コラム

2020年5月9日

【竹村公太郎】日本人の命の謎

From 竹村公太郎@元国土交通省/日本水フォーラム事務局長

2020年5月現在、人類は新型コロナ・ウィルスと懸命に戦っている。この中で台湾の対応が出色であり、世界中で評価されている。この台湾の優れた衛生水準は日本人が構築していた。
実は、その日本人は100年前に、私たち日本人の命の恩人でもあった。
本稿を、新型コロナ・ウィルスで亡くなった全ての人々に捧げます。

奇妙な図

今から20年以上前、「近代水道の普及が日本人の命に好影響を与えた」という仮説を立てて、データを調べていた。
(図―1)がその成果であった。

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図―1 上水道給水人口、人の平均寿命の推移

日本人の寿命と、水道の普及は良く相関が取れていた。日本人の寿命はどんどん伸び、今では世界でNO.1を誇る長寿大国となっている。仮説が成立した、と思い心の中で万歳をした。
しかし、この図には違和感があった。すぐその違和感には気が付いた。大正10年(1921年)に向けて、寿命が減少していた。
日本の近代水道は、明治20年(1887年)横浜市から開始された。その後、函館市、長崎市、大阪市、東京市、広島市そして神戸市と水道が次々と開設され、大正10年ごろには給水人口は、約1千人に達しようとしていた。
その水道が急速に普及していく明治末期から大正10年頃にかけて、寿命が低下している。さらに奇妙なことに、大正10年前後で最低値の42.7歳になり、その後は一転して急上昇し現在に至っている。なお、現在のアフリカの最貧国の寿命が50歳だから、100年前の日本人の寿命がいかに酷かったかが分かる。
この(図―1)の曲線で、明治から大正にかけて寿命が低下し続けている。この図に気が付いて、弾んだ気持ちは萎んでしまった。この図は公表することなく、机の中にお蔵入りとなった。

乳幼児の死亡率

大正10年頃に何かが起こった。日本人の寿命に決定的な影響を与えた事件があったはずだ。
国民の寿命は、乳幼児の死亡率に依存している。乳幼児の死亡数の統計を当たった。乳幼児の死亡率と日本人の寿命は、やはり密接な関係を持っていた。
(図―2)で、乳幼児の死亡率と平均寿命の曲線を重ねた。乳幼児の死亡率と平均寿命は見事に負の相関になっている。

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図―2 人の平均寿命、乳児死亡率の推移(人の平均寿命:10.7.3付日本経済新聞「経済教室」
乳児死亡率:厚生省「人口動態統計」)

乳幼児の死亡率だけでない。死亡の絶対数を見ても、明治末期から大正10年頃までは急速に増加し続けている。そして大正10年を境に、乳幼児の死亡は減少に転じている。単なる減少ではない、劇的に減少へ転じている。(図―3)が、乳幼児の死亡数の推移である。

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図―3 乳児(1歳未満)死亡数(厚生省「人口動態統計」)

この大正10年の変化点は、ただ事ではない。日本社会の保健衛生の歴史的な出来事があったはずだ。それを調べるため、当時の厚生省の図書館へ何度も足を運んだ。
しかし、図書館で調べた限り、大正10年前後に衛生行政で記憶されるべき出来事、医学界で記念されるべき画期的展開はなかった。あれほどの出来事なのに何も記録がなかった。
一体、大正10年ごろ、日本の乳幼児の命に何があったのか?
疑問が胸の奥底に沈んでいった。

謎が解け、また謎に

この1年後、その謎は偶然に解けた。
ある日、お台場へ家具を買いに行った。そこで偶然、東京都水道100周年記念展が開催されていた。時間つぶしでブラブラと見学をした。水道展は子供向けの軽いタッチの催し物であった。
しかし、あるプラントメーカーの展示で足が凍りついた。そこには水道の歴史年表パネルが架けられていた。その年表は、民間業界から見た100年の歴史であった。
大正10年のところに「東京市で水道の塩素殺菌が開始される」とあった。
大正10年に塩素滅菌が開始された!心臓が高鳴った。
「水道の塩素殺菌」これが、大正10年の謎の解だった。
水道水が塩素殺菌されて、安全になった。殺菌されない水は、危険極まりない。生水はさまざまな雑菌を含んでいる。大人は腹をこわす程度で済むが、体力のない乳幼児にとっては命の問題である。
明治後期、ドイツ人のローベルト・コッホが「感染症には、目には見えない微生物の細菌が関与している。」と主張した。1882年には結核菌を、その後コレラ菌を、ペスト菌を発見し、明治38年(1905年)コッホは、ノーベル生理・医学賞を受賞している。
北里柴三郎はコッホに師事し(独留学:1885年~1892年)細菌学を日本に紹介した。その後、世の中には多くの雑菌があり、水中にも雑菌がある知識は日本国内で広まっていった。
しかし、明治から大正10年までの間、雑菌を含んだ水は送り続けられていた。その期間は、30年以上にも及び、多くの乳幼児の命が奪われていった。それが(図―1)の大正10年までの寿命低下の曲線であった。水道は大正10年に塩素滅菌され、乳幼児の命は救われていった。
大正10年の謎は解けた。しかし、また次の疑問にぶつかった。
何故、大正10年まで塩素殺菌をしなかったのか。「細菌」という知識は、もう日本に入っていて、広まりつつあった。
何故、30年間も水道の生水は処理されず放置されていたのか。
また、謎を抱え込んでしまった。

ロシア革命と液体塩素

その2年後、ある会合で重化学メーカーのエンジニアと隣になった。大正10年の疑問を彼に話した。「どうして大正10年まで、水道水が塩素殺菌されなかったのか?」という謎である。
2週間後、その彼から郵便物が届いた。古い記録のコピーが入っていた。それは現・保土谷化学工業(株)(当時は(株)程谷曹達工場)の社史の写しであった。
その社史のコピーには、大正7年に「液体塩素が開発」されたことが記されていた。「シベリア出兵に際し、陸軍から毒ガス製造を依頼された。それに応じて液体塩素を開発した。しかし、シベリア出兵はすぐ終了してしまったので液体塩素の使い道がなくなった。これを民生利用として水道水の殺菌に転用することとなった。」という内容が、文語体で記されていた。
シベリア出兵は大正8年(1919年)に開始された。大正6年(1917年)にロシア革命が起きた。シベリア出兵の名目は、トロツキー率いるボルシェビキ革命赤軍と闘っていたチェコ軍団の救出であった。この出兵は皇帝側の白軍を押し立てて、満州鉄道と東部3州の支配を強めようとする狙いもあった。
当初はアメリカと共同で作戦を展開した。しかし、日本が本格的な3個師団7万人を投入したのを見て、アメリカは日本を警戒し始めた。結局アメリカはシベリア出兵に反対する立場を取るようになった。日本はアメリカの強硬な反対により、大正10年シベリアから撤兵せざるを得なくなり、大正11年には撤退を完了した。
このシベリア出兵の中で、液体塩素が生まれていた。

液体塩素の大変身

塩素ガスは猛毒である。戦争兵器として以前から注目されていた。ただし、塩素ガスは気体で扱いが難しい。ガスのままでは武器になりにくい。液体にすれば、性状は安定し、容量も小さく扱い易くなる。そのため液体塩素の開発が要求され、化学メーカーの(株)程谷曹達工場がそれに応えた。液体塩素の誕生であった。
ところが、このシベリア出兵はあっという間に終了した。液体塩素の製造プラントは無駄になった。程谷曹達の関係者は呆然としたにちがいない。しかし、最高の軍事秘密兵器として生まれた液体塩素が、水道水の殺菌という民生利用という活躍の場を得た。
軍事機密の液体塩素の大変身であった。これも不思議なことであった。
大正10年、陸軍がシベリア撤退と同時に間髪おかず、液体塩素が水道水の殺菌に転用されている。あまりにもタイミングが良い。まるで陸軍のシベリア撤退を待ちかまえていたかのようだ。
一見してきれいな水道水に、細菌病原体が存在している知識は、一般国民にも広まりつつあった。しかし、その細菌を的確に死滅させる方法を知っていたのは、生化学の最先端の高度な専門知識を持つ者だけであった。

最期の謎、いったい誰が

塩素は水の殺菌に有効である。しかし、塩素はガスのままだと取り扱いにくい。液体塩素なら容易に量を調節でき、水道水の殺菌を制御できる。
当時の日本でこの知識を持っている人物は半端ではない。
また、液体塩素の使用については、社会的な厳しい障壁があった。いくらシベリア出兵が終ったといっても、毒ガス兵器としての液体塩素は国家の最高機密であり、液体塩素は陸軍の厳しい監督下にあったはずだ。陸軍がシベリアから撤退するか、しないかの時に、その液体塩素が簡単に民生に転用されている。
一体誰が、どのようにして、この毒ガス兵器を民生に転用したのか?
これが最後の謎となった。
この謎は、手強かった。東京都の水道局に問い合わせた。しかし、そのような昔の話は相手にしてもらえなかった。防衛省の図書館に入り込んで、当時の陸軍内部の記録など見つけることなどできない。
大正10年に、水道水が塩素殺菌されたという事実。その殺菌用の液体塩素は、兵器として開発されたという事実。これらの事実に到達できたのは、まったく偶然だった。
もうこれ以上の偶然はない。謎解きはあきらめた。
当時の程谷曹達工場が、一生懸命に東京市へ液体塩素の売り込みをしたのだろう、と自分自身に対してお茶を濁していた。

細菌学者の政治家

その半年後、首都移転の資料を読んでいた。首都を議論する際には、どうしても後藤新平を避けて通れない。

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大正12年、帝都は未曾有の大地震に見舞われた。その年、帝都復興院総裁となったのが後藤新平であった。彼は震災後の壮大な東京復興計画を政府に提案したことで有名である。
何故、後籐新平が帝都復興院総裁に任命されたのかが納得いった。彼は大震災の3年前の大正9年、東京市長になっていた。
大正9年に東京市長になっていた!と言うことは、大正10年、東京市で最初に水道水を塩素殺菌したときの市長であったのか?事実そのとおり、後籐新平は東京市長であった。
さかのぼって後藤新平の経歴を追ってみた。後藤新平のあだ名が「大風呂敷」の通り、彼のイメージは奔放であった。台湾総督府民政長官や満鉄総裁時代に実行したインフラの整備が有名である。そのため、後藤新平の出身は法科か土木工学出身だと思い込んでいた。
彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、福島県須賀川医学校を卒業後、内務省衛生局に入っている。そこで彼は自費でドイツに留学している。自費でドイツへ行った目的は「コッホ研究所」で細菌の研究をすることであった。
後藤新平は世界最初の細菌研究を成し遂げた「コッホ研究所」へ行っていた。彼は医学博士号まで獲得している。当時の日本で北里柴三郎に並ぶ細菌学者であった。後籐新平の派手な活躍に目を奪われていたが、彼の人生の立脚点は細菌学であった。

ジグゾーパズル最期のピース

細菌学者の後藤新平が東京市長だった。その後藤は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。大正7年はシベリア出兵があった年である。
なんと彼はシベリア出兵の最前線にいた。後藤は1908年から逓信大臣などを経て、1916年には内務大臣になっていた。内務大臣といえば日本政府の意思決定権者の重要人物であった。
その後藤は、シベリア出兵が開始されると同時に、内務大臣から外務大臣に移り、そのまま現地シベリアに出向いた。後藤はシベリア出兵作戦の最前線の中心人物であった。
細菌学者の後藤は、そのシベリアで「液体塩素」と出会った。その2年後、帰国した彼は東京市長となっていた。
東京市長になった後藤新平は、東京市の水道施設を視察したはずだ。そこで雑菌を大量に含んだ生水が、市民に向かって送り出されているのを目撃した。それを目撃した後藤新平が、「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然であった。
後籐新平は陸軍の横やりを抑え、国家機密である液体塩素を民生転用した。彼はそれを転用する「政治権力」も備えていた。
すべてのジグソ-パズルのピースがはまった。謎がストーンと解けた。

 明治31年、台湾総督に任命された児玉源太郎は民政局長に後藤新平を呼んだ。台湾での8年間、後藤新平は上下水道、鉄道、道路、港湾のインフラ整備を進め、台湾に衛生生活習慣を普及させた。後藤新平は「台湾近代化の父」と、今でも台湾で尊敬をこめられ呼ばれている。
 2020年新型コロナ・ウィルス危機で、台湾は大陸の中国に対して、徹底的な衛生防衛策をとった。台湾の人々の心の底にある衛生に対するインフラは、後藤新平が育てたものであった。

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【竹村公太郎】日本人の命の謎への7件のコメント

  1. 赤城 より

    凄い話でした。
    明治大正の政治家はさらに幕末武家からの流れを汲んだ者たちで、
    本物のエリートが最高の能力を発揮していたんだと改めて認識しました。
    そしてその流れから生まれた台湾は確かに今の断絶した亡国日本とは違い、
    旧大日本帝国からの直接の流れを残した主権国家だと思います。

    水については致命的な生命線だと思っていましたがここまでとは。
    少しだけ浄水器などで細菌が増殖している水を飲んでも体調が変わってしまうような体質なので、
    水に細菌がどれだけ存在するかは重大なことだと分かります。
    水道水の安全さには感謝しかありません。

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  2. 5/9の竹村公太郎さんのブログはすばらしいと思いました。
    日頃当たり前と思ってしまいがちな上水道の普及による快適で健康的な日々の生活ですが、これは先人の努力、才覚によって築かれ、実現されたものであることがよく理解できました。当たり前となったインフラのなかに埋もれた先人の偉大さが事実によって次第に明らかにされる様には感動しました。いいものを読ませてもらいました。著者はいつまでも情熱のある熱い方のように思えます。見習いたいですね。

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  3. 大和魂 より

    先人の偉業は全く持って素晴らしくて誇らしい!その礎は、江戸時代で培われたプラグマティズムだと思います。少し話しが逸れますが、昔の大阪は東京と匹敵するほどのエネルギーを有していたからです。その中でも特筆されるべきは、現在も大阪市役所のほとりで、保存されている適塾の存在でした。また、その塾を立ち上げた緒方洪庵の生き様も素晴らしく立派でしたし、その薫陶を受けた村田蔵六は、皆さん御存知のとおりで、戦略もスピード感も別格でしたね。

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  4. たかゆき より

    日本人の 命 題

    小生は 戦争の勝敗に 着目

    日清 日露 は 勝ち
    先の 大戦 は 惨敗

    注目すべき は 戦術などではなく
    戦略

    朝鮮併合 台湾併合 これは 戦略
    大成功

    そして 米国との開戦
    大失敗

    しかるに 今の日本
    属国風情が 
    戦略など もてるわけが ない、、

    戦略など 頭の片隅にもない 日本
    戦術など 考えたことも なし 

    そして この ザマ

    というわけで 全ての解は
    推して知るべし かと。。。

    ちなみに 小生 「護憲論者」
    現行憲法は 一言一句 変更することなく

    時期を見て 廃棄すべきという 意見に
    与する者で ございます。。。

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  5. タカッキー より

    欧米諸国の水は硬水が多いのに対して、日本の水は沖縄などの一部を除いて、軟水のところが多いと聞きます。
    硬水は肉料理には適しているが、日本料理、郷土料理には向いていないといいます。
    古来より軟水に合うように作ってきた料理が、日本料理、郷土料理に発展してきた。それが、血となり骨となり肉となり、日本人および文化をも形作ってきた、と考えているのは自分だけだろうか?

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  6. テッド より

    いつも楽しくメルマガを拝読しております。昨日配信の「日本人の命の謎」は私にとってワクワクしながらパズルのピースを埋めるごとき快感を伴うもので、是非とも感謝の気持ちを述たく思いコメントしております。

    後藤新平は医学博士であり、「当時の日本で北里柴三郎に並ぶ細菌学者であった」と言うのは驚きでした。さらに自費でドイツのコッホ研究所で細菌の研究に従事し、「人生の立脚点が細菌学であった」事には感動さえ覚えます。もちろん私は全く知りませんでした。

    後藤新平が関東大震災の3年前である大正9年に東京市長になっており、大正10年に「陸軍がシベリア撤退と同時に間髪おかず」、軍事機密であった「液体塩素が水道水の殺菌に転用され」たのは、歴史の必然と言えるのではないでしょうか。

    と言うのは、1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界各国で極めて多くの死者を出したスペイン風邪(インフルエンザ)によるパンデミックが発生していたからです。アメリカで50万人が死亡し、日本でも内務省衛生局編「流行性感冒」によると、感染者数2380万人、死亡者約39万人(武漢肺炎の比ではありません!)となっています。後藤新平はこのパンデミックの収束から回復を期待されて東京市長に任命されたのでしょう。

    スペイン風邪には若年層が犠牲になりやすいという特有の傾向(通常は死者が乳幼児と高齢者に偏る)があり、更に第1次世界大戦の影響で欧米諸国の平均寿命が軒並み6.8(イギリス)、6.8(アメリカ)、8.3(フランス)、12.3(イタリア)年低下する惨事になりました。最近の研究ではスペイン風邪のウイルスは以前のインフルエンザ株よりも致死的では無いという説もありいます。しかし当時抗生物質がまだ普及していなかったこともあり、第1次世界大戦終戦直後の栄養失調、過密な医療施設、劣悪な衛生状態が細菌性の重複感染を蔓延させ、ほとんどの犠牲者はこの重複感染が死因だと考えられています。よって日本においてもスペイン風邪に伴った重複感染の予防に、後藤新平による水道水の塩素殺菌が大きく貢献したと考えられます。

    自粛もそろそろ解除される機運が高まっておりますが、呉々もお体に気をつけてご活躍下さい。

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  7. チキン より

    真摯に命に向き合う医学者、医学的知識のある者は、もしかすると「命を守るために必要なのはインフラ」であるところに行きつくのかもしれませんね…
    今は亡き中村哲医師も途上国の支援をする中、医者がどんなに前線で頑張ってもなくなる人の数を減らせない、そこから行き着いたのがあの用水工事だそうですからね…

    栄養状態、水事情が改善しなければ医療は無力ですからね…
    医師と医療の無力感がインフラ整備に向かうのかもしれませんね…

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