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2024年7月12日

【竹村公太郎】江戸、近代そして未来のエネルギー戦略(その2) ―江戸文明崩壊の絶壁―

江戸繁栄のエネルギー体制 

文明の興亡はいつも
エネルギーと結び付いていた。
最古の文明のメソポタミヤ文明は
人類最初の物語
「ギルガメッシュ叙事詩」
を生みだした。
その物語は、
人間が森を伐採するために
森を守る妖怪を倒す
というものであった。

人類とエネルギーの葛藤は
時空間を隔ても変わりはない。
日本の文明も全く同じであった。

1603年、征夷大将軍となった家康が、
京都を背にして江戸に戻ったのは、
膨大な未開の森林を求めたからであった。
家康は関東の森林のみではなく
日本全土のエネルギー戦略を立てた。

戦国時代、
禿山となった関西を見ていた家康は、
関東には利根川や
荒川流域があったとはいえ
油断しなかった。
江戸で木材を消費し続ければ、
関東の森林はいつかは消失する。
関東の森林の枯渇は
江戸幕府の衰退を招く。

家康は日本列島全土の
エネルギー覇権の戦略を立てた。
全国の主要な山林地帯を
「天領」とした。
筑後川、吉野川、紀ノ川、木曽川などの
上流域を直轄領として、
山間部を管理する体制を敷いた。
特に重要な紀ノ川には、
御三家の紀伊・徳川が構えた。
木曽川には尾張・徳川が構えた。

さらに、日本列島全土の
森林木材を収集するシステム
「水運」も構築した。
日本海側の北海道から大坂、
江戸への北前船ルートを確立し、
太平洋側の仙台から
江戸へのルートを誕生させ発展させた。

(図―1)が江戸時代の
日本列島の水運地図である。

全国の各地の物産はもちろん、
全国の山々で伐採された木材が、
船底に積まれて次々と江戸へ注入されていった。

 

膨張する江戸文明

徳川家康が150年の戦国の世を制し、
江戸幕府の統治が進んだ。

三代将軍家光は鎖国を大名たちに強いた。
この鎖国によって、
日本人の力は外へ向わず、
国内の国土開発へ向った。
各地で河川改修が行われ、
雨のたびに水が溢れていた湿地は
農耕地へと生まれ変わり、
干潟は埋め立てられ
新田となっていった。

新たな耕作地が3.5倍になり
米の収穫が上がると、
1200万人だった人口は、
江戸中期には3000万人に膨れ上がった。
江戸文明の急激な膨張であった。

(図―2)は、農地と人口の増加で
文明の膨張を示している。

日本の人口が
3000万人に急増しただけでない。
大消費都市・江戸も
爆発的に膨張していった。
全国からの流入が続き、
江戸中期には50万人を越え、
1800年代には100万人を超す
世界最大の都市となっていた。

江戸文明の規模が
拡大しただけではなかった。
江戸時代の物流、
交流も膨れ上がった。

 

交流規模の拡大

徳川家光以後、
300諸侯といわれる大名たちは、
2年ごとに江戸と国許を往復する
参勤交代を強いられた。
何百人という規模の大名行列や
お伊勢参りの民衆が、
街道をひっきりなしに移動していた。

(図―3)は、10万石クラスの
備後国福山の阿部藩の大名行列であり、
100万石クラスの大名は
千人を超える規模となった。

宿場では旅人たちが風呂に入り、
暖を取り、朝夕の食事を摂った。
宿場町は燃料の大消費地となった。
食材は旅の途中で入手できたが、
燃料の木は重たくてかさばる。
そのため、節約する旅人が自炊する宿も、
燃料の薪(たきぎ)は宿主が旅人へ売った。
安宿の代名詞「木賃宿(きちんやど)」も
ここからきた。

江戸の文明規模、
特に江戸の膨張と交流の膨張には、
多くの食糧と燃料が必要であった。
食糧は新田開発でどうにか対応できた。
しかし、燃料の森林を
簡単に増すわけにはいかない。
燃料を海外から注入しなかった
鎖国下の日本社会は
森林を次々と伐採する以外になかった。

文明が膨張して、その規模が
エネルギー供給能力を超えれば、
いつかエネルギーは枯渇していく。
日本文明の膨張は
森林の再生限界を超え、
森林の衰退を招いていった。

森林の衰退は、
それほど遅くはなかった。
江戸中期には
その森林の衰退は始まっていた。

 

文明拡大と森林伐採

天竜川流域の下伊那地域は、
豊かな森林地帯であった。
徳川家康は天下を取ると、
この地を支配していた
豊臣勢を他所に移封させた。
天竜川流域を徳川幕府の天領とした。

天竜川流域は、
江戸への木材供給の
第一級の基地となった。
この天竜川の木材供給のデータを、
米国歴史家のコンラッド・タットマンは
「日本人はどのように森をつくってきたか」
(築地書房1998年)
で記載している。

それによると、1600年代から
天竜川の木材は供給されている。
1680年には木材供給量は
16万本であったが、
1700年には33万本の
ピークを示している。
その後、1720年には23万本に減じ、
1750年には4万本へ激減し、
1770年には1万本にも達していない。
それ以降、江戸後期には、
天竜川からの木材供給の記録は消えている。

(図―4)でその変遷を示した。

 

広重の記録                                  

本連載の第1回で
江戸繁栄の秘密を広重の
「大橋あたけの夕立」で述べた。

(図―5)が、
その「大橋あたけの夕立」である。

この絵の激しい夕立に目を奪われて、
つい見落としてしまうのが
遠くの川面を進むタンカーである。
もちろん、大川を行くのは、
タンカーではない。
筏(いかだ)である。


広重は江戸繁栄を表す絵として
(図―6)も描いている。
凄まじい木材が毎日、
毎日江戸に注入されていった。

注入された木々は
燃料だけに使用されたのではない。
船、住居、農具と
多くの材料として使用された。


北斎は(図-7)で
製材している作業現場を描いている。
この絵の奥に描かれている
江戸の町並みは全て木材であった。

しかし、木々だけに頼っていた日本は、
森林枯渇という事態に
追い詰められていった。

広重はその江戸時代の
エネルギー危機も記録していた。

 

東海道五十三次・二川(ふたがわ)

東海道新幹線は
「海」が付く名前なのに、
海をしっかり見られる場所は
浜名湖だけだ。
この浜名湖の広い清々した光景は、
東海道新幹線の貴重な光景だ。

東京から名古屋に向かって
浜名湖を過ぎると、
愛知県の三河に入り
渥美半島の根元の台地を走って行く。
緑豊かな二川(ふたがわ)
あたりを過ぎ去り、
新幹線は豊橋の市街地を抜け
名古屋に向ってスピードを上げて行く。

広重はこの三河の二川で、
おかしな光景を描いている。

広重の東海道五十三次は
面白い場面が多いが、
特に33番目の二川宿は印象深い。

(図―8)が、
東海道五十三次の
「二川・猿ヶ馬場」である。

名物の柏餅の茶屋の前を
3人の瞽女(ごぜ)が行く。
瞽女(ごぜ)とは、
三味線を弾いて各地を巡る
盲目の女性たちのことである。

三人の瞽女(ごぜ)たちが
三者三様に描かれ、
おしゃべりをしながら
楽しそうに歩いている。
社会的弱者がこのように
屈託なく旅をしていた。
日本は何と治安のよい国であったのか
と感心してしまう。

しかし、この絵はなにか変だ。
見ていて落ち着かない。
長い間それに気が付かなかったが、
背景に描かれた二川の
異常な光景であった。
絵の背景はポツンポツンと
背の低い松が生えているだけだ。こ
の荒涼とした光景は、
現在の三河の
緑豊かな姿とは天と地の差がある。

 

荒涼とした東海道の山々

二川の絵に気が付いて、
改めて広重の東海道五十三次の
背景に注意を払って見ると、
荒涼と描かれた場所は二川だけではない。
神奈川、保土ヶ谷、平塚、大磯、
小田原、箱根、岡部、大井川、舞坂、
日坂、白須賀などの山も丘もみな
パラパラと松の木が生えているだけである。
松の木は灯火のための
松脂(まつやに)が獲れたので、
松の木を切るのはタブーであった。

26番目の日坂宿の中山峠などは、
極端な禿山となっている。
二川は本陣がある宿場町だったので、
原っぱは馬場としても利用できただろう。
しかし、中山峠などは
単に荒廃した山でしかない。

(図―9)が、
東海道五十三次の
26番目の日坂の中山峠である。

21世紀の現在、
東海道新幹線から見る山は、
どこも鬱蒼(うっそう)と
緑が茂っている。
ゴルフ場以外に原っぱなどない。
ゴツゴツした岩肌もない。
広重が中山峠の険しさを誇張して
岩肌を描いたなら分かる。
しかし、東海道をこのように描いたのは、
誇張にしては異常である。
広重が描いた江戸末期の東海道は
松の木がところどころに残された
貧相な風景が広がっていたのである。

 

日本列島の森林荒廃

江戸末期、日本列島の山々の
丘の木々は伐採され、
無惨な姿をさらしていた。
森林を伐採し尽くすと
斜面は大雨のたびに侵食され、
栄養分の表層土壌は流れ去り、
山々の回復力は失われ荒廃していった。

厳しく管理された天領の天竜川でさえ、
森林の衰退と山地の荒廃を招いた。
ましてや、天領でない土地や街道筋は
次から次へと伐採され、
山々は禿山となっていった。

後に、鎖国が解け
神戸港に入港した外国人たちは、
六甲の禿げ山の凄まじい光景に
息を呑んだと伝わっている。
それは神戸の山々だけではなかった。
九州、四国、中国、近畿、
中部、関東、北陸、東北と
あらゆるところで、森林は伐採され、
山の斜面は崩壊し、
土石流となって流失していった。

明治に入り、
オランダから土木技術者たちが
治水指導で来日した。
彼らが指摘したことは、
まず山の土砂流出を
止めることであった。
そのために、砂防ダムを建設し、
斜面崩壊を防止する治山工事を行う。
その指導は全国各地で
繰り返し行われた。

(写真―1)は
滋賀県大津市の
大正年代の治山事業である。

実は、日本史が大きく転換するときには、
いつも森林消失という事態が
深く関わっていた。

8世紀末、
奈良盆地は森林を失ったため、
桓武天皇は平城京から
淀川流域の平安京へ遷都した。

17世紀初頭、西日本一帯の森林は
消失していたため、
徳川家康は関西を背にして、
広大な森林を持つ
利根川の江戸に幕府を開いた。

日本文明は、森林消失の危機に
都を移すことで
どうにか凌(しの)いできた。

江戸末期、日本列島の
全体の森林が荒廃してしまった。
そのため、日本文明は
日本列島の中で
都を移す得意技を封じられていた。

日本文明はエネルギーの枯渇という
絶体絶命の崖淵に立たされていた。

日本文明崩壊の危機、
この危機を救う救世主が登場した。

黒船であった。

(つづく)

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【竹村公太郎】江戸、近代そして未来のエネルギー戦略(その2) ―江戸文明崩壊の絶壁―への1件のコメント

  1. 日本列島の より

    森林荒廃は いまだに継続中

    太陽光発電による 樹木の伐採がまさにそれ・・

    山肌を覆う醜悪なパネル、、
    そのパネルにもいずれは寿命が訪れる

    はたしてその時 どなたが どのように
    山積する毒物の塊を処理なさるのか、、、

    後は野となれ山となれとばかりに
    捨てて逃げられる状況を想像すると

    軽い眩暈を覚える今日この頃

    たたなづく パネル 山壊れる 倭し 危うし

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