共同体とは言語を共有する人々の集団である。文明とは共同体の人々の営みである。
日本列島に住む人々は古より言語を共有していた。古より日本列島に住む人々は共同体を形成し、文明を誕生していった。
古とは桓武天皇にさかのぼる。その桓武天皇の物語は日本列島の地形に深くかかわっていく。
奈良盆地からの脱出
奈良盆地は、文明が誕生するすべてのインフラつまり、安全、水、エネルギー、そして水運を備えていた。
更に、奈良盆地は文明を膨張させるエンジンも持っていた。豪雨と土砂崩れという自然の力を利用した新規開田が、奈良盆地で展開されていった。
その天国のような奈良から桓武天皇は脱出することとなった。西暦784年、桓武天皇は奈良盆地から出て長岡京に遷都した。いったい何が桓武天皇を奈良盆地からの脱出に駆り立てたのか。
桓武天皇が平城京から遷都した理由は、歴史家のあいだでも諸説ある。一つは、天智天皇系だった桓武天皇は、天武天皇系の奈良から離れたかった。一つは、藤原一族などの貴族の影響から離れたかった。一つは、道鏡など仏教の影響力を弱めたかった、などである。
人文系の歴史の論点は幅広い。政治、経済、法律、宗教、美術、心理そして文化と多岐にわたる。歴史の解釈は専門家の数だけあり、論議は果てしなく続いていく。歴史がHis- Story(彼の物語)と云われる所以であり歴史の面白さである。
私は土木技術者である。そのため、桓武天皇の遷都の理由もインフラの観点から物語を述べていく。
奈良盆地の地形は、全周を緑に囲まれ、中央に大きな湖を抱いていた。奈良盆地は、安全、森林、水資源そして水運に恵まれていた。奈良盆地の「地形」が、奈良文明を誕生させた。その同じ「地形」の理由で、奈良は捨てられることとなった。
飛鳥京、藤原京そして平城京を誕生させた恵みの奈良盆地は、インフラからみると悲惨な呪いの地に変貌していた。
禿山の奈良盆地
故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では平城京の内外には10万人から15万人の人々が住んでいたという。当時で年間1人当たり最低10本の立木が必要だったと仮定すると、年間100万~150万本の立木が必要となる。
100~150本ではない、100~150万本である。モンスーン気候の日本の植生は生育が良い。しかし、それにも限度がある。年間100万本以上の立木伐採は、日本列島の森林の再生能力をはるかに超えていた。それが300年以上続けられたのではたまらない。
奈良盆地を囲む山々は、禿山となってしまった。
(図-1)は米国の歴史学者、コンラッド・タットマンによる日本の歴史的森林伐採の変遷である。
彼は全国の寺社仏閣に入り込み、縁起書物を調べ上げた。寺社の縁起書物には、その寺社の創建や大改築時の事柄が記録されている。その中には、どこで木材が伐採され、持ち込まれたかが記録されていた。その記録を年代ごとに図に表した貴重な資料である。
図の中央の濃い部分が、西暦800年までに森林が伐採した地方である。奈良時代には、紀伊半島から琵琶湖北岸まで森林伐採が行われていた。つまり、奈良盆地では木材が確保できなかった。奈良盆地の木々は伐採され尽くされ、周囲の山々は禿山になっていたのであった。
奈良盆地のインフラの崩壊
周囲の山々が禿山になってしまった奈良盆地は、厄介で危険な土地とへ変貌していった。
少しでも雨が降ると山々の土壌は流出し、斜面は次々と崩壊していった。山の保水力は失われ、あちらこちらで湧いていた清水は枯れていった。さらに、流出した土砂は湖を埋めていった。平らで水はけの悪い奈良盆地はますます水はけが悪くなり、雨のたびに家々や田畑は浸水してしまった。
人々の生活排水や排泄物は湖で澱み、疫病が慢性化していった。もちろん、土砂で埋まった湖で舟の行き来はままならなくなった。
奈良盆地のインフラは崩壊した。森林が失われ、水が枯れ、水害が多発し、疫病が蔓延し、舟の便が悪くなった。奈良盆地は地獄のような土地となり、この奈良盆地から脱出するのは必然であった。
長岡京への遷都
784年、桓武天皇は奈良盆地を後にした。遷都した先は、淀川三川と呼ばれる木津川、宇治川、桂川が合流する長岡京であった。
この淀川流域には奈良盆地で枯渇した森林資源が豊富にあった。なにしろ、淀川流域は奈良の大和川より8倍も大きい。
桓武天皇は、淀川の長岡京へ遷都した。それにはある理由があった。長岡京には巨椋池(おぐらいけ)が存在していた。
長岡京の大きな巨椋池は、奈良盆地にあった湖とそっくりだった。湖は舟運の便が良い。小舟でどこへでも行けた。桓武天皇にとってこの巨椋池の風景は、故郷の奈良盆地の湖の原風景であった。
桓武天皇はこの湖の原風景に誘われて長岡京へ遷都した。
しかし、この長岡京は途方もない落とし穴で人々を待ち構えていた。
長岡京遷都の失敗
巨椋池には木津川、宇治川そして桂川が流れ込んでいた。巨椋池は水運の便は良かったが、三川の洪水が流れ込む大氾濫地帯であった。
長岡京へ遷都して以降、長岡京は何度も洪水に襲われた。そのため、桓武天皇はたった10年で、長岡京から京都へ遷都せざるを得なかった。(図―2)で、淀川三川と長岡京の位置を示す。
一人の天皇が二度も遷都するなど日本史上で例がない。遷都は今でいえば何百憶円という費用が掛かる。日本だけではない、世界史を見ても、権力者が別荘を造ることはあっても、二度も都を移したなど聞いたことがない。
歴史家は、長岡京から京都への遷都を人間模様で説明していく。しかし、インフラの観点から見れば、桓武天皇の二度目の遷都の理由は明らかである。
桓武天皇は長岡京で、治水上の失敗を犯したのであった。
二度目の遷都、京都へ
京都は長岡京より標高が30mほど高く、木津川、宇治川そして桂川の大洪水に襲われる心配はなかった。京都の北側には山々が連なり、沢が流れ下り、湧水があり、飲み水は潤沢に得られた。東には鴨川が流れ、宇治川に合流していた。
京都と巨椋池を結ぶ鴨川は、強力達が引き舟をすれば、物資を運ぶ水運として機能した。
この京都は地形的に安全で便利であった。しかし、それだけではなかった。京都への遷都は日本文明の誕生の決定的な礎となった。
京都は日本列島の地形の中心であった。京都は日本列島の東西南北を結ぶ交流軸の要であった。
朝廷が京都に移ったから、京都が日本列島の中心になったのではない。古代より京都は日本列島の地理的、地形的の中心であった。
日本列島の情報の中心:京都
古代から日本列島を歩き続けた人々にとって、地形が造った自然の旧街道があった。それらの旧街道は全て京都に集中していた。
日本海側の海岸に漂着した人々が、東に向って歩いていくと島根、鳥取、兵庫そして福知山を通ると自然に京都にたどり着いた。山陰道である。
九州から瀬戸内海の陸路を東に向かって、下関から広島、岡山、兵庫と行くと、兵庫から大坂には行かず大阪をかすめて、自然と京都にたどり着いた。山陽道である。
和歌山から北上すると大坂に着き、その大阪から淀川を遡ると、自然と京都に着いた。南海道である。
西から来る人々は、皆、京都に着いた。京都に集まった人々は東へ向かうと、逢坂を越えて大津に出た。
大津から琵琶湖湖岸を北に向かうと、日本海側の福井、石川、富山そして新潟へ繋がった。北陸道であった。
大津から陸路を東に進み関ヶ原を越えると、山岳ルートとなり岐阜、長野、群馬、栃木そして福島、宮城の東北へと繋がった。東山道であった。
大津から米原を過ぎて南へ向かうと、海岸沿いの東海道となった。海路で太平洋を行くと、房総半島に上陸し、陸路を北上すると茨城、栃木となり東北に向かった。
これらの古道は、京都が都になる遥か以前の古代から、日本列島を行き来する人々の歩いた道であった。
(図―3)が京都を中心として形成されていた古道の方向を示す。
かつての古道は、21世紀の日本の鉄道と道路の動脈にもなっている。
情報の中心
日本列島の主たる旧街道が、地形的に自然と京都に集まっていた。
凸レンズは散漫な光を集め、焦点で一点に集めていく。京都は3,500kmの日本列島を歩く人々を、一点に集める地形のレンズの焦点だった。
近代の明治になるまで、一千年間、京都は日本の都であり続けた。日本の歴史は揺れ動いたが、焦点の京都の都は不動であった。
「都」であるための条件を、一つだけあげる。その条件は「情報」である。都が都であり続けるためには、情報の中心でなければならない。京都はまさに日本列島の情報の集中点であった。
列島を歩く人々は京都に向い、京都で集まり、京都で会話し、情報を得た。その人々は情報を持って、全国に散らばっていった。
細長い列島の山と海と川で分断されて生きていた人々は、言語と情報を共有することとなった。同じ言語で、同じ情報を共有する人々は、同じ共同体である。
同じ共同体の人々は、共同体のアイデンティティーを醸成していく。
極東の海に浮かぶ細長い列島に住む人々「日本人」が誕生していった。
地形と言語と共同体
メソポタミア文明、インダス文明そして黄河文明は、広大で拡張的で、外へ外へと広がっていく。日本列島のように、歩いていると自然と一ヶ所に集まるという焦点の地形はなかった。
外へ拡張していく文明では、情報は拡散していく。情報が拡散すれば人々は、異なる情報を持つ。異なった情報を持つ人々は、隣の共同体との差別化のため異なる言葉を話し始め、異なった文字を作り出していく。そして、人々は異なった共同体を形成していく。
英国が抜けたEU連合は南北の距離は日本と同じ約3,500㎞である。そのEUには26ヶ国が参加している。そのEU議会において公用語は23言語もある。ヨーロッパの地形は拡散している。人々は拡散し、情報も拡散し、言語は分裂していった。
ユーラシア文明の言語と共同体は、止めどもなく分裂する運命にあった。
京都は日本列島の地形の中心であった。情報が集まり、ここから列島に情報が広がっていった。京都は日本の都となる運命を背負った土地であった。
桓武天皇は、長岡京の遷都で治水上の大失敗をした。
桓武天皇は、二度目の遷都で、日本列島で生きる人々の共同体・アイデンティティーを醸成する都の創出に成功した。
【竹村公太郎】桓武天皇の失敗と成功―日本列島のアイデンティティー―への3件のコメント
2021年4月10日 2:03 PM
こうして考えると、大自然の恵みに感謝しつつ理不尽な現実に臆すること無く向き合われて対処なされた、ご先祖様の功績に改めて敬意と誇りを感じさせられます。
そこで思うのが、昨今の汚染水の海洋流出の是非についても農水省のトップにある野上浩太郞にしても、その上の菅義偉にしても大阪のバカげた口先集団にしろ、千葉の熊谷俊人にしろ名古屋の河村たかしにしろ結局奴等は、単なる【虎の威を駆る狐】状態で【碌でなしの分際】でしかない訳です。
つまりそこには日本民族の伝統から蓄積されたアイデンティティや誇りなどは微塵も無く、ただ単にその場しのぎで大口を叩くだけの虚像でしかないわけで、本当に困ったものです。
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2021年4月10日 6:24 PM
歴史を研究する人が様々な視点で解説されるので、時々混乱します。
確かに、水利の点から考えると、竹村先生の仰る通りのように思えます。
遺跡から考察される先生は、京の都の大規模な建造物はユダヤ系の人が造ったと言われます。
また、先日のTVで、その京の都の半分近くは洪水で人が住めなくなり、盗賊集団がバッコしていたと言っていました。
時代を一つのイメージで捉えがちですが、実際は様々な側面があり、日本の複雑な文化とマッチしているように思えます。
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2021年4月10日 7:13 PM
東京 遷都
京都じゃ ダメなんですか
どうして 江戸に いかなきゃ
いけない んで すか
とか、、
ちなみに 明治初期の 東京の写真
森 ありませんね、、、
明治神宮の森
作ろうとなさった 先人は
偉い てか、、
神域に 森がなければ
洒落に ならない もとい
神が 宿らない のだ ♪
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