『痛み止め』しか、やってこなかったからまだ、『金融政策や財政政策を検討してもいい様な状況』が続いているのだと、私は思うのですが、そのうえ増税までして、『痛み止め』の効果を相殺しリハビリの意欲まで阻害する事に疑問を禁じ得ません。 『金融政策や財政政策を検討してもいい様な状況』といいますが、実際には実質賃金の低下や倒産、リストラ、自殺と人がそこにいるのです。 自殺者をこれ以上増やさないためにも、痛み止め以外の『中長期的な効果』のある政策をぜひkobunaさんにお聞きしたいのです。
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2014年4月18日 5:54 PM
回答ありがとうございます>しかし、これらの本質は『痛み止め』です。だから中長期的な効果まで望んではいけない。 とゆうことですが『中長期的な効果』のために具体的には何が効果的だとkobuna さんは思われますか。 また『ケインズ政策好きで新自由主義嫌い』に彼らがなった背景には『金融政策や財政政策を検討してもいい様な状況』が関係してくると思うのですが、『イデオロギーにかぶれた人達』はこの状況に関係なく今後も『ケインズ政策好きで新自由主義嫌い』なのでしょうか。 それとも状況次第で『ケインズ政策嫌いで新自由主義嫌い』になったりするのでしょうか。 そもそも状況は関係ないのでしょうか。関係ないとすると何が彼らの好き嫌いの理由になると思いますか。 逆に関係あるとするとどのように関係してくるのでしょうか。
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2014年4月19日 7:08 PM
意識して気をつけているわけでもないので、何とも言えません。それから、洞察力や情報リテラシーといったものを自分が十分に持っている自信もありません。ただ、経済に関心を持っていましたので、「デフレの時にはデフレ対策を」などと言っている人達がおかしいという事を以前から知っていました。確かに今は金融政策や財政政策を検討してもいい様な状況です。しかし、これらの本質は『痛み止め』です。だから中長期的な効果まで望んではいけない。骨折して唸っている人に痛み止めを使う事を検討するのはいいでしょう。ただし、骨折を痛み止めで治せるかのような話をするのであれば藪医者です。そんなわけで、私にはチャンネル桜に出る様な経済評論家達が藪医者のように見えていた。だからそんな経済評論家達から強い影響を受けた人達が「安倍を疑え」などと言っていても、「何をほざいてやがる」というふうに感じます。おそらく参考に出来るのはこういった話です。うろ覚えですが、昔の教科書にはこの様な事が書かれていたそうです。子供が親に「誰に投票したのか?」と尋ねた。親は「そのような事は尋ねるものではない」と子供に教えたました。そして、自分の目で政治家を見て、自分自身で考えて、これぞと思う政治家に投票しろと教えました。案外これが一番正解に近いのではないかと私は思っております。一方で、ケインズ政策好きで新自由主義嫌い、といったイデオロギーにかぶれた人達の助言をきいて応援する政治家を決めていたのでは酷い事になってしまうでしょう。
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2014年4月20日 7:28 PM
> 考えきれない様な膨大な判断材料から正しそうな答えを見つける。 これは洞察力や情報リテラシーといわれるものだと思うのですが、どうすればこれらの力はつくのでしょうか。 kobunaさんはどのような事に気をつけていますか。
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2014年4月22日 4:40 PM
しかしながら、恋愛では別れれば終わるように思いますが、(ストーカー化)や結婚(当選)してしてしまうと、厄介です。 そう簡単に判断するのは危険です。家や家族、子供もいれば尚更です。 その際に直感だけでは判断できない事もあると思います。 そこで考える必要があるのだと思います。わたしがここにうろついているのは、そのヒントがありそうな匂いがするからです。
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2014年4月24日 6:41 AM
>それは『匂い』や『臭い』>と言うものでしょうか。違います。まあ、日本人のそういう嗅覚はけっこう凄いのではないかとは思っていますけど。ようは、1〜1000まであるような判断材料から理論的に答えを出すのは無理だという意味です。始めから『勘』というわけではなく、考えきれない様な膨大な判断材料から正しそうな答えを見つける、そういう意味での『勘』です。例えば、安倍さんを経済政策から理論的に評価するのは無理です。あまりにも変だからです。消費税増税に反対するというこだわりもなく、TPPを勧める人に反対するというこだわりもなく、金融政策に反対するというこだわりもなく、公共事業に反対するというこだわりもなく、ワタミの人が政治家になるのに反対するというこだわりもない、これが安倍さんです。それから、突如として積極財政に強い関心をもったのも不自然だった。まるでこれは自分に敵対する知識人を減らすための政治的な判断であるかのようだった。そんな安倍さんは本当に経済に興味を持っているのでしょうか?私にはここからして謎です。政治家ならば目標達成の為に不思議なステップを踏む事だってあるでしょう。そう考える方が安倍さんを単にグローバリストとして終わるよりもよほどすっきりする。
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2014年4月26日 6:09 AM
回答ありがとうございます。勘ですか。。。それは『匂い』や『臭い』と言うものでしょうか。もしくは『直感』と言われるもののように思います。それを信じて、その相手を研究すると言う事も重要になると思います。その結果が批判や支持になりお別れする選択も当然あると思います。
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2014年4月26日 11:21 PM
政治については色々な話があるものです。>1。相手のザルの目を変えるか、>2。そのカタチに自分をまとめるのが上手いのです。これにしても、1のタイプが独善的に自分が正しいと思う政策を押し付けるのはまずい、とか、2のタイプが票集めの為に大衆に迎合するようでは駄目だ、とか、過去の教訓から色々な事が言えます。探せば誰かの独断が成果を出したという先例もあるだろうし、大衆に上手く合わした人が成果を出した例だってあるでしょう。色々な話がありますから、おそらく政治について理論的に考えて行くことには限度があると思っています。まさか1〜1000まである様な膨大な話のそれぞれから政治家に加点や減点をしていくわけにもいかないでしょう。だから結局は『勘』に頼らなくてはいけないはずです。そんなふうに考えている私からすると、「○○という政治家を支える、信じる」こういうのもOKです。理論的な考え方からふるいにかけられるのは鳩山とか菅とか野田であって、同じ要領で安倍さんや麻生さんをふるいにかけるのは無理です。だから『勘』から信じるというのでもいい。
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2014年4月27日 2:40 PM
わたしもkobunaさんの意見には、賛成です。私自身も他人を批判しつつ、内実自分もそれに当てはまり剰え他人に理想を押し付けます。 たぶん私もできてないんですけど、人にお願いする時に上手な人と、下手な人がいるじゃないですか。 彼らはそれが完璧ではないと言う事ではないかと思うんです。 人間関係で例えるなら恋愛と似ています。この時はお願いの仕方が魅了と言う形だと思います。 モテる人はそれが上手く逆にモテない人はそれが下手である。 いい悪いはあるでしょうが、どちら側かと言う事かもしれません。 人の価値観をざるに例えるなら、人々がお互いにざるにかけあって最後に残ったのが恋人だとします。 いっかいかけあってほれるのは一目惚れです。 モテる人は人々のザルの目のカタチをよく知っています。1。相手のザルの目を変えるか、2。そのカタチに自分をまとめるのが上手いのです。 相手を説得する方法とゆうのでしょうか。それが上手い。 このとき相手のザルが自分と違いすぎる時、前者の方法は困難です。 必然的に後者の方法で口説いて行くほうが効率的でしょう。 これを政治に話を置き換えれば、前者は当然少数派となると思います。 このことについてkobunaさんの意見をお聞きしたいのですがどう思われますか?
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2014年4月29日 1:49 PM
政治家や有権者に説教をしたがる知識人に嫌気がさす事があります。例えば、チャンネル桜には問題があります。水島さんが小さな政府批判をしている動画において、私は批判のコメントを書きました。「大きな政府にも問題があったのに、あなたはそれを考慮していない。」というように。しかし、そのコメントは削除され、そのうえ次からコメントが出来ないようになってしまいました。まあ、気持ちは解らなくもない。批判のコメントから信用を落としていては、良い活動をしていても支持者が減ってしまいますから。ただ、そういった事は自民党や安倍さんにだってあるはずなんです。だから自分達への批判は困るが、自民党や安倍さんが自分達の批判から信用を落とすのはいい、というチャンネル桜の姿勢には問題を感じます。あとは、安倍さんは移民を推進する様なバカと付き合いがあるかもしれませんが、チャンネル桜にだってバカとの付き合いがあります。例えば、世の中の不幸をネタにして信者を集める新興宗教団体と、移民やグローバル化をネタにして信者っぽい人から喝さいを浴びている中野剛志さんは似た様なものです。私は中野さんのことを「ちょっと珍しいくらいの馬鹿だ」と思っています。どうしてこんな人が表に出てきたのだったか。ただ、チャンネル桜としては中野さんを馬鹿だと確信してさえ「オマエは馬鹿だ」と言って突き放すのは難しいでしょう。それが人間関係というものです。中野さんへの態度を変えるならそれは中野さんの友人達との付き合いにも響く、そういった難しさが人間関係にはあります。だから仕方ありません。しかし、チャンネル桜は自分達はバカともしっかりと付き合いつつ、それで「安倍は竹中と仲がいい」などと言って批判しています。これについては納得がいかない。そんなチャンネル桜との付き合いが深い方々が「庶民はもっとしっかりしろ」という意味の話をしばしばしています。それらの話には「もっともだ」と思える部分もあるものですが、しかし聞いていてアホらしくなってきます。
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2014年5月1日 1:15 AM
すみません。また出しゃばりました。わたしも然りです。
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2014年5月2日 2:09 AM
>人間は、誰でも間違いを犯す これは国民にも言える事でしょう。わたしは国民と政治家で分けて考えることそのものに疑問を感じます。 どちらも立場が違うと言うだけで、間違いを起こす人間だからです。>「○○という政治家は良い人だからそんなことしない」といゆうことですが「○○という国民は良い人だからそんなことしない」と言う願望も同時にあるわけです。 しかしながら>しかし、すでに述べてきましたように、政府(や政治家)は「一般意思の下僕」なのであって、その人が善人か悪人なのかは一切関係がありません。「一般意思に従って」政策・行政を進めるかどうか、が重要なのであって、個人の性格はどうだって良いのです。「あの王様は名君だから信じます」などという、中世の発想で政府や政治家をみる発想を捨て、聡明な監督者として日本を益々強国にするため、国民全員で頑張っていきたいものです。 と彼は発言している。わたしはこの意見に半分同意します。最初の「その人が善人か悪人なのかは一切関係がありません。」には、反対です。 >検事や判事といった社会的地位のある人が、複数人、複数回にわたって、間違いを訂正する機会があったにもかかわらず、それらが黙殺された結果、このような世紀の冤罪事件が発生したのです。 もしそれを肯定するなら、間違いに気付いても訂正する良心を否定する事になります。わたしは関係あると思うのです。国民も然りです。 「聡明な監督者として日本を益々強国にするため、国民全員で頑張っていきたいものです。」この後半には賛成です。 なぜなら政治家も国民だからです。政治家自ら聡明な監督者として自身を監督できずにどうして、よい政治が出来るでしょう。国民も然りです。
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2014年5月3日 9:21 AM
政治家は国民から委託を受けた専門家であり結果が残せないときやクライアント(国民)を納得させられないときには信頼関係の崩壊から解任もやむなしという立場を政治的「下僕」という表現にしているだけで決して政治家の立場が卑しいものであると言う記事ではないですね。あと、小泉政権〜麻生政権、民主党政権時代の長きにわたって、世論を形成する[limit]
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