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2013年5月3日

【施 光恒】「恥の文化」の力

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

おはようございま〜す(^_^)/

連休の後半が始まりましたね〜。
皆様、いかがお過ごしですか?

実は、今回、何を書こうかだいぶ迷っておりました。
本当は靖国神社参拝をめぐる問題を書こうと考えていたのですが、東田さんも上念さんも一昨日、昨日とお書きになっていたので、私も靖国の話だと少々食傷気味かなと思いました。

私自身、一昨日、『産経新聞』の地元版に、靖国の話を書きましたので、それに中身が似てきてしまいそうということもありまして…。
f(^_^)ポリポリ
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130501/plc13050118430015-n1.htm

ですが、似てきてしまいますが、今回はそれをお許しいただいて、靖国神社をめぐる問題そのものではなく、この記事で触れた「恥の文化」うんぬんについて少々補わせていただこうかと思います。

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このところ特に強く感じるんですが、最近の日本人って、ホントに自信を失ってますよね。といっても、周りの大学生などと話していると、若い世代はそれほどでもないように思うのですが、50代後半〜60代ぐらいの人たちは、なんか日本は経済も文化も根本的にダメダメみたいな感情をもっているように思います。

だから、「バスに乗り遅れるな」とか「世界の孤児になってもいいのか」「これからは英語、英語、留学、留学、トーフル、トーフル」「アジアに打って出るしかない」みたいな強迫的ともいえるグローバル化衝動が生じるのかなあなどと日々感じております。

こういう日本人の自信のなさの背景には、一つは、日本の道徳に対する不信感があるようです。

たとえば、「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ〜というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。

いつにもましてまとまりのない文章で失礼しますた…
<(_ _)>

PS
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【施 光恒】「恥の文化」の力への7件のコメント

  1. とある大学生 より

    自分は施先生の講義を受けたり、個人的に話を伺ったりする福岡市在住の大学生です。施先生の意図としては某衣服販売店のCEOのような方を指していうつもりだったと思います。先生はあなたのコメントを見て、現在の団塊の世代を一括りにしてしまったことを非常に悔いていました。普段はメルマガの執筆者の中では割とリベラルとおっしゃっている方なので、むしろ労働者の権利、地位に関しては共産党に近い意見に頷くこともあるとおっしゃっていました。先生が悔恨の念にかられていたことを伝えたく、返信しました。失礼しました。

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  2. まんごすちん より

    こんばんは。いつも先生のコラムを拝見してすーっと気持ちが安心したり、ほっこりしたり、そうなのか!とハッとするような体験をしております。が、以前からどうしても気になる事がありましたので今回はそれについて書かせて頂きます。私はこちらのメルマガの投稿(先生に限らず)で、よく、50代60代の人は…と線引きされていることにすごく違和感を覚えています。私は50代ですが同世代の友人知人で「外に打って出ろ」とか「日本はもうだめだから」などと言う人など一人もいません。年齢で切られて最低賃金で働いている人や派遣で働いている人、お子さんの受験や就職、夫との関係、がんとの闘いなど、生きるのに必死でそんなことを言う余裕などありません。絶望するという贅沢などないのです。私もバブル崩壊以降、正規雇用に就くことが出来ず、ずっと派遣で働いています。不安定な雇用状態で3か月ごとに首になるかもしれないというストレスは相当なものです。突然呼び出されて「もう来月は来なくて良いから」と言われ目の前が真っ暗になったこともあります。先生はこんな気持ちがわかるでしょうか?もし一部のマスコミに出られている人などを見てそのようにおっしゃっているのなら、一つの世代を一括りにすることが現実と格闘している人の気持を傷つけることにもなるのだと分かってもらいたいな…と心から感じています。中野さんにしても先生にしても、こちらで上の世代に批判的なコメントをされる人(と私には見えたりします)は公務員や大学の先生など、解雇のない安定した地位にいる方々なので、「あなた方に何がわかるのか?」と強い憤りを感じる時もあります。バブル世代だから全員ジュリアナで踊っていた訳でもないし(笑)、不動産や株で儲けた訳でもありません。子供のころ団塊世代が自分の親の世代を糾弾したり大暴れしているのを見ながら、ただただ普通の学生生活や就職をしたいと願って育ち、地道に働いてきた人が大半です。バブル崩壊後は若い世代と同じデフレ不況まっしぐらです(笑)。そんな人たちが日々人生を一生懸命生きている事を分かって頂けたら本当に嬉しいと思います。長文失礼しました。

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  3. 中田 絹子 より

    ベネディクトは一度も来日したことは無いと聞いております。「見てきたようにものを言い」というのがありますが、そんな考えを日本国民に植え付け、拡げ、埋め込む必要があったんですね。人の良い日本人は騙されっぱなしを続けて来ましたが、それも良しです。これからの日本の役割を思えばそれも必要だったのでしょう。世界のお手本に変身ですね!道徳教育の充実、富国強兵ですね。いつも楽しみに拝見しています。明日は三橋先生の故郷の山鹿市に行ってまいります。

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  4. nanashi より

    >つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。『楢山節考』みたいですね。「村の衆に恥ずかしくって、せえ」(根っこのおりんやん)。「楢山様に謝るぞー」>戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。変わっていないのは、日本人の弥次喜多根性じゃないでしょうか。戦前と戦後の意識の分断(無節操)は、この弥次喜多根性のせいじゃないかと思います。つまり、日本人の意識の分断は敗戦時に始まったことではなくおそらく江戸時代以前から続いている日本人の「弥次喜多根性」が原因なのではないでしょうか。弥次喜多根性は遠藤周作が大変気に入って『沈黙』のキチジローなどの性格描写に取り入れていますね。弥次喜多根性というのは、シナ人では阿Q根性、ノルウエー人(イプセンによれば)ではトロル根性に当たるものでしょうか。弥次喜多根性はわれわれ日本人にとっては根本的なもので愛おしいと同時に超克していかねばならないものではないでしょうか。

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  5. 13代目 より

    「自信なく育った50代」の女性です。今日の「恥の文化」のお話、興味深く拝見しました。なるほど、ご先祖様や死者への視点というのもありますね。私自身、中学校でこのベネディクトの本を教えられた時のことをはっきり覚えています。施様のご指摘通り、「罪は神に対して感じる絶対的なもの」「恥は他人や世間に対して感じる上っ面のもの」というような説明があり、当時から非常に違和感を感じていました。先祖や死者に対する視点というのは初めて意識しましたが、たしかにその方が大分しっくりします。かくいう私自身は、中学の社会科でこの説を習った当時は、子供心に「恥は世間に対してじゃなくてオノレに対してだろう!」と憤っておりました。「己の恥を知れ」とか「己に恥じることなく…」というような言葉は、昔よく聞かれたと思います。武士の行動規範は、主君への盲目的な服従でなく、己の心に恥じないか、ということだと家で教わっていました。武家とか武士道にこだわりのある家族がいたためですが、そうでなくてもこういう表現は、以前はよく時代劇や浪曲・落語・講談などにも出てきました。世間に対する恥なら、その場を逃げ出せば何とかなります。が、「己の心に恥じないか?」と考えると、逃げ場はありません。(ご先祖様や死者も同じですが。)だから、恥ずかしいことをしてはいけない、と。なので、僭越ながら、第三の視点のご提案。「己」についても、お考え下さいませんか。西洋も日本も道徳の規範は結局は「良心」に行きつくんだと思いますが、ベネディクト流には敢えてこんな反論のしかたもできるかと:「恥の文化」で感じとるべきなのは他者の視点でなく自己の視点。日本人は「良心(=己の恥や誇り)を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」。「罪の文化」の罪って、ばれなきゃ「罪」にならないんじゃないの??(まさか、ね。)また、蛇足ですが「お天道様はお見通しだ」という表現もよく使われましたが、この「お天道様」という言葉も、ほとんど使われなくなりました。みんなが「日本は恥の文化」「世間体だけを気にする」→「世間体だけを気にすればよい」と流されて堕落させられた気がします。(私も堕落しています。)「嘘も100回言えば...」にならぬよう、気をつけねばならないと思います。そして、おそらく「戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識すること」がとても重要だと思います。ともすると、「戦前の日本はひどかった〜!」とすり込まれますので。長々と失礼しました。

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  6. 遠山 景武 より

    「恥の文化」はもう少し違った視点で解釈していました。「菊と刀」は読まねばと思いつつ、今日まで機会を逸して居りましたが、この連休中に読もうと決意です。それ故、ベネディクトの日本論を論評できませんが、今日の日本人の異常なまでの責任回避とその軟弱性はベネディクトの論とは無関係だと思います。大東亜戦争の敗戦以後の原因と太古の昔から連綿と続く日本民族の文化や社会規範に起因するものの複合だと思います。太古の昔から「恥の文化」と言うべきか少々疑問符が付きますが、しかし「恥」と言う概念に繋がる、規範は大きいと思います。ベネディクトが指摘できていたのか否か知りませんが、「恥」の基準は、八百万の神々だと思います。恐らくベネディクトを含む、一神教の西洋社会の人々が理解していない点ではないかと思うのですが、「日本民族には宗教が無い」と言う説が横行しますが、必ずしも「アニミズム」と定義し難い「八百万の神々」との対峙が日本人の立ち位置です。「自由」「平等」「博愛」と言うフランス革命の独占権みたいな概念も、太古の昔から日本社会に定着していた常識的な概念です。神と人との関係で規定される、自由、平等、博愛だからです。日本の神々と人との間で規定されるルールは、清潔、正直、誠実、勤勉です。因みに、上記はピューリタンとの共通性が有り、この点が古き良きアメリカ人との親近感に繋がるのかもしれません。さて日本人の自己を律する基準は、この神々との暗黙の規定がその根底に有ると思われます。さて有史以来、初めてアメリカと言う異国に占領され、国家解体、文化解体と言う占領政策の下に置かれた事で、この日本という国家も民族も洗脳され、骨抜きにされました。加えて戦勝国に便乗する事で利権利得を_ぎ取る旨味を知った、中国、朝鮮(韓国)の反日活動家がマスコミや教育界、政財官界などあらゆる所に入り込み、世論を形成し、政治を動かし、未だに難癖を付けて脅し取ると言う我が国の状態が続き、既に68年になります。特に、反日勢力が造り上げた社会のルサンチマンと人のミスや失敗を突いて潰すと言う規範が人心を荒廃させ、臆病にさせた元凶だと思います。声無き声の神々に加えて、声高に糾弾するマスコミや社会のルサンチマンの浸透が、日本文化や民族の規範を崩壊させてしまったのです。既に手遅れの感もありますが、日本の民に再度、本当の日本の歴史や伝統的な文化を知らしめる事が出来れば、日本民族と国家の再起、復興も期待出来るかもしれません。今、急ぐべきは、グローバル化などではなく、日本文化復古だと思います。

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