From 竹村公太郎@元国土交通省/日本水フォーラム事務局長
歴史との出会い
20年前の50歳の時、
関西の大阪に転勤となった。
この大阪で、私は初めて歴史と出会った。
勤務場所は上町台地の
大阪城の直近であった。
昼休みにのんびりと大阪城を
散歩していると「本願寺跡」
という看板があった。
本願寺が大阪城の跡にあった?
本願寺は京都ではないのか?
京都にある東・西の本願寺は
後から建造され、本願寺の本拠地は
この大阪城跡だった。
そのことを関東育ちの私は知らなかった。
本願寺は当時の最強軍団の織田信長と
11年間も戦い、遂に負けることはなかった。
その本願寺がこの上町台地の
大阪城であったという。
戦国時代の上町台地の周辺の
低地は湿地帯であった。
そのことを土木の専門家の私は知っていた。
ここを攻める兵隊たちが上町台地に近づけば、
足は泥に取られ身動きできなくなり、
台地の上から矢で射られ放題となる。
大阪城を攻撃するには上町台地の
尾根道の谷町通りしかない。
その谷町通りを固めれば、上町台地の
大阪城は難攻不落となった。
織田信長との11年戦争で
本願寺は負けなかった。
それは本願寺の信者たちの
強い宗教心であった、
と歴史の授業で学んできた。
しかし、この上町台地の地形を
見詰めていると、彼らはこの地形に
陣取ったから負けなかったのだ。
織田信長はこの地形を奪おうと
11年間かけた。
信長を継いだ豊臣秀吉は
この地形を利用して、難攻不落の
大坂城を建造して天下を制した。
その後、徳川家康はいかに
秀吉の大坂城を陥落させるかに腐心した。
上町台地に立って地形を見ていると、
戦国時代の3大英傑の信長、秀吉そして家康が、
この土地を巡って血みどろの戦いをした
意味がひしひしと伝わってきた。
地形を見ていた私の中で、
新しい歴史の物語が生まれた瞬間であった。
日本歴史の謎
地形を見ていると新しい歴史が見えてくる。
この驚きが、日本各地の地形と気象を
改めて見直していく動力となった。
一つの例が、忠臣蔵の物語である。
忠臣蔵は、日本史の中で最も
有名な物語の一つだ。
東京に住んでからは、
忠臣蔵の史跡に何度も訪ねた。
その忠臣蔵を地形から見直すと、
矛盾することばかりであった。
徳川幕府にとって、江戸城の
守備は最大の責務であった。
その江戸城守備にとって麹町は、
地形上極めて大切な場所であった。
その江戸の心臓部の麹町に、
16人もの赤穂浪士が潜伏していた。
まるで江戸幕府が
かくまっていたとしか思えなかった。
吉良邸の移転にも謎がある。
吉良邸は現在の八重洲、
つまり江戸城の郭内の
南町奉行所の近くにあった。
その吉良家が隅田川の対岸の
寂しい回向院の裏に移転させられた。
赤穂浪士が討ち入りしやすいように、
江戸幕府が吉良家を移転させた
と考えると納得がいく。
泉岳寺にも謎がある。
討ち入り後、回向院から
泉岳寺に向った。
このルートには札の辻に
大木戸があった。
その大木戸を何ら
とがめられることなく通過している。
江戸幕府が暗黙裡に
許可していたとしか考えられない。
さらに、泉岳寺は徳川家康が
創建した寺である。
家康が自ら創建した重要な寺が、
血だらけの不逞の浪士たちの
集合場所になった。
これも不思議なことであった。
吉良邸討ち入り以降、
江戸幕府はこの泉岳寺を
「忠臣」のテーマパークに
仕上げる様々な仕掛けとしている。
これらを総合すると、
忠臣蔵の物語は、江戸幕府の
シナリオで進んでいったと断言できる。
なぜ、そこまで江戸幕府は、
吉良討ちにのめり込んだのか?
その原点は、戦国時代の
矢作川の地形を巡る、吉良家と
家康の松平家の確執にたどり着いた。
歴史の立体性
織田信長の戦術の謎、
元寇のモンゴル軍敗退の謎、
江戸都市の謎、日本各都市の謎を、
地形から見た。
この地形から歴史を見ていると、
世界史最大の謎の一つの
「何故、ピラミッドは造られたのか?」
の謎まで解けていった。
歴史は過去の出来事である。
歴史を振り返る人の立場によって、
歴史の見方は全く異なっていく。
勝者の立場、敗者の立場かによって
物語は正反対になっていく。
政治的、宗教的、経済的、文化的、
芸術的さらに生態学的立場など
様々な観点から歴史は
振り返られ語られていく。
過去の歴史はそれほど難しく、
多様な側面を持っている。
1つの器があるとしよう。
この器をいろいろな角度から
表現する場合、器の形を表現し、
器の材質や絵柄を表現していく。
さらに、器の内部に陰があれば、
そこに光を当てて器の内部まで表現していく。
このように多くの視点から、
器が立体的に表現されていく。
歴史も同じである。
多くの分野の人々の視点から、
失われた過去の物語が立体的に再現されていく。
ところが、この歴史の解明で
欠けている視点がある事に気が付いた。
それは地形や気象からの視点であった。
器で表現するなら、器の「底」と
その器が立脚している
土台に光が当っていないのだ。
土木で人生を送った私は、
地形と気象の専門家である。
そのため、社会の基盤である
地形と気象の視点から、
歴史に光を当てることが出来る。
地形と気象の視点だけが歴史ではない。
器の底が器全体ではないと同じだ。
しかし、今まで光が当てられなかった
器の底と器が立脚している土台に
光を当てていく。
そのことによって、
器が空中に浮かび上がり、
より立体的に見えていく。
アイデンティティーとグローバル
地形と気象は、誰にでも身近な事柄である。
日本各地の人々は、それぞれの
地形と気象の中で生きている。
そして、人々はその地方の歴史を持っている。
その地方の歴史を地形と気象の
視点で語ることは、誰にでも出来る。
歴史を自分たちが語ることで、
歴史は自分たちの物語となっていく。
その自分たちの物語は、
共同体のアイデンティティーを醸成していく。
各地方の歴史は、
必ず日本の歴史に繋がっていく。
各地の共同体へのアイデンイティーは、
日本人へのアイデンティティーに繋がっていく。
21世紀はグローバル社会である。
日本人がグローバル世界で
生きていくことは避けられない。
グローバルな人間とは、
外国語を堪能に話す人間を意味しない。
グローバルな人間とは、
世界を漂う浮草のような人を指さない。
世界から尊敬される国際的な日本人は、
揺らぎのない日本人のアイデンティティー
を持っている人である。
故郷へのアイデンティティーを
持った人である。
その人は日本の歴史を身につけ、
故郷の歴史を愛している。
自分の故郷を持った人が、
他国の人々に敬意を持って対面できる。
他の国の人の故郷を尊重し、
その国の歴史に敬意をもって対峙できる。
作家の塩野七生さんの
「真の外交官は故郷を持っている人」
という言葉は、見事な表現だ。
【竹村公太郎】地形と歴史とアイデンティティーへの2件のコメント
2018年3月10日 8:01 PM
素敵♪
>21世紀はグローバル社会である。
日本人がグローバル世界で
生きていくことは避けられない。<
日本国民の 「泉岳寺」は
どこに 設定されれので
せう ね。。。
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2018年8月11日 6:13 PM
竹村さま
若いときに富山和子氏の「水と緑と土」を読んだ時のことを思い出しました。建設省は大雨による洪水の度に堤防強化をし堤防を高くする。上流からの土砂の堆積で川床が上がるのでまた洪水が発生する。林野庁と建設省は別々の目的で行政を行っている。
最近の川床も上がり、中洲も大きくなっております。
昨年は瀬田川の川ざらえを私財で行った「藤本太郎兵衛(三代)」を知り、頑張らなくっちゃと思ったのですが、怠惰な生活を送っております。
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