From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
おっはようございまーす(^_^)/
先日、『産経新聞』の『正論』欄につぎのような文章を書きました。
施 光恒「『引っ越さなくてもいい社会』に」(『産経新聞』正論欄、2019年3月28日付)
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190328/0001.html
だいたい、次のような内容です。
***
統一地方選は良い契機なので、各党は現在深刻な地方の衰退にどのように歯止めをかけるか論じるべきである。大都市だけでなく各地域がバランスよく発展する国づくりを今後どのように行っていくべきか、それぞれの政策をなるべく明らかに提示していく必要がある。
その際、個人的に最善だと思うものに、京都大学助教の川端祐一郎氏らが述べているものであるが、「引っ越さなくていい社会」という理念はいかがだろうか。今後の日本の国づくりを導く理念になるのではないだろうか。
つまり、引っ越さなくても、地元で家族や仲間とともに暮らしつつ、(1)さまざまな教育や訓練を受けたり、(2)稼ぎのいい職業に就いたり、(3)多様な人生の選択肢も得たりすることができる社会を作るという理想である。
これには、次のような利点がある。第一に、行き詰まりが明らかな「グローバル化」という現行路線の代替案としてふさわしい。第二に、出生率の解消につながる。第三に、日本文化と相性がいい。第四に、真の「多文化共生」につながる。
***
以上のようなものです。
最近、第5世代通信規格「5G」についての報道をよく耳にします。5Gも「引っ越さなくていい社会」の実現にむけて大いに活用すべきでしょう。
科学技術は正直、よくわからないのですが、5Gを使うと、遠隔地医療、遠隔地教育などが容易になるなどと言われています。
情報量豊かな映像を簡単にやりとりできるようになるので、医者が都市部に暮らしつつ、医者不足の地域の患者を診ることができるなどと言われています。または、田舎でも、あちこちの著名大学の講義を居ながらにして受けられるになるなどとも報道されています。
他にも、建設機械を遠隔地から操作し、実際に仕事ができるようになるともされています。
こういうのも、「引っ越さなくていい社会」の実現に役立つでしょう。
上記の例でいえば、熟練したスキルを持つ医者は、必ずしも都市部に暮らす必要はないわけです。逆に、自分の地元に暮らしつつ、都市部を含む他の地域の患者を診察することもできるでしょう。
同様に、建設機械の熟練した操作技術を持つオペレーターも自分の地元で暮らしつつ、都会など様々な地域の工事に参加し、賃金を得ることも可能になるのかもしれません。
こうなれば、「引っ越さなくていい社会」は、一歩実現に近づくように思われます。少々現実離れした楽観的議論かもしれませんが…
(;^ω^)
「技術の進歩」「先端技術の活用」というと、生活は便利になるかもしれないが、状況が著しく変わってしまい、なじみにくい、よそよそしい社会、あわただしい落ち着きのない社会となってしまうかもしれないというのが、これまでよく表明されてきた懸念でした。
「令和」に改まる今後の日本では、普通の人々が心底、「それいいかもな」「そうなると皆、安心して落ち着いて暮らせるだろうな」と思うことができる国づくり・社会づくりを第一の目標とし、そのために、先端技術を活用するという発想の転換が行われればいいなと思います。
そのためにはまず、「どのような国づくり、社会づくりを我々は行っていくべきか」という議論をしなければなりませんね。また、「グローバル化」「構造改革」の流れのなかで徐々に手放してしまった政治的な力(ヒト、モノ、カネなどの動きを調整する力)を取り戻していく必要もあるはずです。
駄文、失礼しますた…
(;^ω^)
【施 光恒】情報技術と「引っ越さなくていい社会」への2件のコメント
2019年4月15日 5:30 PM
かねてより「家が二つ持てる社会」、自然豊かな田舎と利便性の高い都市部に「自宅」があれば二重生活が可能で、地方の活性化にもなると考えていました。二つのコミュニティに属することで多様なつながりを持てるというメリットも。引っ越しがなくなると息が詰まるというデメリットも考えられるし、どっちがいいのか迷います。
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2019年4月17日 10:12 AM
遅レスすみません・・
>「令和」に改まる今後の日本では、普通の人々が心底、
>「それいいかもな」「そうなると皆、安心して落ち着いて
>暮らせるだろうな」と思うことができる国づくり・社会
>づくりを第一の目標とし、そのために、先端技術を活用
>するという発想の転換が行われればいいなと思います。
施先生の、暮らしが出発点で、先端技術はその従属という考え方に、強く強く賛成いたします。
20世紀は科学の進歩と、生まれ出る応用化学(テクノロジー)それ自体が素晴らしい価値のように受け取られてきたかもしれませんが、そろそろ、自分たちを成立させているものを振り返り、価値を見出して、それに都合のよいテクノロジーを選ぶ、というあり方、考え方のほうが、幸せになれそうな気がします。
たとえば、一見すると暮らしは昭和初期か、あるいは江戸時代ぐらいまで遡ってしまい、それを支える技術は超ハイテクで、というのも面白そうです。
もしもそれが、日本人が生まれ生き死んでいくストーリーで素晴らしいものならば実現すべきです。
たとえば、古民家みたいなものでの暮らしを最良とすれば、衣服の寒暖の対応力を超ハイテク化すれば、建物に断熱材やサッシなど現代的なものは不要かもしれません。
そういう居住まい、佇まいが人生至上の価値、というありかたも、好き好きで追求できれば面白そうです。無駄といえばそうかもしれません。でも、それが豊かさだと自分は思ってます。
自動車の自動運転も、テクノロジ自体の追求で、どこまでも無人化、人間の関与の排除ができるかもしれません。が、馬のように、決まった道ならばほっといても歩いていき、寄り道したければ手綱でコミュニケーションすればそれなりに向かってくれる、また、なにかあれば人の顔を覗き込むなど、技術でできることでなく、人が心地よいこと、やりたくなることをイメージしてみるのも良いのかなと。
(ボストンダイナミックス社を自動車会社が買わない理由が自分には理解不能・・・)
現状で変えるべきものを考える指針とは何でしょうか。
自分が思うに、それは、今では当たり前すぎる、
ストレス社会の根源です。
人間がストレスを感じるのは、それが人間の能力に不適当であることに起因していると思っています。
なので、脱ストレスのために、テクノロジをこそ追求すべきです。
遠い場所、遠い時間、両手で数えられない多数のもの、目で追いかけられないほどのスピード、時間で変動していく流動、そんな人間にとって苦手なものに、自分の人生の大事なこと(緊張)との関係が深まると、とてもストレスになるでしょう。そういう分かりにくい、対処しづらい暮らしを辞める、ということです。
だれもが一度ぐらいは抱くであろう感傷、
「もっと昔の時代の生活に戻りたい」
というのは、すでに現代人の暮らしが、人間というDNAによって形作られる造りには、すでに負担が大きすぎるのかもしれません。
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