From 小浜逸郎@評論家/国士舘大学客員教授
今年もノーベル賞が決まりました。
巷では、日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が
受賞したというので評判になっています。
それは結構なことですが、
残念ながら自然科学部門では、
日本人受賞者がいませんでした。
この数年、物理学賞、化学賞、医学・生理学賞で
矢継ぎ早に日本人が受賞してきました。
ところが今年はゼロ。
ちなみに自然科学部門以外のノーベル賞は、
受賞した方や団体には失礼ですが、
あまりその価値が信用できません。
人文系は基準があやふやだからです。
特に平和賞はいいかげんですね。
でも自然科学部門では、かなり信用がおけます。
ところで、21世紀に入ってからの日本人受賞者は
自然科学部門で16人もいます。
毎年一人の割合ですね。
この人たちの受賞時の年齢を調べてその平均を出してみました。
すると、68歳と出ました。
これから、いささか悲観的な予測を述べます。
どの分野であれ人間が一番活躍するのは、
30代から50代にかけてでしょう。
日本のノーベル賞受賞者の方たちが研究に一心に打ち込んだのも、
おそらくこの年代だったと思われます。
ですからこの方たちがわき目もふらずに、
寝る間も惜しんで研究に没頭したのは、
おおよそ1970年代から2000年代初頭くらいと
いうことになります。
もちろん受賞時の年齢には相当なばらつきがありますので、
若くして受賞し、いまなお活躍されている方もいます。
しかし平均的にはそうだと思うのです。
ところで言うまでもないことですが、
長年研究に没頭するには膨大な研究費が要ります。
企業研究の場合は応用研究ですから、
その費用は企業がもってくれるでしょう。
しかしノーベル賞を受賞するような研究は、
多くの場合、大学や研究所に身を置いた基礎研究です。
すると、研究費を大学の研究資金や政府の補助金に
頼ることになります。
先ほど述べた1970年代から2000年代初頭という時期は、
日本が今日のような深刻な不況に陥っていない時期で、
間には、一億総中流のバブル期もありました。
調べてみますと、それ以後の失われた二十年の間に、
科学技術研究費の総額はそれほど減っているわけではありません。
しかし文科省の「科学技術関係予算等に関する資料」(平成26年)の
「主要国等の政府負担研究費割合の推移」
および「主要国等の基礎研究費割合の推移」
というグラフを見てください。
八十年代初頭から、前者は下がり気味、後者はずっと横ばいです。
しかも他の先進国と比べるとたいへん低いことがわかります(前者では最低)。
このことは、政府が、
国家的な基礎研究にろくに投資してこなかったことを意味します。
それでも好景気の時は、民間や大学の資金がある程度潤沢だったのでしょう。
上の資料は2013年までのものですが、
その後、消費増税などもあり、デフレが深刻化しました。
内閣府が出している「科学技術関係予算」という資料の、
「【参考】科学技術関係予算の推移」というグラフを見ますと、
安倍政権成立以降、この予算がさらに削られていることがわかります。
大学でも、すぐ実用に適さない研究はどんどん削られる傾向にあります。
こうした傾向が続く限り、もう今後日本からは、
自然科学部門でのノーベル賞受賞者は出ないのではないか。
そう危惧せざるを得ないのです。
筆者は去る9月18日にある情報に触れ、愕然としました。
ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんが、
「ご支援のお願い」として寄付を募っているのです。
それだけならさほど驚きませんが、何と次のように書かれていました。
「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は、
9割以上が非正規雇用です。
これは、研究所の財源のほとんどが期限付きであることによるものです。」
とっさに「財務省よ! 竹中よ!」と、怒りがこみ上げてきました。
単年度会計、短期決戦での利益最大化。
長期的な見通しや雇用の安定など知ったことではない。
ノーベル賞級の基礎研究までが、この風潮の犠牲となっているのです。
こういう状態がこのまま続くと、日本の科学技術は、
確実に世界に遅れを取ってしまうでしょう。
寄付に頼るというのはやむを得ない手段と言えますが、
そこにばかり依存してしまうようになるとしたら切ない話です。
国民経済の立場からは、政府の間違った経済政策に対して
もっともっと怒りの声を発するべきなのです。
【小浜逸郎からのお知らせ】
●11月12日(日)、14:00より、ルノアール新宿区役所横店で、哲学者・竹田青嗣氏との公開対談を行います。
テーマは、「グローバリズムとナショナリズムのはざまで」
詳しくは、以下。
https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai
●『表現者』連載「誤解された思想家たち第28回──吉田松陰」
(10月16日発売予定)
●ブログ「小浜逸郎・ことばの闘い」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
●来年は明治150年です。これを期して、いま、『福沢諭吉の闘い方』(仮)という本を書いています。まだだいぶ時間がかかりそうですが、なるべく早く書き上げます。どうぞご期待ください。
【小浜逸郎】日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?への5件のコメント
2017年10月12日 9:06 AM
水を撒かなければ種は芽を出さない、ならば種は、芽はあるのかというのも大事そうですが、むしろそれは過去の日本より可能性に満ちているかもしれない、と自分は直感しております。
(落合陽一先生という面白い人を見ていると、次世代に期待が持てます)
ちなみにサイエンスとは、日本ではいわゆる学者っぽいイメージですが、アメリカでは芸術的側面もあるのだと、とある人工知能研究者の老パイオニアから伺ったことがあります。
※落合先生はアーティストでなくサイエンティストです
ノーベル賞まで行きませんが、大企業の研究所でも同様に悲惨な状態で、独立採算制とまでは言わないまでも、カネになる商品を生む研究でないと企画自体、取り組みにくくなっている状況です。
山中先生がご支援のお願いを一般公募されるのはずいぶんな状況です。つまり企業が出さないということですから、法人減税して彼らの所得を増やす意味があるのか大変疑問であり、増税して国がカネの再分配を調整すべきと思います。
どこまでもカネ、カネ、カネ。(負債記録?負債記録?負債記録?)
より安いものからより良いものへ人々が求める時代にならないと、どうにもならないです。
ちなみに自分は未来の商品開発みたいな取り組みの部署にいますが、カネ至上主義勢力が強くなり、もはや根腐れしつつあります。
デフレ不景気は社会の根幹までダメにするように思われます。
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2017年10月12日 7:14 PM
お示しくださったデータに改めて戦慄を覚えつつ、別の角度から補足を試みたい。
数学者・藤原正彦さんは相当以前から日本の基礎研究、科学技術の将来を心配されていた。小学生英語必修化にみられる国語軽視=祖国軽視の流行は、今後おそらく自然科学分野に深刻な影を落とすことになるだろう、なぜなら、端正な合理によって成り立つと思われている科学は、寅彦や宇吉郎らの大先達を持ち出すまでもなく情緒の所産であり、その情緒は国語によってこそ涵養されるものだからだ、というのが古典を重んじ「祖国とは国語なり」と説く藤原さんの主旨だったように思う。
確かに人文系の選出基準があやふやで不信が拭えないけれども、今年の文学賞は日本人にとって暗い予言を含んで示唆的だったのではないだろうか。どちらも文学的普遍性を追求する世界的人気小説家で、ひたすら出自を薄めることに労を費やしてきたようにみえる村上春樹が今年もファン・業界恒例の狂騒で終わり、82年の処女作以来ひたすら出自を求め続けて来た日系英国人カズオ・イシグロが選ばれる。
こんにち我が国が選択した方位、自然科学研究伸展を占う上で、藤原さんの警告からイシグロの受賞まで一直線に結びついているように思われ、何とも不気味に思われてならない。
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2017年10月13日 12:48 AM
山中先生のされている研究は人類にとってとてつもない価値を生み出す上に、直近の巨大な利益を生み出しうる可能性が高い研究です。その分野でノーベル賞までとって有名になったにもかかわらずこの惨状です。これは現代日本人が大好きな目先の利益優先の自滅投資理論ですら適応されてはいない状況でしょう。
これはこれに普通にしっかりと予算をつけて投資してしまうと日本に莫大な技術利益を奪われてしまうから限界まで投資を絞っているのでしょう。
少し考えれば分かりますがこの分野の技術革新はとてつもない利益や可能性を秘めている重要分野です。そこで日本人に先を行かれるとまずいと考えるのはアメリカやシナその他の隣国も先進国もすべてです。日本の場合は先に見つけた技術も何もすべてアメリカ様に献上しそうなものですが山中さん自身は志がしっかりしている人ですから簡単には捻じ曲げられないでしょうし。
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2017年10月13日 6:37 PM
ここ何十年か、経済効率だけを追求する風潮が続いています。中長期的な国家目標など、眼中におかずひたすら目先の利益を優先してきました。
始末がわるいのは、それが正しいことだとおもわれてきたことです。直ぐに結果のでないもの、短期的に見て効果のないもの、そういうものが、無駄なこととして切り捨てられてきました。
例えば大阪の橋下徹などは、その典型で非効率なものは、切り捨てていけば、それで済むという考えでした。その親分筋が、竹中平蔵です。その結果、今の大阪はどうなっているか。相変わらず低迷しています。底上げをしないのですから、地力が付かないのです。
以前に大学の文学部廃止論がありました。文学など実際の役にはたたないから、やめてしまえという乱暴なものでした。上述した経済効率最優先の愚かな思考の結果です。
そもそも学問というものは、人文、科学を問わず直ぐに結果のでるようなものでは有りません。孜孜営営と研鑽を積んではじめて結果のでるものです。科学研究も豊かな人文的な土壌があって花が咲くものです。
この国の為政者は、全く倒錯しています。国を豊かにしようとするなら、目先の利益に捉われず、一見非効率に見えるかもしれない、或いは無駄な思える様なことでも、将来的に有用であるなら、そういう事こそ、投資するべきではないか。
早く、竹中平蔵的なものを、日本から放逐しなければなりません。
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