From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
おはようございます(^_^)/
また、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします<(_ _)>
ナカ…、いや東田剛さんの先日の記事「アベノミクスが危ない」にあった日経電子版の記事、私も、いかんなーと思って読んでいました。
規制改革会議を復活 「国際先端テスト」で見直し加速(『日経電子版』2013年1月6日)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0600R_W3A100C1NN1000/
「国際先端テスト」っていう発想がすごいですね。
日本と海外の規制の事例を比較して、日本の規制が多く「自由化」が遅れていると判断されれば、規制をとっぱらっていくということでしょう。
非常に新自由主義的な考え方だと思います。
新自由主義の根底には、人間や企業は、「普遍的で」「合理的な」、つまり「グローバル・スタンダードな」ルール以外何もないところで、もっとも自由闊達に活動でき、能力を発揮できるという考え方があります。(TPPのような市場統合の発想も、いうまでもなくこの表れでしょう)。
そこでは、文化や、さまざまな慣習、特定の地域の事情に根差した決まりごと、などの「非合理な」ものは、取り払うべき障壁です。伝統とか風土とかは考慮しないわけですし、国境もなくしてしまったほうがいいというわけです。
「国際先端テスト」も、まあそういう発想から出てきてますよね。
すごく単純だなーと思います。
(-_-;)
「国際先端テスト」という言葉を聞いたとき、次のスローガンを思い出しました。
「外国人が暮らしやすい社会は、日本人にも暮らしやすい社会だ」。
もうだいぶ前になりますが、福田康夫政権時(2008年)に、「移民一千万人計画」というのが話題になったことがありました。
日本はこれから人口が減っていくので、50年後までに、減った分を補う1000万人を外国から移民させようという政策提言でした。中川秀直氏が旗振り役になってまとめたものですが、「外国人が暮らしやすい社会は、日本人にも暮らしやすい社会だ」とは、この提言の発表時に中川氏が発した言葉です。
「将来の日本の移民社会化に向けて多文化共生社会を実現するべきだ。そのためには、外国人にとってわかりにくい特殊日本的なものを取り払って、わかりやすい社会にしていくべきだ」ということでした。
自民党の中にも単純な考え方の持ち主が結構いるんだなと当時、思った記憶があります。
「外国人が暮らしやすい社会は、日本人にも暮らしやすい社会だ」という言葉、いまでもときおり耳にしますが、これって、常識的に考えて、端的にウソですd(*_∀`)bよね。
日本人にとって暮らしやすい社会は、日本人の発想に根差した日本的社会だと思います。同様に、たとえば、フランス人にとっては、フランス的社会が一番暮らしやすいでしょうし、タイ人にとっては、タイの文化や慣習に根差した社会が一番住みやすいんじゃないかと思います。
「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」という考え方は、新自由主義と言うよりも、本来はもう少し左派っぽい、「地球市民思想」のようなものから出てくるのかもしれません。
が、どちらにしても、人間を、「合理的存在」として捉え、人々が当然ながら担っている個別の文化や伝統、慣習、感覚を棄て去ってしまうところが極端です。
常識的には、人間は皆、少なくともある程度は、特定の文化や伝統をいやおうなく担っていて、それぞれ自分たちがなじみやすい環境というものを持っているんではないでしょうか。
以前、哲学者の桑子敏雄氏が面白いことを書いていました(『感性の哲学』NHKブックス)。
桑子氏が観光地になっているある由緒あるお寺の茶室を訪れたとき、たまたま一緒になった若い二人連れうち、女性のほうが連れの男性に、「なんだか落ち着くね」と語ったそうです。
♪(*^-^)o旦
なにげない日常の光景ですが、桑子氏は、この言葉から「落ちつく」という言葉についての考察を始めます。「落ちつく」という非常によく使われる日本語は、普段、われわれは意識しないけれども重要な洞察を含んでいないかというのです。
ここで「落ちつく」という言葉は、人の心の状態を示していますが、それだけではありません。「落ちつき」は、自己自身と自分の置かれた環境との関係をとらえる言葉です。ある人が、ある種の空間にいることによって心身ともにしっくりくる適合の感覚・状態を「落ちつく」という言葉は指しています。
この言葉の考察から、桑子氏は、人間と空間とを完全に切り離せるものとして扱いがちな現代的な考え方に対する批判的考察を進めていきます。
新自由主義(「地球市民」思想もですが)は、人間を、周囲の特定の風土や文化や社会的状況から切り離されうる自己完結的な存在ととらえてしまう典型でしょう。そういう周囲から切り離された存在こそが、普遍的で合理的だと考えてしまうのです。
だけど人間、そんなもんじゃないですよね。
当然ですが、日本人が、「落ちついて」生活し、いきいきと活力を発揮できる場と、アメリカ人のそれとは違うんじゃないかと思います。たとえば、野球でも、日本人選手の力をもっとも引き出すチームの雰囲気やトレーニング方法と、アメリカ人の選手の力を引き出しやすいものとは違うんでしょう。
経済でも多くの日本人は、たとえばアメリカの企業でよくあるように、経営者と従業員の給料が何百倍もある企業ではあまり働きたいと思わないでしょう。
安倍首相は、選挙前に『文藝春秋』1月号に、「新しい国へ」という政権構想を発表しています。そのなかでは、日本は、米国型とは違う「瑞穂の国の資本主義」を目標とすべきだと述べています。
もちろん、米国型の市場経済のなかでよい結果を残せる日本人もいるでしょう。ただ、それはかなりの適応力を持つ人が時間をかけ努力した結果だろうと思います。
米国型では、居心地が悪く、十分に能力を発揮できない日本人のほうが圧倒的に多いでしょう。
日本は日本ですから、自己本位でいってほしいもんです。
「瑞穂の国の資本主義」が単なるキャッチフレーズに終わることなく、多くの一般的日本人が、「落ちついて」将来設計を練り、能力に磨きをかけ、力を発揮できる経済社会のあり方を模索し、その構築を目指してほしいと思います。
そういう社会こそが、結局は、多くの日本人の積極的社会参加を促し、力を引き出し、日本経済の活性化につながるんだろうと思います。
まただらだらと長くなってしまいました…。失礼しますた<m(__)m>。
PS
中野剛志氏と一緒に、こんな本を書いています。
http://amzn.to/Ud4Pl5
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