From 平松禎史(アニメーター/演出家)
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◯オープニング
経済を勉強し始めて「ドミナント・ストーリー」というのを知りました。
音楽用語のドミナントは聞いたことがありまして、例えばハ長調なら「ソ」で、主音(ド)の次に調性を決定づける重要な音。また、主調へ導く和音のことだったりします。
日本語訳するとドミナントは支配的、優先的という意味とのこと。
したがって、ドミナント・ストーリーは、自分を導くための「支配的な物語」とか「優先される物語」と言えます。
臨床心理学の言葉では、ドミナント・ストーリーそれ自体に良し悪しはなく、「物語」を語る患者の実際の体験(現実)などとの矛盾点を診ることで治療に活用していくものなのだそうだ。
経済問題で藤井聡教授や三橋貴明先生がこれを援用し、現実に合わない経済学や理論が信じられてしまう歪みを問うていらっしゃることは、このメルマガの読者なら説明するまでもなく、ご存知のことですね。
第二話『「明日を夢見て」〜『物語』の罪深さ』
◯Aパート
『ウニベルサリア映画社は皆さんに素晴らしい未来と明るい将来を提供いたします。さあ家から出ましょう。成功を手にするのです!』
ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品「明日を夢見て」、冒頭でオーディション(演技テスト)への参加を呼びかける主人公の台詞です。
この映画の時代は1953年。シチリアの小さな村を舞台に、映画に憧れた主人公が無垢な村人を巻き込んで自らの実現不可能な夢を自己肯定していく中で様々な人間模様に出会う。その末は?という物語です。
トルナトーレ監督の作品では「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」に比べるとマイナーな作品で、観られた方は多くないかもしれませんが、『物語』というキーワードを中心に、ネタバレ含みでガンガン書いていきましょう。とは言え、書ききれない面白いエピソードがたくさんありますけどね。
もし、このコラムを読んでから観たとしても、ボクとは違った感銘を受けると思います。
映画の見方はひとつではありませんからね。
ボクはこの映画に登場する無名のおじさんおばさんの顔、顔、顔…が大好きです。
_ _ _
この映画の主人公ジョー・モレッリは、映画に憧れて映画会社に勤めるも夢破れ、オーディションをネタに小銭を稼ぐ詐欺師に成り果てた男。
小さなトラックに撮影機材を積み込んで小さな村々を巡っている。
その手口はこうです。
映画と言えば、たまに広場で上映される異世界の夢物語…としか知らない、映画の何たるかも知らないような村人を演技テストと称してカメラの前に座らせ、名画のセリフを喋ったものを撮影して、フィルムを「ローマの有名監督」に送り、「審査を通れば銀幕の新人スターになれる」「イタリアだけでなく世界で成功を手にできますよ!」と説明する。
演技テストに1500リラ頂くけどそんなの端金、スターになれば大金持ちだ。と夢物語を振りまいて稼ぐのです。
後で分かることですが、実際には村人を撮ったフィルムは映画会社に送られることはない。フィルムはすべて期限切れでした。
レックス・バクスターを発掘したのは自分だなんて言ってるんですから、映画を観る人には詐欺師だなとすぐに分かります。
でも、何も知らない無垢な人々は与えられる「物語」に酔い、次々と集まってカメラの前に座り、名画の台詞を喋る。
そのうちに、台詞ではなく自分の悩みや家族のこと、村の政治問題、恋話…など「自分の物語」を語り始める。
村人それぞれが持つ「物語」が、ジョーの持ち込んだ「映画スターへの物語」に乗せられて語られる。
最初はゲーム感覚で楽しんでた村人たちは、次第にジョーを尊敬して拠り所にし始めます。彼のカメラが、自分を開放してくれる唯一のツールなのだ、と。いつしかジョーは「先生」と呼ばれるようになります。
村人にとっては今まで口にするのが恥ずかしかった「自分の物語」が、ジョー先生の持ち込んだ「物語」を利用して語られ、ある種の力を持つに至った。
村人は、まるで自分が主人公になったような錯覚に陥っていく。
村人は、自分の頭で考えている、と錯覚して詐欺の手口に乗り、自らに使い、自らを縛っていくのです。
_ _ _
ジョー自身の物語はどうか。
彼は自分の憧れを信じ続けている。
カメラの前に座る村人にアドバイスする言葉(専門用語や理論)は本物だ。しかし、彼はそれを詐欺に使っている。いとも簡単に騙される村人を軽蔑してもいる。
救いを求めてカメラの前に座る老人を撮った後、「本気で泣くヤツにはうんざりする」と口走ったりします。
愚かな村人を騙して自尊心を満足させ、出口のない現実から目を逸らすため、自己正当化に利用しているのだ。
「映画スターへの物語」なんて村人の誰も真剣に考えてはいないと知っている。自分を弾き出した映画界に唾しながら、映画界の手法で生計を立て、それを捨てられなくなっている。
二重の共依存です。
◯中CM
この映画を観たのは18年前。
「新世紀エヴァンゲリオン」に15話から参加していた頃でした。
トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」を勧めてくれた先輩と、たしか有楽町まで観に行ったのです。
当然「ニュー・シネマ・パラダイス」のような心あたたまる映画をを期待して観に行ったんですが、あまりにシビアな内容に、劇場を出てから二人共しばし無言だった記憶があります。(「ニュー・シネマ・パラダイス」の劇場公開版の印象はいわゆる泣ける系イイ話なんですが、後に観た完全版は「明日を夢見て」に連なる感覚がありました。)
映画ビジネスという移ろいやすいものに対して、歴史に裏付けられ、都会的な消費生活から離れた村人たちの生活は結局ビクともしないのです。
映画の視点は、村人たちの生活を肯定するでもなく、否定するのでもない。ジョーが去った後にはいつも通りの彼らの生活が戻ったのだと思えます。
ジョーも「どうせそんなもの」ということを知っていた。
…ボクらは一体何をしようとしてるんだろう?
会社をやめてフリーで仕事をし始めた30代前半。ちょこっと仕事が評価されはじめて楽観的になっていた時に食らった強烈なボディブローでした。
◯Bパート
「明日を夢見て」の原題は”L’uomo delle stelle ” 英語だとThe starmakerになります。映画スターを発掘する男、ですね。
「映画スターへの物語」
それが仮に嘘だったとしても、小さな夢を持たせてそれで金を稼いで何が悪いのだと彼は思うだろう。
村人たちは一時の熱狂を楽しんだ。カメラのお陰で言えなかった事を初めて口に出来たりもした。その対価を貰って何が悪いんだ。俺とあいつらの利害は一致してるんだ、と。
ジョーは、共産党員を名乗る男を車に乗せた時、賛助会員カードを売りつけられます。せめて印紙代500リラだけでもと頼まれ、しぶしぶ買ってしまうのですが、ジョーは共産党の男を「商売仲間」と言います。
「あいつら、あの手この手で騙しやがる。俺たちは商売仲間だな。人々の未来をつくる…」と。
フランス映画の「オーケストラ!」では、密かに共産革命を夢見ているロシアの共産党員が登場しますが、共産革命はすでにあり得ない滑稽な夢想として描かれていました。
「明日を夢見て」の時代、1953年は共産革命が実現可能な「物語」と思われてた時代ですね。
「銀幕の大スター」という「物語」も。
そんな夢「物語」を積み込んだトラックを走らせている間、彼は彼の物語を信じ続けることができていた。
いや。映画監督になんかなれない、という現実を直視しないための時間稼ぎ、言い訳づくりの旅と言えようか。
村人を騙すため、まず自分自身を騙していたのだろう。権威というマスクを付けて。
…それで良かったのです。
_ _ _
そこに一人の少女が現れる。
彼女は孤児で、村人からも馬鹿にされるほど純真無垢そのもの。別な言い方をすればちょっと頭が弱いようにも見える。
ジョー(の物語)を信じ、村の生活という出口のない「物語」を飛び出して「自分だけの物語を作ろう」と、「彼にしか実現できない」と、どこまでも追ってくる少女。
少女に情が移った時、「映画人への憧れを保守し続けるためのやむを得ない詐欺行為」というジョー自身を正当化する「物語」が崩れ始める。
ジョーは、自ら作り出した「物語」への期待が重荷になると村を移動していました。
「救世主」を求める人々と、それを内心では恐れるジョーの観せ方は非常に巧い。
決して村を出ることはない人々との共犯関係は、村を飛び出した少女に直面した時、つまり、自ら作り出した「物語」の枠を飛び出した少女=「現実」に直面した途端、崩壊し始める。
彼は、現実から目を逸らす者たちとの共犯関係でしか生きられなかったのだ。
決してそこから出ないとわかっている人たちに対してしか自らを保てなかった。
飛び出して付いてくる少女は、彼にとって想定外の出来事、本当は見たくない「現実」だった。
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映画監督が「明日を夢見て」のように、作り手の葛藤を作品にする心理というのは、ある意味、誠実だと思いました。
社会派ドラマなどという大上段ではなく、一人の映画作家としての立ち向かい方をエンターテイメントとして(色っぽいシーンも…)描いている。
真剣で誠実だからこそ、普遍性を持ち、多くの示唆を与えてくれる作品になっているのです。
映画に対する立ち向かい方というのは様々ありますが、アニメーションの分野で、その末席に位置して30年経ったあと観直すと、どうしようもなく儚く小さい、まるでジョーのトラックのように、ゴトゴトと騒々しい割にちっとも進まない心許なさを感じてしまいます。
現実の世界もそれに似て、誰もが良きものと思いやすい自由、改革。或いは日本人らしさの体現、国体…などという「物語」が何度も現れては消えているにもかかわらず、もどかしさに耐えられなくなってしまう。
上下左右関係なく、様々な人々が、願望を投影できる対象が現れると「この人しかいない(この政党にしかできない)」とヒーローにすがってしまうものなのですね。自分もそういう「物語」にはとても弱いと自覚せざるを得ません。
恐ろしいのは、自分を守るために、疑うことを放棄してしまうことです。
シチリアの村人は誰もジョーを疑いませんでしたが、例外がいました。村の警官です。
彼は村人の前では威厳を保たねばならないのでカメラの前に座れません。そこで移動中のジョーを職務権限で停めて、自分のためだけにカメラを回させたのです。27回も!
警官の仕事は父の跡を継いだだけで本望ではなく、本当は村の誰よりも役者になりたかったのでしょう。そしてジョーが感激(?)するほどの大芝居を披露するのです。
そして、本気で役者の夢を持っていたためにジョーの素性やオーディションの実態を調べてしまいました。
皆、お前を信じて、心の内を見せ、真実を話した。お前はその人々を騙した。裏切られたと知った者は傷を負うだろう。
手錠をかけた警官は「私も信じた」と、「まんまと騙された」ことを告白し、こう告発します。
人々は手錠の前より、カメラの前で真実を語る。
しかし、そのカメラが空っぽの虚構だとしたら?
ジョーの本名は監督と同じ、ジュゼッペでした。
◯エンディング
「明日を夢見て」の主人公ジョーは、根っからの詐欺師ではなかったのです。往年の大スターを超えるような役者になりたかった。映画監督にもなりたかったんでしょう。それは真実だったと思えます。
オーディションで人をだますのも「今は、これで良い」と、理想を実現するために今は我慢しようと続けてきた。これは手段に過ぎないのだ。彼は自分にそう言い聞かせて、いつか理想を実現する行動に打って出るのだ!
その時のために今は妥協を…そんな風に言い聞かせているうちに映画界への復讐のように変質し、手法が目的に転移してしまったのかもしれません。
矛盾を正当化するために「支配的な物語」「優先される物語」を自分に心地良いよう歪め、現実すら歪めてしまったのでしょう。
その歪みに呑み込まれ、置き去られ、何も見えなくなってしまった少女の虚ろな目。
観直してみて、彼女が一方的な被害者には思えなくなりました。
彼女は、自分の夢はジョーにしか実現できない、代わりはいないと信じたからこそ村を飛び出したのです。
村に留まって、自分にできることを探すのを放棄してしまった。「物語」を与えてくれるヒーロー、新しく生まれ変わらせてくれるヒーローにすがってしまった。
すべてを失い、肉体的にも心にも大きな傷を負ったジョーと少女。
残酷ですが、自業自得かもしれないのです。
ジョー・モレッリは、ちょっとだけ「顔のない独裁者」のGKこと駒ヶ根覚人を彷彿とさせます。
◯エピローグ
日本に於いては、戦後レジームという物語を日米共同で作り出し強化していった面を無視し、過剰に「押し付けられた」と考え、「日本」の好都合な面だけを信じ、戦後レジームを敵視する運動そのものが戦後レジームを護持してしまう共犯関係に似ています。
戦後レジームに無自覚にドップリ埋もれていた民主党政権より、脱却しようともがき、「現実」の一端を見せてくれる今の政権の方が、むしろ様々な戦後日本の姿、マスメディアの欺瞞、私達自身の甘え、歪みを炙り出す。
政府・与党と国民。どちらがジョーで、どちらが少女なのか。あるいは・・・
勧善懲悪な熱血ヒーロー物が作りにくくなった冷戦後の現代。
大きな期待を控えようとするデフレ不況。
長い長い閉塞感を打ち破る「物語」を与えてくれるヒーローに期待する気持は、ボクにもあるのです。
少女のように、自分だけは本気だ…自分の頭で考えて…彼を信じているのだ! そう思いたい気持は、どこかにあるのです。
あるいはジョーのように、少々の妥協なら大きな夢を実現するためには仕方ないのさ…成功して取り返せば良い、という気持も。
映画は、ジョーの向かう先は?、少女の将来は?と …つまり、あなたの向かう先はどこなのか?…と問うようにして閉じます。
地味ながら、人々の作り出す「物語」の業の深さを抉っている名画だと思います。
◯後CM
さかき漣先生とのコラボ企画。
この間、さかき先生と二度目の打合わせをしました。予想を超え過ぎていて暴走が止まらないのは、打合せ後の酒のせいではないはずです☆
そして音楽打合せも行いました。
とてつもなく楽しみです。こういうワクワク感なら大歓迎♪
PS
日本企業が中国から撤退し始めた本当の理由とは?
https://www.youtube.com/watch?v=Wzz3dqOIGrY
【平松禎史】霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第二話への3件のコメント
2014年5月17日 1:57 AM
私は面白く読ませて頂きました。「明日を夢見て」も観たくなりました。三橋さんもよく言われてますが、結局どんな物語を選ぶのかって事ですね。自分の頭で考えていかないと、ある一定の意図を持った権力者の提供した物語を疑いもなく信じてしまうんですね。
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2014年5月18日 8:39 AM
すみません、率直に意見しますね。内容がマニアックですし、趣旨も構成もフワフワしていて、何を伝えたいのか分かりませんでした。途中まで頑張って読んだのですが、最後まで読めませんでした。でも、期待しているので頑張ってください。
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2014年5月18日 5:09 PM
ドミナント・ストーリー・・・わし、メガゾーン23(?、?は知りません)が頭に浮かびました(古いお宅だとお思いでしょうが。そうなんです、家壊れそうなんです)。創られた「日本の'80年代(階層)の創造」社会は、その世界よりも既に5世紀を経ている巨大巨船の中だった・・・。 なんとなく現代が、極左創造世界は脱した?もののネオリベグローバル創造世界へ階層をズラしただけの、外郭構造を視野に容れたくない?指向に思えてなりません。「生っ言ってんじゃぁーねーよっ!高卒プロレタリアートさんよっ」 蛇に睨まれたカエルの独り言でした。ズレたコメントm(_ _)m
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