日本経済

2019年5月10日

【施 光恒】令和と「日本語のこころ」

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

おっはようございまーす(^_^)/「令和」が始まりましたね。

前回のメルマガで、私は「「美しい調和」の時代へ」という文章を書きました。

「令和」とは、外務省の対外的説明によれば「beautiful harmony」、つまり「美しい調和」を表すそうです。「令和」時代は、その理念を国内的にも国際的にも実現するような時代にするよう努めたいものだというような内容です。

「令和」の典拠は万葉集ですが、それも「美しい調和」を表していますよね。私は、もうだいぶ以前の本メルマガですが、評論家の故・渡部昇一氏の議論を引きつつ、次のような文章を書いたことがあります。

【施 光恒】「日本の平等」(『「新」経世済民新聞』2013年2月22日)
https://38news.jp/archives/01383

渡部氏は、『日本語のこころ』(講談社現代新書、1974年)という著書の中で、日本文化には「和歌の前の平等」という感覚が伝統的にあるとかつて論じました。

西洋の平等観の基礎には、「神の前の平等」や「法の前の平等」といった理念があると言われます。他方、渡部氏によれば、日本人の平等の感覚の基礎にあるのは、神や法の前での平等ではなく「和歌の前の平等」です。

それがよく表れているのが万葉集です。万葉集には、皇族や貴族だけではなく、農民や防人や遊女の歌も収められています。

渡部氏は次のように書いています。少し長いですが引用します。

「……誰でもしっているように、『万葉集』全二十巻、長歌や短歌など合わせて約四千五百首、その作者たちは上は天皇、大氏族の長から、下は兵士、農民、乞食、遊女まで含み、男女の差別もない。地域的にいっても中央に限らず、東国、北陸、中国、九州の各地方にまたがっており、まごうことなき国民歌集である。

このように全国民が身分や性別に関係なく参加できるものとしては、近代になっての選挙、あるいは義務教育による学校制度ぐらいのものであろう。その選挙ですら最初は貴族や上流階級にしか参加権はなく、国民一般に及んだのは十九世紀末、しかも女性に及んだのは第一次大戦後である。日本では第二次大戦後である。そこでようやく「法の前に平等」ということから、女性も投票や立候補ができるようになった。

しかし八世紀の『万葉集』には下層階級の女性も参加しているのだから、これはどうしても日本人は「和歌の前に平等」であると言わなければなるまい」(同書、50頁)。

渡部氏は、『日本語のこころ』のなかでさらに興味深い点についても触れています。
万葉集も、それよりも時代が後になりますが古今集などの勅撰和歌集も、ほぼ大和言葉だけで書かれています。外来語である漢語はほとんど出てこないのです。

古今集の時代(おそらく万葉集の時代も)、当時の貴族などの上層階級には、漢文の素養のある人々はたくさんいました。

例えば、小野篁(おののたかむら、802~853年)は、当代きっての漢学者として知られた人物でした。もちろん、漢詩もたくさん残しています。

ですが、古今集に収められている小野篁の和歌にはやはり漢語はひとつもでてこないのです。例えば、以下の歌です。

花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香をだににほへ 人の知るべく
(白い梅の花は雪にまじって見分けがつかないけれども、香りだけでも放ってほしいものだ、どこに咲いているかわかるように)

渡部氏は、このような和歌は当時の上層階級、知識階級の者たちだけではなく、一般庶民でも(たとえ文字の読めない人々であっても)、わかったのではないかと指摘しています。漢籍に通じた学者でも、和歌には漢語を使わなかったというのは、日本人ならだれでもわかるということを重視したからではないかと述べるのです。

私もそうではないかと思います。古今集のような勅撰和歌集、あるいは万葉集のような和歌集が編纂されたのは、やはり当時の日本の人々の連帯意識の表明という側面があったのではないでしょうか。

つまり、貴族だろうが、庶民だろうが、大和言葉を話す我々は、皆、仲間である。身分の差、貧富の差、男女の別などがあったとしても、もののあはれを知るという根本的な面では、同じなのである。そういういわば国民的連帯の表明が、万葉集には込められていたのでしょう。

ちなみに、小野篁の上記の歌は、約1200年も後の時代に生きる私にもわかります。おそらく、中学生以上ぐらいであれば、現代の日本人のほとんどの人がわかるでしょう。大和言葉を用いた和歌は、世代を超える力を持つと言えます。世代を超えた連帯の表明でもあるといえるかもしれません。

「上級国民」「老害」といった国民の分断、世代の分断を表す嫌な言葉が最近、よく使われるようになっています。

「令和」は、こういう言葉が生まれてこないまさに「美しい調和」が日本で回復される時代になってほしいものです。

長々と失礼しますた…
<(_ _)>

<施 光恒からのお知らせ>
3月27日に自民党の安藤裕衆議院議員を中心とする「日本の未来を考える勉強会」で「ポストグローバル化に向かう世界とナショナリズムの意義」というタイトルで講演させていただきました。

そのときの動画がyoutubeにアップロードされていますので、よろしければご覧ください。今回のメルマガで言及した「グローバル化」の不公正さや、平成時代に日本企業がいかに変質したかなどについても話しています。
https://www.youtube.com/watch?v=helG4ohheTM

 

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【施 光恒】令和と「日本語のこころ」への3件のコメント

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  2. たかゆき より

    万葉集と やまとごころ

    言葉が先か 心が先か なら

    言葉が 先

    万葉仮名(漢字)から女手(ひらかな)が形成される過程で 

    やまとごころ が 芽生えてきた

    という説に小生は 与するもので ございます

    ちなみに いまの 日本

    義務教育過程において

    記紀を教えない風土に

    「やまと」ごころ など

    芽生えるわけが ない

    という意見にも

    小生は与するもので ございます ♪

    返信

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  3. 神奈川県skatou より

    さいきん石平氏の論語の本を読み始めました。

    とても腑に落ちる、つまり自分の感性にある、論語の断片が、とってつけでない、とても自然なものであると(自分で思っていることと)、符号しているように思っています。

    学校では漢文もそうですが、古文も習っていて、もののあはれ、をかし、など、言葉を知ると、くっきりと自分のなかに引き継いでいるなにかが輪郭をもって落ち着く心持になります。

    そんな教育があった恵まれた時代、世代があったと、後世の方が嘆かないで済むよう、今の教育改革なるものを見据えたいものですね。

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