From上島嘉郎@ジャーナリスト(『正論』元編集長)
久しぶりに机を整理したら、ワープロ用のフロッピーディスクが何枚か出てきて、中身を見ると〝ボツ〟になった原稿が何本かありました。以下は、20年ほど前の独身時代、当時まだ発行していた夕刊の署名コラム用に書いて、担当の社会部デスクから「独りよがりが過ぎる」としてボツにされた原稿です。お付き合いただければ幸いです。〈締め切りに追われて深夜まで仕事、その後は不夜城の一角で高ぶった気分をアルコールで鎮め、明け方に帰宅、という日が少なくない。みんなが健康的に、活動的に、生き生きと一日の戦いを始める朝、その朝日のまぶしさに目を細めつつ、出勤してくる人の波とは反対方向に歩いていく。置き去りにされたような感覚の中で、独り者の気楽さとともに、ある種の空しさが心の中に衝き上げてくるのはそんなときだ。おれはいったい何のために働いているのか…。電車は東京から折り返し郊外に向かって走る。終点は房総の海辺の町だ。夏の喧噪が終わって、秋の装いを冬のたたずまいに改めた海はどんな色をしているのだろう。うとうとしながらそんなことを考えたりするが、私を待っているのは海辺の町ではない。途中で下りた町の一隅にあるアパートの“万年床”だ。反対側の席に、ともに七十代くらいだろうか、同じような鍔(つば)の帽子をかぶって、リュックサックを網棚に乗せた夫婦が座っている。「似た者夫婦」という言葉があるが、まさに風貌までそっくりだ。どうやら冬の海辺の風景を、二人でスケッチにでも行くらしい。聞き耳を立てたのではないが、孫の就職祝いのこと、近所で起きた火事の話、来月に予定している旅行の話などたわいもないといえばそれまでだが、楽しそうに会話している。話の内容から察せられる齢(よわい)を重ねた夫婦の暮らしぶりは好もしく、何となく羨ましいものに思えた。
別段劇的なエピソードが語られているのではない。堅実だが淡々とした毎日が降り積もって、目の前にいるこの仲睦まじい夫婦をつくったのだろう。若い頃には刺激的で艶っぽい揉め事も二人の間にあったかも知れない。あるいは会社が倒産して夫婦とも辛酸をなめたのち再起を果たしたとか…。
勝手に私の中で想像がふくらんでいく。
唐突に、ロンドンの下町に住む少年少女の純愛を描いた映画「小さな恋のメロディ」(1971年)を思い出した。主人公のメロディとダニエルは墓地で初デートをし、ある墓碑を見てこんなセリフを交わす。
「ここに眠れるのは、最愛の美しきエラ・ジェイン、妻にして生涯の友。五十年間の幸福に感謝を捧げる」
「五十年間の幸福。五十年ってどれくらい長いのかしら」
「そうだね、休日を入れなければ百五十学期だ」
「そんなに長く私を愛してくれる? そうは思わないわ」
「もちろん愛するさ。ぼくはもう丸一週間きみを愛しているんだからね」
少年少女でなくとも五十年という歳月は気の遠くなるような長さだ。私の目の前にいる夫婦が、夫婦として過ごしてきた時間は恐らくそれに近いだろう。その間二人をつなぎとめてきた絆は何なのか。単純に「愛情」というには、夫婦も家族も、面倒で煩わしいことが多い。それでも人々の多くは(最近はそうでもないが)、人生の半分以上を誰かの夫や妻として過ごし、また夫婦は多くの場合、父と母になる。子供が生まれ家族がつくられていく。
夫婦、家族の価値が急速に揺らいでいる。個人の幸福追求の前にそれを障害と見なす考え方が力を得ている。夫婦別姓、男女共同参画、ジェンダー・フリー等など、背後にあるのは、夫婦や家族の関係を個人にとっての重荷ととらえる考え方だ。
たとえば夫婦別姓の広告塔的な役割を果たしている弁護士で参院議員の福島瑞穂氏は、「パートナー(「夫」とは呼ばないそうだ)の両親と自分の両親は一度も会ったことがない」と誇らしげに語り、自分の娘が十八歳になったら「家族解散式」を行ってみんなが別居するつもりだという。さらに「既婚はもう恋の障害じゃない」と、いわゆる不倫の勧めを説き、離婚・再婚が容易になることを望んでもいる(八木秀次著『反「人権」宣言』ちくま新書に詳述)。
こうした福島氏の発想には人間社会のタテ・ヨコの絆を断ち切った「個人」しかない。だが果たしてこれで人は生きてゆけるのか。年老い病んだとき、墓場まで手厚く面倒を見てくれる福祉国家があったとしても、それで人としての心の癒しは得られるのか。そのときの医師や看護婦の優しさは社会的使命によるものでしかない。懐かしい記憶を共有する掛け替えのない存在ではないのだ。
おれはいったい何のために働いているのか…、それは恐らく、まだ見ぬ“かみさん”といつの日か海辺でスケッチブックを開くためのものだ。これまで人はそうあってきたし、これからもそうあらねば、人の社会はもたないような気がする。〉
読み返すと、気恥ずかしくなってきます。その後、古くさいカラーボックスの一棚を占めるシングルレコード盤の中から、ビー・ジーズの「イン・ザ・モーニング」(「小さな恋のメロディ」の挿入曲)を取り出したのですが、プレーヤーを持っていないことにハタと気づいて、思わず苦笑いを浮かべました。
何のために生きて働くのか…。
フェミニズムの旗手としてマスコミに持て囃されてきた上野千鶴子氏に『おひとりさまの老後』(法研)というベストセラーがあります。上野氏が主張するように、結婚も、家族も、子供も、現実には面倒で煩わしいものかも知れません。しかし、子供がないまま「おひとりさまの老後」を迎えても、〈孤独死でなにが悪い〉〈ひとりで死ぬのはぜんぜんオーライ〉と言うのですが、ホントにそうか。
確かに、人間は独りで死ぬことは間違いない。戦禍に遭うか、心中でもしない限り、周りが一緒に死ぬことはない。しかし、死ぬときに周りに誰かがいるのといないとでは、目を閉じる一瞬が全然違うのだと私は想像します。誰かがいれば「見送ってもらえる」という最後の感謝ができる。その人たちとの思い出がある。死を迎えるに当たってこの有無は大きい。死ねば同じだとしても、人生の最後にどんな言葉を聞き、どんな光景を目に焼き付けて逝けるか。
「おひとりさまは怖くない」と言えるのに必要なインフラは、社会がその負担に耐えられることが前提です。『おひとりさまの老後』の〈あとがき〉で、上野氏は、〈不安とは、おそれの対象がなにか、よくわからないときに起きる感情だ。ひとつひとつ不安の原因をとりのぞいていけば、あれもこれも、自分で解決できることがわかる。もしできなければ、最後の女の武器がある。「お願い、助けて」と言えばよい〉と述べていますが、若いときに結婚せず、子供をつくらず、ただ個人としての生活を謳歌するだけの人々が社会の大勢を占めるようになったら、上野氏の描く「おひとりさまの老後」は到底支えられないでしょう。ただ彼女の世代が“逃げ切れる”に過ぎない。
「人間の一生は、所詮一人だ」と割り切ってしまうと、死を迎えるまでの人生がどこか投げやりになってしまうように思います。米軍の研究に、戦場では家族や恋人の写真を持っていた兵士の生還率が高いという結果があるそうです。人は自分以外の誰かを思うことで力強くなれる…。
日本は自由社会です。「ひとりで死ぬのはぜんぜんオーライ、お墓も要らない」という人がいてもよい。しかし、それを社会の規範にするな、というのが私の考えです。
【上島嘉郎からのお知らせ】
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●拉致問題啓発演劇「めぐみへの誓い―奪還」映画化プロジェクトの御案内
http://megumi-movie.net/index.html
●日本文化チャンネル桜【Front Japan 桜】に出演しました。
・平成31年2月1日〈スクープ!景気拡大「いざなぎ超え」の真実 /私たちには「加害」の歴史しかないのか/断ち切るべき「国際協調」という幻想〉
https://www.youtube.com/watch?v=dEe2YItEJGA
・3月1日〈沖縄問題に見る日米安保の正体/沖縄の民意は真摯か〉
https://www.youtube.com/watch?v=_l0S_x0Wooo
【上島嘉郎】改めて思う、人が生きて働く意味への4件のコメント
2019年3月8日 5:22 PM
よく生きる とは よく死ぬ事だ
とか、、
「死ぬ」とは 物理的な 死 ではなく
滅私 あるいは 献身 かと、、、
ちなみに
今だけ オレだけ おカネだけ の
小生とは180° 異なる生き方 で ございます。。。
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2019年3月8日 6:42 PM
個人の権利と社会の規範。どちらも行き過ぎると結局は自由を抑制する統制を引き起こす。自分の権利のために他者の権利を無視することになる。近年は一方的な権利ばかり突出してこれもハラスメントあれもハラスメントと言論統制することが権利とか、いずれは自分にも帰って来るだろう。因果応報
気に入らないなら見ないのも社会で生きるルールでは。みんな同じ価値観で生きているわけではない
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2019年3月8日 8:15 PM
全く同感です。一頃(今でもか?)キャリアウーマンが持て囃されたものですが(うちの姉もその口。しかし近年、奇跡的に結婚しました。)独り身、子供を作らない、自由を謳歌する人生、というものを称賛する気持ちには全く同意出来ません。あと、主夫、とか夫が家事をやり嫁が働きに行く、という形態も。(勿論、家庭それぞれの事情もあろうし、家事分担も当然必要だとは思いますが。)昨今、働き方カイカクじゃないですが妙にそういうのがおしつけがましく感じているのは気のせい?「時代がこうなんだから…」「これからは以前のようでは無いのだから…」「そう言われてみれば昔のオヤジの時代は男が無茶苦茶やってたよな。女は黙って耐えているだけで。あんな時代はもう考えられないな」…とか…ホントかな?って思います。それとなくそういう空気に感染してしまっているのでしょうか?それとも私自身が鈍感で堅物で思考力の多様性とやらが無いのでしょうか?こんなにも「自由」という言葉が絶対的価値の如く崇めたてられる今の時代は気持ち悪く感じます。
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2019年3月11日 8:42 AM
上島先生の文章、自分はとても好きです。
自分含め多くの者の気持ちをしみじみさせるお話であり、今、掲揚して頂いたことを、とてもありがたく思います。そして、筋道としてとても共感でき、なにやら安心を覚えました。
自分のような存在、仕事に疲弊した社会の使い捨てで、40歳すぎても独身だった身の上で、その後奇跡的に結婚でき、最近では、子供とはなにか考えるに、自分の生物としての連環の実現であり、きわめて落ち着きのある価値だと思いましたが、ひとつ疑問も生まれてきました。
たしかに子は我が分身に近く、理屈抜きに大切ですが、これが孫、ひ孫、さらに、となると、どうなるでしょう。自分自身、自分の個性、そういったものは薄れて、いつしか大きな社会と一体となるのではないか。
要するに、自分の子供というのに執着するのも大概であり、もっと大きな流れが、きっと生命なのかなと。
となると、ふと空想します。
近代個人主義以前の人々、今のように、生まれたら誰でも社会人として自立して結婚して家庭を持って子を育てる、が、誰にでも可能でない時代、どのように心の置き所を縦横軸で感じたのか。
たとえば、日露戦争で死んだ男たちは、どんな身の上だったのか。彼らは、国のために死ぬのは、ただ虚しいこと、だったのか。
国というのは、今でこそ希薄であれ、自分を産み育てた家庭と同種な、より大きく(薄い)輪の一つではなかったかと。
国や故郷に殉じる、それは子や孫のために尽くす幸せと、はかなくも通じるかもしれない。
そのように感じております。
そして、そんな我々のありようを、続けることだけが、人類が継続できる理由かなとも、思われます。
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