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2025年8月18日
【藤井聡】石破茂・戦後戦没者追悼式の「反省」を巡る賛否炎上を考える~過剰なる反省も過剰なる肯定も避けた「まっとうな戦争認識」の形成に向けて~

今年のお盆は、いつもの法事や五山の送り火に加えて、戦後80年の節目ということで、「私の戦後80年談話」を雑誌「正論」(https://x.com/SF_SatoshiFujii/status/1956848292857548937)で公表するなど、いつもと違う特別なことも行いましたが、やはり一番印象に残ったのは、15日の敗戦の日の「全国戦没者追悼式」にて、石破が総理大臣の立場で式辞を述べそこで「反省」の弁を13年ぶりに述べたということでした。
当方はこの報道を目にした時、誠に残念な気持ちに、そして深い義憤の念に駆られました。
この不埒は看過するわけにはいかぬ、ということで、お盆休みのただ中ではありましたが『石破総理の全国戦没者追悼式における「反省」表明行為は、先の大戦の戦没者を冒涜する「言語道断」な言動である』(https://foomii.com/00178/20250815212032141995)という記事を公開し、Xでこの記事を紹介しつつ下記のようにツイートいたしました。
「先の大戦は100%負ける間違った戦争だったという信念を持つ石破総理がかの戦いを(銃後も含めて)戦いそして亡くなった方々を追悼する場にて総理として「反省」を表明しました。これが如何に多くの戦没者を冒涜し国益を大きく毀損する許し難き振る舞いであるのかを解説しました。」
https://x.com/SF_SatoshiFujii/status/1956335774502469700
この敗戦の日に、かの戦争について「反省」するのは、戦後80年の極めて当たり前の風景であり、戦後日本とはまさに「そんなもの」でしかないと言えばまさにその通りです。しかし、この件で特に重要なのは「戦後歴代総理は村山総理になるまで誰もこの「追悼式」では反省の弁を述べなかった、一時期村山総理から野田総理に至るまでは同式で「反省」の弁は述べられなかった」という一点です。
つまり自民党総裁は、これまで戦後(レジーム)における「反省すべし」という濃密な空気に抗い、長い間「反省」の弁は同式では表明してこなかった中、石破は戦後レジーム・戦後日本の世論の空気に棹さす、ないしは阿(おもね)る格好で「反省」を同式で表明してしまったわけです。
誠にもって情け無き宰相なり…ということで上記ツイートをいたした次第です。
その結果、多くの賛同の声を多くの反発・批判の声が寄せられました。
あるアンケートによればこの石破による反省の弁に対する賛否は概ね拮抗しており、当方の今回のツイートに対する反応も賛否がちょうど拮抗する格好となったと言えるでしょう。
そうしたコメントを拝見していると、実に多くの方が、かの戦争について、天皇陛下について必ずしも適当とは言えないという実態が浮かび上がって参ります。
例えば、最もシンプルな当方に対する反発は、
「お前はあの戦いについて反省等一切しなくて良いってことなんだな?」
というものでしたが、そんな事は当方は一言も申し上げておりません。
そもそも当方の『私の戦後80年談話』でも明記している通り、そして、前回のメルマガ『石破総理の全国戦没者追悼式における「反省」表明行為は、先の大戦の戦没者を冒涜する「言語道断」な言動である』(https://foomii.com/00178/20250815212032141995)の中でも明記しているように、「反省」すべき点が皆無である筈は無く、反省すべきは反省すべきであることは論を待たないのです。
問題は、追悼の辞の中で反省を述べるのは、戦没者、とりわけ英霊に対して失礼ではないかという一点なのですが、この点をご理解頂けない方があれだけ多数おられたというのは、誠にもって遺憾に感ずる次第です。
あるいは、今回の追悼式では、天皇陛下も「反省」の弁をおっしゃられており、それを盾にとる形で当方に対して「だったらお前は、天皇陛下も不敬不埒だといいたいわけだな?」という主旨の批判も散見されました。
無論そんな筈はないのですが、如何にツイートにおける匿名コメントとはいえ、陛下に対する不敬者呼ばわりされている状況を放置することは避けねばならぬということで、以下のコメントをX上で追伸いたしました。
『陛下の反省のお言葉は、戦争によって苦しんだ国民(臣民)を守りきれなかったことへのおおみこころを示されたものであり、戦争を止められなかったという政治責任を負う総理大臣の反省の弁とは性質が全く異なります。それは戦没者への冒涜では全くないものです。』
https://x.com/SF_SatoshiFujii/status/1956344533672722898
この当方の追伸についてさらに補足しますと、次のようになります。
まず、天皇陛下と一国民(臣民)たる総理大臣では全く立場が異なります。
天皇は、日本、ならびに日本国民の安寧を祈念される「祭祀王」です。そのお立場からすれば、先の大戦で多くの国民が苦しんだということそれ自体で、大いにお心を痛めておられることは論を待ちません。そうである以上、先の大戦についての「反省」を述べられたということは(具体的なお言葉は下記※となります)、「安寧」を祈念し続けたにもかかわらず先の大戦の現実はその祈りとは「裏腹」に巨大な災禍を日本に招くこととなってしまったという事についての、つまり、国民の安寧が「守られん」ことをとの祈りが届かなかった事についての「反省」と解釈せざるを得ません。
※「ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
これを平易に表現すると「戦争によって苦しんだ国民(臣民)を守りきれなかったことへのおおみこころ」ということとなるわけです。
それにも関わらず、天皇陛下の言葉と石破の言葉を同列に扱うなど、不敬極まりなき態度なりと言う他ありません。もし同列だとするなら、天皇陛下にも「戦犯」として裁かれた人々と(無論、東京裁判には本質的問題があるのですが、それはさておき形式上は)同等の政治責任があると言うことになります。
しかし、そうである筈はない、というのが、今日の一般的な見解であり、当方もそうした見解に賛同しています(ただし、この問題は込み入った問題であり、正確に論ずるには一定の説明が必要となります。ただしそれでもなお、総理も含めた一般の国民とは全く異なるお立場である事は論を待ちません)。
しかし…Xのコメントをみておりますと、当方のこの解説を理解する方は(当方に肯定的なコメントをされている方も含めて)どうやらごく一部に限られており、多くのコメントが、天皇陛下と石破を同列に扱い、両者の「反省」が同様の意味を持つことを前提としたものでした。
これは偏に、天皇陛下というご存在が、『日本、ならびに日本国民の安寧を祈念される「祭祀王」』であるという認識が、今日の日本においてほとんど共有されていないからなのだと、言えるでしょう。
誠に遺憾という他ありません。
少なくとも本記事読者だけでも、天皇というご存在についての適切な認識をお持ちいただきたいと思い、改めて本記事を配信させて頂いた次第です。
いずれにせよ、本年は、終戦の日についてのかの大戦についての見解表明は、様々に炎上しやすきものであることを改めて再認識できた年となりました。
ただし、今回の当方の「石破反省批判」は一定の炎上をしたものの、それなりに賛同も得られたということは、戦後レジームからの脱却に向けて、少なくとも昭和や平成の頃よりも幾分成とも前進しているのではないかということも感じた次第です。
今後も、戦後レジームからの脱却に向けて、炎上するか否かに囚われず、発信すべきを発信して参りたいと思います。
今後ともどうぞ、よろしくお願い致します。
追伸1:石破反省式辞に対する当方からの批判内容は、下記記事をご参照ください。
https://foomii.com/00178/20250815212032141995
追伸2:そもそも、こうした「炎上」の背後にあるは、戦後日本人の「戦争トラウマ」です。このトラウマを徹底的に文学の視点から論じ合ったのが、『敗戦とトラウマ』。是非、ご一読下さい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4828427511
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