コラム

2021年11月13日

【竹村公太郎】日本の歴史が創った近代日本 ―不思議な京都の電車―

絶壁のエネルギー・日本
 日本人は長い間エネルギーに関する思考を頭から追い出してきた。なにしろ、日本には原子力発電があった。原子力はCO2を出さない環境に優しい、エネルギーは原子力に任せておけばいい。 

 このような雰囲気の真只中、2011年3月11日の東日本大震災で福島第1発電所の事故が発生した。これ以降、日本は火力発電に追い込まれ、近年の脱炭素という再生エネルギーが声高に言われている。

 日本のエネルギー自給率は10%以下と異常に低い。世界史を見ればエネルギーがない文明は必ず滅んでいった。50年後、化石エネルギーは価格高騰し、人類の目の前から燃料としては消えている。

 現在、日本は燃料を得るために何十兆円という国富を海外に垂れ流している。貿易収支は常に黒字と思い込んでいたが、2021年10月、日本が貿易赤字になったと伝えられている。

 未来の日本は存続できるのか?どうして存続していくのか?

 100年前、日本はエネルギーの宝庫であることを見抜いた米国人がいた。それはグラハム・ベルであった。

グラハム・ベルの予言
 明治31年(1898年)、グラハム・ベルが来日した。発声生理学の科学者であり、教育者であったベルは、明治19年に電話の実験を成功させていた。

 ベルは日本の帝国ホテルで講演をしている。その内容は日本の未来への讃歌であった。

「日本を訪れて気がついたのは、川が多く、水資源に恵まれているということだ。

この豊富な水を利用して、電気をエネルギー源とした経済発展が可能だろう。電気で自動車を動かす、蒸気機関を電気で置き換え、生産活動を電気で行うことも可能かもしれない。

日本は恵まれた環境を利用して、将来さらに大きな成長を遂げる可能性がある。」(ナショナル・ジオグラフィックより抜粋)

 日本国内を旅したグラハム・ベルは、日本の気象と地形に接した。その日本列島の気象と地形こそが、日本の宝であることを、ベルは見抜いた。

 なぜなら、ベルは「地形と気象」に関して、当時の屈指の科学者であった。ベルは米国の地理学協会の会長であり、雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」の出版責任者であったのだ。(写真―1)がグラハム・ベルである。

太陽エネルギーの水
 日本列島はアジア・モンスーン帯に位置し、四方を海に囲まれている。日本列島に吹く風は、一年中海の湿気を運んでくる。

太陽に照らされた水は水蒸気となって、雨や雪として日本列島に降り注ぎ、それらは川となり海に向かって流れていく。水は循環する太陽エネルギーだ。

 太陽エネルギー量は膨大で、永遠に存在するエネルギーである。しかし、どの太陽エネルギーも決定的な弱点を持っている。それは、単位面積当たりのエネルギー量が薄いことである。

 太陽光発電も風力発電も、単位面積当たりのエネルギーは薄い。同様に、雨も単位面積当たりエネルギーは薄い。雨が都市に降っている限り、都市を水浸しにするだけでエネルギーにならない。

 ところが、ベルが見た日本列島は山だらけであった。日本のどこへ行っても山が近くに迫っている。聞くと日本列島の70%が、山であるという。

 日本列島に降り注いだ雨は、小さな沢になり、沢は渓谷となり、渓谷は川となり、次第に密度の濃い流れになる。日本国土の地形そのものが、薄いエネルギーの雨を濃いエネルギーの水流に変換する装置であった。

日本人への驚嘆
 この日本の気象と地形を見て、地理学者ベルは日本の未来の発展を予言した。しかし、水が豊かな山岳地なら世界中どこにでもある。ベルは単に気象と地形だけを根拠にしたのではない。

 ベルは、この日本列島に住む日本人を知り、日本の未来の発展を予言した。

 グラハム・ベルはさきの講演で「日本人」そのものにも言及している。著名な米国の古生物学者のO・C・マーシュ教授の言葉を借りて日本人について、

「地層の化石のワニの脳を調べると、地層の上にいくほどワニの脳は大きくなっている。それは人間にも当てはまるのではないか。

つまり、現代人になるほど脳は大きくなる。同教授は別の研究から、日本人の平均的脳は西洋人よりも大きいと指摘している。

私はこの結論から特に何かを証明する気はないが、少なくとも体が小さいといって劣等感をもつことはない。」(ナショナル・ジオグラフィックより抜粋)と述べている。

 ベルは優れた科学者であった。そのベルの日本人への高い評価は、滞在中の日本人へのお世辞などではなかった。ベルは日本社会を見て、心から日本人に驚嘆した。

 それもベルの専門の「電気」分野での驚嘆であった。

 
驚きの電気の日本列島
 来日したベルは、夜の東京の明るさに驚いた。なにしろ夜の東京の街には、多くの電気の光が輝いていた。

 話を聞くと、明治16年(1883年)に、東京電燈(東京電力の前身)会社ができ、電灯の供給事業を開始したという。1883年というと、米国でエジソンが電灯会社を創設したたった1年後なのだ。

 明治20年(1887年)には日本橋に火力発電所が完成し、電灯は一気に普及していった。明治25年(1892年)には1万灯に達成し、ベルが来日した時も大変な勢いで普及していた。

 東京だけではない。東京から関西へ旅行すると、名古屋、京都、大阪の街にも明るい電灯が輝いていた。それらの都会では、ベルが来日する10年も前から電燈会社が設立され、電気が供給されているという。

 ベルが驚いたのは電灯だけではない。

 首都・東京から400kmも離れ、一千年以上も続く古都・京都に、路面電車が走っていた!

 ベルが来日する3年前の明治28年(1895年)に、その路面電車は誕生していた。さらに驚いたことには、その電気は石炭の火力発電ではなく、水力発電であるという。

 日本最初の商業用の水力発電は、ベルが来日する7年前の明治24年(1891年)に、琵琶湖疏水で田邉朔朗という若い土木技術者が完成させていた。

 その水力発電によって、路面電車が商業化されていた。(写真―2)が京都の路面電車である。

水力発電と路面電車
 ベル来日から遡ること30年前の明治2年(1869年)、都が京都から東京へ移った。衰退する京都の産業を振興させようと、琵琶湖の水を京都へ導水する琵琶湖疎水事業が計画された。

 その計画を任されたのが、東京の甲工部大学校(後の東京大学工学部)の若干21歳の土木技術者・田邉朔郎であった。(写真―3)が田邊朔郎である。

 明治18年、困難な琵琶湖疎水の工事が着工された。

 その事業の真最中、米国からニュースが飛び込んできた。水を利用した発電が開始されたという。それを動力に使った産業が起こされたという。

明治21年(1888年)、田邉は京都商工会議所会長の高木文平と米国視察に向かった。エンジニアと経済人がペアーで訪米したところが面白い。

 米国アスペン銀山では、水力発電によって精錬工場が力強く稼働していた。田邉らが米国で見たものは水力発電だけではなかった。田邉らが訪米した1888年、米国のマサチューセッツでは電気を動力とする電車が開通していた。

 田邉は琵琶湖疏水事業での水力発電の可能性を確信した。田辺と高木はその動力で、市内を自由に走る路面電車の事業構想を組み立てた。

 田邉は、疎水の水車の計画を、水力発電の計画に変更した。

 明治24年(1891年)、琵琶湖疎水の蹴上(けあげ)水力発電所が完成した。

 明治26年(1893年)、高木文平は京都電気鉄道株式会社を設立した。そして、明治28年、日本初の路面電車が京都市内を走った。

 なぜ、田邉と高木はこのような大胆な事業構想を組み立てられたのか。それは、米国で電気の路面電車を見たとき、二人は京都の市内を走っていた「石の線路」とダブらせていたからだ。

 古都・京都であったからこそ、最先端の電気路面電車が誕生した謎の解がここにあった。

車石の線路
 京都と滋賀の大津の間には逢坂の峠がある。

 江戸時代、東日本や日本海から大津に集結した物資は、次々と牛車で逢坂を超えて京に運び込まれた。大津から京都へ向かう牛車が列をなす姿を広重も描いている。(図―1)は広重の東海道五十三次の最期の大津宿である。

 牛車にとって逢坂を超えるのは難儀であった。ましてや雨が降ると逢坂峠の道はぬかるみ、牛車は立ち往生した。運行上の難問も抱えていた。牛が暴れるという問題であった。旅人や牛車がひしめく逢坂で、牛が暴れれば重大事故になる。

 雨が降ってもぬかるみにならない道、人が行きかっても牛が静かに歩行できる道、このハードとソフトの課題を一挙に解決する知恵が誕生した。それが「車石(くるまいし)」であった。

 文化2年(1805年)、京都の心学者・脇坂義堂が1万両を投じて建設したのが「車石」である。(写真-4)が「料亭かねよ」の庭に展示されている花崗岩に彫られた車石である。

 この車石はただ路面に敷き詰められたのではない。人々の歩く道路面から一段掘り下げた溝の中に敷設された。人々と牛車は完全に仕切られた。

それは、蒸気機関車が人との接触を避けるため、柵で仕切られたと同じであった。(図―2)で、牛車が溝の中を行く姿が描かれている。

 さらに、この車石は逢坂峠だけに設置されたのではない。京都市内の三条まで延長され総延長12kmにも達していた。

 この車石は、単なる逢坂の滑り止めではなかった。京都市内を運行する「線路システム」であった。

 この京都の歴史が近代日本のエネルギーの幕を開いた。

歴史の蓄積
 田邊と高木が米国で電気の路面電車を見たとき、彼らは京都で毎日見ている「車石」をすぐ思い出した。

 京都の石の線路システムは、扱いがやっかいな牛が車を引いている。牛はちょっとした刺激や発情時期にはすぐ暴れ出す。

だから逢坂では人々と牛を仕切るために車石を掘り込んだ。やっかいな牛の代わりに電気を使う。その電気はアスペン銀山で見た水力発電で得る。

そのため、琵琶疎水事業に水力発電を組み込む。

 彼らの頭の中で、それらの構想がいとも簡単に構築された。

 極東の海に浮かぶ小さな島国に来て、ベルは心から驚いた。

 この島は水力という無限のエネルギーに恵まれていた。そしてこの島には、欧米技術を吸収して実用化できる優れた技術者がいた。さらに、水力発電を実施して、路面電車の事業まで開始した優れた産業人がいた。

 ベルのその驚きが、あの帝国ホテルの講演になった。

 しかし、ベルが来日するずーっと以前から、日本では平賀源内がエレキテルで遊んでいた。京都には車石の線路システムが生まれていた。日本の長い歴史が優れた技術を生み出していた。

 文明開化で入ってきた西欧技術が、日本の近代化を進めたのではない。

 日本の長い歴史で積み重ねられてきた知恵が、西欧技術を十分に花開かせていった。ベルはそのことに気が付いたのであった。

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【竹村公太郎】日本の歴史が創った近代日本 ―不思議な京都の電車―への2件のコメント

  1. 大和魂 より

    そもそも現代の知恵は古代からの大切な伝統である以上、人間を考えた時にその大半が水であることの普遍的な実態を先人達は自然観から学び、それを死生観に置き換えながら日常の営みで実践されていたように伊藤仁斎や荻生徂徠の残した文献の感想で認識しているところです。

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  2. つぼた より

    今から40年程前、少し京都に居たことがあって、何回か路面電車に乗りました。

    道路の中央にレールが敷いてあって、両側を自動車が走る中をチンチンと音を鳴らして路面電車が走る光景はのどかで、街の景色に溶け込んでいたのを思い出します。

    良い時代だったなあと懐かしく思いますが、当時の路面電車が水力発電だったかどうかは分かりません。

    どちらにしても、水資源に期待しています。

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