コラム

2023年3月11日

【竹村公太郎】 関ケ原の戦いの謎―どうする家康―

 NHKの大河ドラマの
「どうする家康」が2023年1月から始まった。
クライマックスの一つである
「関ケ原の戦い」に向かって行く。
このドラマで関ケ原のロケ地を
どこにするのかが興味深い。
「どうする家康」で
この関ケ原の場面をどうする?

天下分け目の関ケ原
 東京・大阪間の新幹線には
数えきれないほど乗っている。
東京から大阪に行く時には、
名古屋駅の停車の音で目が覚め、
岐阜羽島から関ケ原を通過する時には
車窓から関ヶ原を見ることになる。

 この関ケ原の地形は何度見ても興味深い。
どこまでも平坦な濃尾平野のあとに、
小さな丘が連続していく。
いくつかの小山を通り過ぎると
関ケ原に入る。
あっという間に関ケ原を
通り過ぎトンネルに入る。
そのトンネルの先には
琵琶湖周辺の近江平野が展開している。

(図―1)は、
関ケ原を中心とした位置図である。
関ケ原は近江平野と
濃尾平野の中間に位置している。
近江平野は石田三成の勢力圏で、
濃尾平野は家康の勢力圏であった。
両軍とも自身の勢力圏に留まらなかった。
前に前にと敵に向かっていった。
その両軍が対峙したのが関ケ原だった。

金網デスマッチの関ケ原
関ケ原は近江でもない、濃尾でもない。
関ケ原は、人間たちの
天下分け目の場であったが、
関ケ原は日本列島の地形の
東西の分け目の場でもあった。
関ケ原は、戦国の幕を
下ろし日本列島が統一される
象徴の土地であった。
両軍は西の近江平野と東の濃尾平野から、
わざわざこの狭い
盆地地形の関ケ原に集結した。
(図―1)を見るとそのことが理解できる。

この盆地の関ケ原には退路がない。
もちろん盆地からの街道はある。
東には中山道、南には
伊勢街道そして西には
北国街道が続いている。

しかし、これらの街道は
敵が裏に回り込めば、
簡単に退路は抑えられてしまう。
退路を失えば決定的な敗北につながる。
戦国時代、敵対する両軍が
わざわざ逃げ道が限られた
狭い盆地に閉じこもって、
大会戦を繰り広げたことなどあるだろうか。
退路を断って戦う。引き分けはない。
勝つか負けるしかない。
まるで、格闘技の金網デスマッチだ。

島津の中央突破
 逃げ場のない関ケ原で
語り草になっているのが
「島津隊の退き口」と呼ばれている
中央突破の退却戦である。
戦闘当初は西軍がやや優勢に進んだ。
しかし、小早川陣営の裏切りで
戦局は一気に東軍が優勢となった。

戦闘に加わらず戦局の動きを
見守っていた島津義弘率いる
約1千名の島津軍は、
いつのまにか敵陣に囲まれていた。


(図―2)が関ケ原の布陣であり、
島津軍は最前線にいる。


(図―3)の関ケ原合戦図でも
島津軍の旗㊉は戦闘の最前線に描かれている。

退路を失った島津軍は
東軍の中央突破を図ることとした。
目指すは南へ延びる伊勢街道であった。
勇猛な薩摩隼人の島津軍の
思わぬ行動に東軍も一瞬たじろぎ、
中央突破を許してしまった。

その後、東軍による激しい
追撃戦が伊勢街道で展開された。
島津軍の殿(しんがり)の小隊は、
東軍の足止めを担い徹底的に戦った。
その小隊が全滅すると、
次の小隊が足止め役を担い、
その小隊が壊滅すると次の小隊が戦った。
本隊の島津義弘は伊勢街道を南下し、
海路を利用して薩摩に帰還した。
生き残って帰還した数80名という。
「島津隊の退き口」は、
日本の戦闘史に残る激しい撤退戦となった。

見通せない関ケ原
 30年ほど前、
車で岐阜から大津に向かった。
途中の関ケ原に立ち寄った。
関ケ原の所々で止まり、
車外に出て周辺を見回した。
何か変であった。

風景が変だった。
関ケ原が見通せなかったのだ。
西側の山道に車を走らせて、
小山に登り、道路に立っても同じだった。
建物や木々の切れ目から
見通せる場所はあるが、
関ケ原全体を見回せる場所などなかった。

読んだり聞いたりしていた関ケ原の風景と違う。
話によると関ケ原の各陣営の動きが
手に取るように描かれていた。
味方の陣のみならず、
敵方の動きも見えている。
その動きを見て、作戦を立てている。
その有名な場面が、小早川陣の動きであった。

小早川秀秋は西軍の石田三成と
東軍の徳川家康双方へ加担の約束をしていた。
松尾山に陣取った小早川は、
戦局を見極めどちらの陣営に
つくかを窺っていた。
朝から始まった激しい戦いは、
西軍がわずかに優勢に戦いを進めていた。

家康は動きのない小早川の
様子を見てイライラし、
その怒りを表すため、
小早川陣に向かって鉄砲で
威嚇射撃をしたとも伝わっている。
鉄砲の威嚇射撃の真偽はともかく、
丘の上から情勢を見詰めていた

小早川秀秋は、ついに西軍を裏切り、
西軍に攻め込んでいった。
小早川の行動を見ていた他の軍団も、
次々と西軍に攻撃を仕掛けていった。
この小早川の判断と行動が、
東軍勝利のきっかけとなったことは
間違いなかった。

つまり、関ケ原で交戦していた
東西の各陣営、
そして行動を決めかね丘から
戦局を見つめていた各陣営、
それら全ての陣営は関ケ原を見通していた。
私にはそれが不思議で、理解できなかった。
何しろ私が見た関ケ原は、
木々で覆われて、関ケ原の全体など
見渡すことなどできなかった。
関ケ原の戦いは現在の
10月20日ごろである。
紅葉は始まっていたかもしれないが、
木々の葉っぱが落ちて、
関ケ原全体が見通せるような
枯れ木の時期ではない。
関ケ原の風景に釈然としないまま、
関ケ原を後にした。

禿山の関ケ原
関ケ原に立ち寄った時から
10年近く経ったある日、
東京大学の森林学の
太田猛彦教授の講演を聞く機会があった。
その講演会で配布されたレジメの図の一枚に、
眼が釘付けになってしまった。
それが(図―4)である。


米国の歴史家コンラッド・タットマンが
日本の寺社仏閣を訪れ、
その記録文献を調査した成果である。
全国の寺社の創建と再建で、
どの時代に、どの地方から
木材を持ち出していたかの分布図を
『日本人はどのようにして
森を作ってきたのか(築地書館)』
で公表している。

この図の紫色の部分が問題であった。
この紫色の部分は、
1550年までに木々が
伐採されていた地方である。

1550年といえば戦国時代である。
その戦国時代に、
西は山口、南は紀伊半島、東は伊豆半島、
北はなんと能登半島まで伐採されていた。
つまり、戦国時代の舞台だった関西には、
すでに木がなく
禿山であったことを意味している。

講演の後、太田教授を待ち構えた。
「戦国時代の関西は、禿山だったのですか?」
と聞くと、そんなことも知らないのか、
という顔つきで
「戦国時代だけではなく
明治から昭和にかけても禿山になっている」
と教えてくれた。

その時代の禿山の写真も
あることを教えてくれた。
早速、その写真集を探し当てた。
その写真を見て驚いた。
 明治から昭和にかけ
日本列島全体が禿山であった。
その1つが(写真―1)の
京都の比叡山の写真である。


あの神聖な比叡山が禿山になっていた。
なお、明治から昭和にかけて、
日本列島の全ての山々が
禿山であったことは
『全国植樹祭60周年記念写真集
(国土緑化推進機構)』で掲載されている。
(写真―2)は関ケ原に近い
滋賀県の野洲の山々である。

この写真は戦国時代のものではない。
しかし(図―4)を見れば、
戦国時代の関西地方には
木がなかったことが分かる。
関西のどの山も禿山であった。
つまり関ケ原も禿山だった。
これなら関ケ原の高台に行けば、
関ケ原のすべてが見通せる。
見通せる風景なら、
関ケ原の戦いの物語が
ストンと胸に落ちていく。 
10年越しの関ケ原の謎が
スーと消えていった。

歴史を理解するには、
当時の地形に戻る必要がある。
いや、地形どころか
森林の様子まで戻らなければならなかった。

 逃げ場のない盆地地形の関ケ原は禿山では、
すべてが見通せた。
そこに集結した東軍と西軍の大将と侍たちは、
退路を断って、生きるか死ぬかの
決死の覚悟で戦いに挑んだ。
 日本の歴史が決ったこの場面、
日本人はなんと勇ましく、
そして、なんと痛ましかったのか。

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【竹村公太郎】 関ケ原の戦いの謎―どうする家康―への1件のコメント

  1. 禿山 より

    なぜ 山は禿げていたのか、、

    燃料と 建材のために
    木材が 伐採され続けられていたの
    か。。

    幕末から維新にかけての
    江戸城周囲の景観を
    画像で拝見すると 
    見晴らし 最高

    これからは 都知事様の 御英断で

    明治神宮外苑やらも
    見晴らし最高に なりそうですね ♪

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