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この号外は、
三橋経済塾の「経済学研究部」部員による「経済コラム」を、
不定期で日曜午後に配信するという新企画としてお送りしています。
塾生のプライバシーを守るため、本名ではなくペンネームです。
今週は、「経済学研究部」部長の「荒波レイ」さんのコラムをお届けします。
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From 荒波レイ@三橋経済塾経済研究部部長
予断は許されないが、日本経済がやっと、15年にも続くデフレ不況から脱出しようとしています。デフレとは継続的な物価の下落であり、その原因が供給能力に対しての需要不足、すなわち、所謂「デフレキャップ」であることは、三橋経済塾の塾生なら分かりきっていることだと思っています。そして、デフレキャップをもたらしたのは、90年代初頭に起きた「バブル崩壊」だということも、塾生たる者は知っているはずです。
また、バブル崩壊がなぜデフレをもたらすのかというと、バブル期には資産価格が上昇しているので、借金して不動産や株を買っても、価格が上がった後に売却すれば儲かるのですが、バブルがいずれ弾けるものですから、そのときは借金だけが残り、皆がその借金の返済に邁進することになって投資や消費が冷え込み、すなわち需要が不足するようになり、物価が下落し始めるわけです。
このことも、塾生なら分かりきっているはずですが、まさか未だに「貨幣供給量を増やさない日銀が悪い!」と思っている人は、もういませんよね、、、
続けて復習します。バブル崩壊後、民間のバランスシートが悪くなっている状態では、国内総生産(GDP)を支えるために、政府がお金を「刷って、借りて、使う」のが手っ取り早い、「正しい」ソリューションなのですね。すなわち、「大胆な財政出動」で不足している需要を補い、必要に応じて「機動的な金融緩和」で金利を調整するというデフレ対策を打てるのが政府のみです。
そうすればデフレギャップが埋まり、物価が上昇し始め、デフレから脱却するはずだということ、塾生なら心に刻んでいるはずであって、金融緩和だけでデフレ脱却できるという新古典派臭い理論には騙されるわけがないのですね。もしこんな根本的なことが未だに分からない塾生がいるならそれは、たるんでる、たるんデル・フレミングとしか言いようがないのです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/12/01/
日本政府はバブル崩壊後、最初は財政出動で景気を支えていたのですが、橋本政権が1997年に消費税増税及び緊縮財政に路線転換してしまったのです。つまり、民間がまだ借金返済が終わっていなかったため需要がまだ不足していたのに、政府までもが需要を削ってしまったわけです。その結果、1998年から日本経済が本格的なデフレ不況に突入してしまいました。その後の小泉政権なども公共事業などGDPとなる政府支出の削減を続けると同時に、デフレギャップを拡大させる「規制緩和」までやりまくりました。
考えればとんでもない話ですが、日本政府が実際に90年代後半からそんなとんでもないことを「やりたおしおったわけであります!」本当に「何してくれてんねん?!」「殺す気か?!」と、叫びたくなるのです。
http://www.youtube.com/watch?v=z_GrSvEmQIw_(17:30あたりからご覧下さい)
すなわち、日本政府が「新自由主義的」な政策を実施してきました。新自由主義はデフレにまったく効かないため物価が下がり続け、それより早いペースで賃金が減り、建設会社などが倒産し、日本経済の供給能力が削られ、日本国民が益々貧乏になり、日本がまるで「発展途上国」のようになりつつあったわけです。
現政権も、金融緩和と財政出動を実施しているとはいえ、新自由主義に冒されている政治家や官僚や学者や経営者はやたら声が大きく、政府の経済政策が「規制改革」や「グローバル化」などのような間違った方向へ行ってしまうのではないかと、三橋経済塾の塾生なら心配しているはずです。
日本経済がデフレから脱却するのなら新自由主義を退治しなければならないことはいうまでもないですが、奇妙なことに、新自由主義批判を批判する連中がいます。もちろん、根っからの新自由主義者から新自由主義批判が批判されても予想通りのことです。この論争はずっと前から続いているわけで、驚くことではありません。そして最近ではリーマン・ショックなどによるショックがあまりにも大きくて、新自由主義者たちが言い訳がしにくくなってきているのですが、やはりしぶといです、彼らは、、、
それはともかく、新自由主義批判を批判する人には、あまりにもショボイ論理で批判する者がいて、笑ってしまいます。
http://www.youtube.com/watch?v=TCjrbv56Qws
上記の動画のギャグの要点はつまり、「ミルトン・フリードマンが新自由主義の生みの親である」>「ミルトン・フリードマンが金融政策と財政政策を否定した」>「すなわち、新自由主義とは、金融政策と財政政策を否定することである」>「安倍総理が金融政策と財政政策を推進している」>「従って、安倍総理は新自由主義ではない」>「フリードマンから学んで、金融緩和を拒否し続けた白川元日銀総裁こそ新自由主義者だ」>「従って、安倍総理を新自由主義者だ、と批判する者は中国のスパイだ」、という感じです。
その論理がメチャクチャだということは、誰でも考えれば分かると思いますが、要するに、「AはBである」、「AはCである」、「従って、BはCである」という構造になり、論理的に間違っています。具体例で言いますと、「ジョンはアメリカ人である」「ジョンはお饅頭が好き」「従って、アメリカ人はお饅頭が好き」ということになってしまいます。いや、これは一種の手品であって、上記動画のコメンテーターのファンならそのまま鵜呑みにしてしまう可能性が高いと思われます。
それはさておき、「新自由主義」ということばは、一般的に次のような意味で使われています。つまり、新自由主義とは、
『「自由市場こそが、資源を最も効率的に配分し、経済厚生を増大する最良の手段である」という信念の下、政府による市場への介入をできるだけ排除し、経済活動の自由をできる限り許容すべきであるとするイデオロギーである。その理想を実現するため、新自由主義者は、「小さな政府」「均衡財政(健全財政)」「規制緩和」「自由化」「民営化」さらには「グローバル化」といった政策を主張する。』(中野剛志、「保守とは何だろうか」、p.13)
上記の定義は新自由主義批判をしている人たちがいう新自由主義の意味であり、その批判を批判したいのなら「ノーベル賞を取ってからにして」とまで言わないのですが、せめてその定義に基づいて批判し、下手な手品を使って勝手に定義を変えたりしないでほしいのです。
それはともかく、新自由主義政策を「骨抜きにしても問題は肝です!」と、ある塾生が言うのですが、その通りですね。
新自由主義の根本的なイデオロギーを徹底的に潰さないと、このゾンビはいつまでたっても再び復活するのです。上記の中野先生の定義にあるように、新自由主義の根底にあるのは、「市場原理主義」という思想であり、それに基づいて「小さな政府」的な政策が推奨されるわけであります。
従って、新自由主義と戦うことは、その肝となる市場原理主義、すなわち、「なんでも市場に任せればうまくいく」という考えに対抗するということになるのです。
とはいえ、厄介なことに、「純粋な」市場原理主義者がいるでしょうけど、金儲けが目的でそのイデオロギーを利用している「偽善者」もいるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11751024635.html
偽善者にはいくら理屈で議論してもおそらくあまり効果はないでしょう。
いずれにしろ、政府の市場への「適切」な「介入」が「経世済民」を成し遂げるには必要であり、それで「共産主義」や「社会主義」にはなりません。「コミンテルンが〜!」とレッテルを貼っても的外れになります。デフレから脱却し、国民の暮らしを豊かにし、国家の安全保障を強化するには、政府による大胆な財政出動や「規制強化」(緩和ではなく)が必要不可欠なのです。
PS
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http://www.mitsuhashi-keizaijuku.jp/
PPS
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【三橋経済塾通信】脱・新自由主義への9件のコメント
2014年2月16日 4:42 PM
リフレ派を自称する皆さんは、例えばTPPへの慎重論に対して、「隕石が衝突する」云々の余りにも実状を捨象した例えを用いて、慎重論者(私自身は慎重論者の側に保守思想があると思います)を嘲笑してしまっていますけれども、帰納法的にある一つの事象に注目するまでは良いのですが、その一つの事象が恰も全体を確定して行くかのように考えるのは、政治的な所謂左右どちらの視点であっても問題ありと思いますし、私が特にリフレ派の皆さんに対して不思議に思うのは、隕石の例えがまさにそうなのですが、慎重論の言を針小棒大に解説した後、その解説の反定立として、寧ろ慎重論の言を聞く前よりも更にTPP・金融緩和・労働に係る規制の緩和へと、前のめりになって行っていることです。本来的な話になりますが、人間の理性を拡大解釈するものが「左翼」だとするなら、人間の合理性を拡大解釈することは、進歩主義への偏重には中らないのでしょうか?浜田教授・岩田教授・原田教授・田中教授・上念さん・倉山さんは、未来に対して思考を純化させ過ぎだと思います。また上念さんと倉山さんは、自身らは保守であるが他の者は擬似保守だ、と主張されていますけれども、私は保守性というものは、所謂左翼や進歩主義者にも元々備わっていて、「最も遠い過去からの絆」、をどの程度現在に感じて言葉や立ち振る舞いで実践できているか・・で量られるものだと考えています。「絆」を意識した言動と振る舞いを考えた時、「東京都強靭化でしょwバカですか死んで下さいw」「あいつら消さなきゃダメですよw」という言動や立ち振る舞いには、本来至らない筈ではないかと思うのです。
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2014年2月17日 3:52 PM
iPhoneは、おそらく非常に国際的に高く、多くの人を介して、トースト作ら歓迎と一緒に大切なほぼすべての収益性の高いいくつかの良い携帯電話です。 iPhone愛好家が、このためのコミュニティ内のほぼすべての国を通じて存在し、iPhoneケースのスタイルの数は、国のためにマーケットプレース内に存在し、さらにはウェブ商人に関係する。 ipadとiPhone_カバーから選ばれた個人のまたは多分理想的なケースを購入することがあります。DK場所、多くのケースの発行済束がそこに見つけることができます。 ワールド_ワイド_ウェブを介して、あなたは偉大な契約はより多くのあなたが位置する小売店と比較して選ぶことができる品揃えがあります。 FABULOUS置か購入は、現時点での経験、サイバースペースを通して好ましい場合の地球を意味し、あなたが望むものを持っているケースの限られた多くを持っています。
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2014年2月19日 5:45 AM
どうすればいいかは案外はっきりしていて、「立ち止まって身内だけでなく、自分の周りや共同体の人々の姿を見てみませう。できれば参加すると尚良し」なのです。左にせよ右にせよ、抽象的なかくあるべし、という理論に凝り固まってる点はそっくりなので、まず人の顔を見よ時代に生きる現実の自国民を見よという話なのです
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2014年2月21日 3:49 AM
>更に言えば、極右とレッテル張りされるような>タイプの人に>そういう言説が多いのも事実で、そういう匂い>をどうやって>出さないようにするか。然り、然り。 というわけで、「大衆社会ガー」とか「日本の美風ガー」とか何とか、言ってるあいだは、駄目ですね。
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2014年2月22日 1:48 AM
見事な言説に頷きと、日頃のたまった鬱憤を昇華出来ました。様々な矛盾をはらんだイデオロギーだからこそ、最前線の人間は自分とその周りが壊れていく怖さを実感しているんですよね。そこを新自由主義に面している人に内発的にどうやって気づかせるか。更に言えば、極右とレッテル張りされるようなタイプの人にそういう言説が多いのも事実で、そういう匂いをどうやって出さないようにするか。やっぱり色眼鏡で見られると人間聞く耳を持たなくなりますから。これが思考停止に陥った試験勉強の延長線上にいるエリート層からの同意を得るのに大切になってくると思います。
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2014年2月23日 5:06 PM
ご指摘の通り、三段論法の間違いは明らか。また最近の上念氏の言説は極端な例を持ち出してきて、その例を否定することで自説を正当化するというパターンに陥っていて、正直辟易していた。以前はもっと柔軟な考え方が見られたと思うが、増税決定以後は何としても政権を擁護しようという牽強付会のドミナントストーリーのオンパレードで、論理的でなくなってきている。朱に交われば何とやらで、政治的派閥の主張に捕らわれてこんなコントをやっているのは全く誤りだ。
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2014年2月24日 11:14 AM
新自由主義、構造改革論が問題なのは、それが大衆化社会と同調しやすい性質を持っていることですよね。藤井聡先生が仰有っていたように、我が国の「大衆化」は相当に深刻だと思います。新自由主義がなぜゾンビのように生き続けるのかを考えた時、それはやはり、大衆化社会の問題と繋がっているように思います。藤井先生のご著書『なぜ正直者は得をするのか』で記述があったように、市場原理主義は「人間は合理的に選択するものだ」、すなわち「人間は利己主義者なのだ」ということを想定している。人間を「利己的な個」と捉えている。一方で「大衆」とは、「公の精神」を失い、私的利益の追及と、欲求の解消にしか興味を持たない「個人」の集まりのこと。つまり、新自由主義の理論は、大衆化社会を想定しているんですよね。となると、やっぱりこの「大衆化」をどうにかしないといけない。でも、東日本大震災でも、民主党の悪政でも、日本国民は気づくことができなかった。自民党は、民主党ほど露骨に失政をしてくれない。そして、仮にデフレを脱却して日本が経済成長するようになったら、国民は安心して、ますます「大衆化」は進むような気がします。醜悪な欲と、大衆の退屈しのぎに「日本的なもの」はどんどん壊されていく。残るのは「のっぺりとしたひとつの島」。新自由主義をどうするかと、大衆化をどうするかは、個人的には同じことと捉えて考えているのですが…答えは見つかりそうにありません。とにかく「黙らないこと」。これを続けていくしかないですよね…(_・ω・`)
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2014年2月26日 3:15 AM
つまり、彼らが大好きなのは三段論法のできそこないなのですが、正しい論理の流れを比較用に例:AはBである=>BはCである=>よってAはCであるジョンはアメリカ人である=>アメリカ人はアメリカ国籍である=>よってジョンはアメリカ国籍であるこちらが正しい三段論法。尚、A-Cにかけて、条件がおかしいのにさも正しいように言う場合があるのでご用心例:国家の目的は国民の福利厚生である=>自由市場は国民の福利厚生を最大化する=>国家の目的は自由市場の実現であると、いう風に。この場合は個々の条件を検討しませうまた、逆は必ずしも真ならず、という事も留意です例:カップ面はお湯を注ぐとできる、ならばお湯を注ぐとカップ麺が出来る反証:お湯を注いだ対象がカップ麺以外であった場合。でもまぁ、論理がおかしいと聞いてる内に直観的に「アレ、おかしくないか?」と思える物なので自分自身の直感を信じて、しかる後検証すれば真偽は正せると思います総括すると、おかしいと思ったらイケイケドンドン云う前に立ち止まって考えてみませう、て事でしょうか
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2014年2月26日 5:49 AM
>上記の定義は新自由主義批判をしている人たちがいう新自由主義の意味であり、その批判を批判したいのなら「ノーベル賞を取ってからにして」とまで言わないのですが、せめてその定義に基づいて批判し、下手な手品を使って勝手に定義を変えたりしないでほしいのです。その“定義(笑)”が間違えているのです。少なくともピグー(ケインズの師匠)の頃には、新古典派経済学は、自由放任主義から大きく乖離しております。あなたは、先ずはそこから勉強をし直して下さい。話は、それからです。
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