日本のエネルギー自給率は
10%程度である。
人類文明の誕生と衰退は
エネルギーで語ることができる。
メソポタミア文明以降の人類史をみれば、
エネルギー自給率10%の文明は存続できない。
文明存続の条件のエネルギーを
日本はどうするか。
20年前、江戸東京博物館で
水運の特集をしていた。
仕事を切り上げ閉館の1時間前に
江戸・東京博物館飛び込んだ。
ここで江戸のエネルギー事情を
強く意識する発見をした。
江戸東京博物館
江戸東京博物館へは、
何度も行っている。
そのたびに、
見る対象は異なっている。
江戸の町並みだけを見たり、
江戸図だけを見たり、
庶民の生活を知るためだけに行ったり、
江戸城の構造を見るためだけに
行ったこともあった。
この博物館は広い。
漫然と見て回るのではなく、
時々のテーマを絞って見るのがこつである。
その時は、江戸の舟に絞っていた。
実物の小舟や大型ジオラマでは
川面や運河に、膨大な舟が浮かんでいた。
舟運が江戸市民を支えていたことに
改めて実感した。
博物館では
特別企画展が開催されていた。
その日は広重展であった。
広重は何度も見ている。
今回は閉館が迫っていたので、
上の空で見ながら歩いて行った。
博物館の出口に広重の
「大橋あたけの夕立」があった。
この絵も何度も見ているので、
さっと通り過ぎようとした。
通り過ぎようとした瞬間、
私の目に船、それもタンカーが
飛び込んできた。
驚いて足を止めてしまった。
広重の代表作「大橋あたけの夕立」
(図―1)が広重の
「大橋あたけの夕立」である。
「大橋」は現在の「新大橋」である。
対岸には将軍の船を保管する御船蔵があり、
将軍の安宅丸にちなんで、
この地は安宅(あたけ)と呼ばれた。
広重の代表作とされているが、
長い間、何故この絵が
広重の代表作なのか分からなかった。
広重は多くの鮮やかで
愉快な絵を描いている。
しかし、この絵は暗い。
美術品の鑑識眼はないと諦めていたので、
広重を引用するたびに
「広重を美術品ではなく、
写真として見る」
と割り切っていた。
江戸東京博物館の
「大橋あたけの夕立」中に
タンカーを見たが、
大川を行くのは、タンカーではない。
筏(いかだ)である。
大川は隅田川とも呼ばれる
今の荒川である。
秩父の山々から切り出した木材を、
筏にして、江戸まで流してきた。
その日は、頭が舟で一杯だったので、
その筏をタンカーと見てしまった。
見れば見るほど、
夕立の中に霞んで描かれている筏は、
タンカーのようだ。
事実、この筏は江戸に向かう
タンカーであった。
やはり広重は
貴重な江戸のエネルギー写真を
撮って残してくれていた。
江戸へ帰った家康
1600年の関ヶ原の戦いに勝った
徳川家康は、
1603年に征夷大将軍に任命されると、
さっさと京都を離れ
江戸へ戻ってしまった。
関ケ原が終わったとはいえ、
当時、豊臣家は大坂城に構え、
背後には毛利家、島津家が控えていた。
家康は天下を完全に制してはいなかった。
家康が完全な天下制覇を狙うなら、
一歩ゆずっても、
中部東海地方に
拠点を置くべきであった。
しかし、家康はあえて東へ、
それも箱根を越えて、
さらに関東の東端の江戸まで
戻ってしまった。
権力の中枢の関西から見れば、
家康は、度し難い田舎へ
引き篭もってしまった。
いったい、何故、
家康は江戸に帰ったのか?
この関東の地は、
エネルギーで大きな可能性を秘めていた。
家康は関東に
エネルギーの未来を見ていた。
エネルギーは森林であった。
関西の限界と未開の関東
米国の歴史学者
コンラッド・タットマンが作製した
「記念構造物のための木材伐採圏の変遷」
がある。
(図―2)がその図である。
寺社仏閣の建造物を建築するとき、
建造物の主要部材のため
巨木を伐採する。
その巨木の伐採場所は、
寺社や旧家に保存されている
縁起や古文書で特定できる。
それを丹念に調査し
作成した貴重な図である。
(「日本人はどのように森をつくってきたか」築地書房)
この図によれば、
平安遷都の西暦800年頃の伐採圏は、
奈良盆地から淀川流域に重なっている。
さらに、
戦国時代から安土桃山時代の頃には、
伐採圏は近畿地方から中部、
中国、四国へと一気に拡大している。
巨木が切り出されると、
その後、人々が山に入り込み、
建材用や燃料用に立木を伐採していく。
人々は立木がなくなるまで伐採し、
森林は消失していく。
平安遷都から
800年間が経った戦国時代、
関西圏の森林再生能力を
はるかに超えていた。
戦国時代、大名たちは
次々と壮大な城を築き、
戦闘用の砦を造っては、
戦いで燃やしていた。
秀吉は天下を取ると、
全国の大名に木材の提供を求めたと
伝わっている。
そのことからも、関西では
森林が消失していたことが理解できる。
家康は戦国の世を戦いながら、
関西の森林の荒廃を眼にしていた。
関ケ原から10年遡る1590年、
秀吉は北条氏の小田原城を開城させた。
その年、秀吉は家康を、
小田原よりさらに東の江戸へ
移封させられた。
湿地に囲まれた
江戸に移封された仕打ちに
家康の武将達は
激怒したと伝わっている。
しかし、家康は武将たちをなだめ、
鷹狩と称して関東中を
歩き回わりだした。
その中で、利根川、渡良瀬川そして
荒川流域の手付かずの森林を目撃していた。
緑が目に染みる森林の関東は
腰を据える拠点としてふさわしかった。
フィールドワーカーの家康は
日本最大の油田を発見したといえる。
1603年、征夷大将軍となった家康が、
京都を背にして江戸に戻ったのは、
文明存続に不可欠なエネルギー面からみれば
必然であった。
家康はこの関東の森林のみではなく
日本全土のエネルギー戦略を立てていった。
家康のエネルギー全国戦略
木々が伐採され、
禿山となった関西を見ていた家康は、
利根川や荒川流域があったとはいえ
油断しなかった。
江戸で木材を消費し続ければ、
関東の森林はいつかは消失する。
関東の森林の枯渇は
江戸幕府の衰退を招く。
家康は日本列島全土の
エネルギー覇権の戦略を立てた。
全国の主要な山林地帯を「天領」とした。
筑後川、吉野川、紀ノ川、木曽川などの
上流域を直轄領として、
山間部を管理する体制を敷いた。
特に重要な紀ノ川には、
御三家の紀伊・徳川が構えた。
木曽川には尾張・徳川が構えた。
(図―3)は江戸幕府が森林を管轄した
主要な河川流域。
これら天領の山間部には、
金銀銅などの鉱物資源と、
豊富な森林エネルギー資源が存在した。
木々を勝手に伐採することは許されず、
伐採は管理され
計画的に行われることとなった。
さらに、徳川幕府は
日本列島全土のエネルギーを
収集するシステムも確立した。
江戸への集積システム
全国のエネルギーを
江戸へ集積させるシステムは
「水運」であった。
日本海側の北海道から東北、
下関、瀬戸内海、大坂の
北前船ルートが確立し、
太平洋側の仙台から銚子、
利根川、江戸へのルートが誕生し、
発展していった。
全国の各地の物産はもちろん、
山々で伐採された木材が船底に積まれ、
次々と江戸に集積された。日
本列島全土のエネルギーが、
江戸へ集積される
システムが形成された。
(図―4)は広重が描いてくれた
江戸と往来する多くの船である。
18世紀、19世紀を通して、
江戸は世界最大の100万都市へと
発展していった。
毎日、毎日、全国各地から、
江戸にエネルギーが注入され続けた。
広重の大橋の夕立に描かれている筏は、
やはり、タンカーであった。
秩父の山地から切り出された
森林エネルギーのタンカーであった。
21世紀の現代、
中近東から毎日運び込まれる
石油タンカーと同じである。
中近東から石油・天然ガスが
東京に注入されるように、
江戸時代、日本各地から
膨大な森林エネルギーが
江戸に注入された。
江戸は大量のエネルギーを飲み込む、
貪欲な大都会であった。
その江戸が飲み込むエネルギーを、
広重は、この夕立に霞む隅田川に描いていた。
森林エネルギーによって
江戸は世界一の巨大都市を謳歌していった。
しかし江戸開府から260年後、
幕末の日本は
文明滅亡の断崖絶壁に立っていた。
(つづく)
【竹村公太郎】江戸、近代そして未来のエネルギー戦略(その1) ―江戸繁栄のエネルギー―への1件のコメント
2024年6月8日 11:24 AM
筏がタンカーに空目とか
かなり無理のある書き出しだなと思ったら、
みごと帰結が整ったのでさすがというかホッとした。
でも、自分なら「この絵の筏は今日でいうところの
タンカーなのである」と最初に言いきってしまう。
その方が親切かと。いやまことに僭越で恐縮ですが。
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