From 平松禎史@アニメーター/演出家
ネット上では、しばしば匿名性を巡る議論が起こります。
匿名を使うのは、「私」を明らかにしない、ということです。現代は個人情報云々うるさいのですが、これは詐欺や情報ビジネスに使われる懸念があるので仕方ないことなのかもしれない。しかし、海外のフォーラムでは、著名人でない一般の人が実名と写真を載せているものがよくあります。セキュリティ問題以上に、「私は私である」と表明することが重要なのでしょう。
心理療法家の河合隼雄さんは「私」について、西洋と日本では捉え方が違うのだと、書かれておられます。
今回は講義録 『こころの最終講義』(新潮文庫)から、多めに引用していきます。
《西洋人にとってエゴ・アイデンティティというのはどういうことかというと、「私」というものはこういうものなんだ、私はこうで、私の意見はこうである。また私の考えは、誰それとはどうちがうということを明らかにする、それがエゴ・アイデンティティなんですね。》(p268)
対して、日本人はどうなのか。
《日本人は「私」といっても知らん間に「私ら」になっている。何かほかのものが入り込んできている。これはそういうふうに小さいときからつくりあげられてきているのではないか。そしてそういうことができなかったら、日本人としては非常に住みにくいし生きにくい。》(P269)
日本では、自分の意見をズバズバ言っていると嫌われます。正否はともかくはっきり物を言う人には違和感を感じ、壁を作ってしまいやすいのが日本人ではないかと思う。
《日本人はすぐ「わしら」とか(笑)。一人だのに「私ら」とか「ぼくら」とか、自分のことをいうときでも「ら」をつけたがるでしょう。アイという一人の人間としての意見を主張するのを何となく怖がっているし、恐れているところがある。「私はこうです」というのが非常に難しい。》(p268)
よくわかりますよね。ボクは経済のことをよく書きますが、実は「ボクの意見」というのはそれほど書いていません。ほとんどは、現実はこうなっている。ということですし、結果から原因を探るのも、処方箋を考えるのも、他の先生方や過去の知見に基づいています。受け売りですね。
「ボクの」と言えるのは、現実をどんな切り口で見るか、という感性、視点です。それが重要だと思っているので。
さて、つづけましょう。
「おとなになる」ということについて。
《私が生きております社会で、私という人間がちゃんと社会の中に入り込むことができるか、具体的には、たとえば職業は何かというと、大学の教師だ。家庭は、家内と子供が何人いる。市民税はちゃんと払っているというようなことで社会のシステムの中にちゃんとはまる。あるいは、はまることができるということができます。》
(中略)
《自分をおろそかにしすぎて社会の型に早くはまった人は、あとで困ってしまいますし、それから自分の方を大事にしすぎた人は、なかなか社会にはまっていかない。エリクソン(エリク・ホーンブルガー・エリクソン。アイデンティティの提唱者)にいわせると、こういう二つの面をうまくやってちゃんとできたひと、これがエゴ・アイデンティティの確立した人です。そしてそういう意味のエゴ・アイデンティティというのは、つまり「おとな」になる時に確立する。》
(中略)
《たとえば選挙の時にだれに投票していいかわからないというのではなくて、自分はこの人がいいとか、この党がいいと私は思うという判断力を身につけている人。あるいは何かで話し合いがあったときには自分の意見を言い、決まったことには自分の意見の如何にかかわらず、それに従って責任をとる人だとか、そういうことになります。》(p270~272)
「おとな」とは、そういうことですよね。
ようやく本題です、 「私」であろうとする時…
何が「私」を支えているか(p274)
…です。
柳田國男のエピソードが出てきます。
《柳田國男があるとき、自分からご先祖様になるんだといっている人に出会った。その人は、どこぞの町に住む何とかという年輩のご老人で、ゴム長靴を履いて、はんてんを重ねて、白い髪が垂れていて、大工さんをしていた人である。もちろん兵隊に行き、子供ができ、孫もいる。そして自分の墓もちゃんとできている。そして自分もそのうちにご先祖様になるんだといっているという話なんです。こういう人は、もう職業とかは、その人のアイデンティティを支えていないんですね。支えてくださるのはご先祖様というわけです。》
(中略)
《このご先祖様の一員になるんだというアイデンティティはすごいですね。たとえば原爆か何かで地球がパッと全部つぶれてしまっても、この人のアイデンティティは揺るがないと思います。なぜかというと、ご先祖様をやっつけるのは非常に難しいですからね。だれもご先祖をなくするということはできるものではない。つまりその人はご先祖様とつながっていて、私はもうそのうちご先祖様になりますよといって生きておられるんですね。それを柳田國男はすごく感動して見ているんです。》(p277~278)
西洋の「神(GOD)」に対して、「ご先祖様」。
西洋のアイデンティティは、どんどん区別して明確にしていった先の個人、それが「私」となるそうですが、その場合の「私」を支えているのは、この世界を作り給うた「神(GOD)」なわけです。しかし、日本人は基本的に唯一神的な信仰心を持ちません。「八百万の神々」の世界観に生きています。それが無数の「ご先祖様」にあたる。そこで、「私」ではなく「私ら」「われわれ」という感覚になるわけですね。
物事を一般化して語りやすい、あるいは、「自分の」関心や問題意識を「みんな」と同一化して話をする傾向は、ご先祖様を共有する「自分とみんな」はつながっている、と無意識に思っているからではないか、ということです。ですから、日本人が社会を円満に和やかに作り出そうとした古来からの生活習慣、知恵の上に成り立っているのだと思うのです。
近年SNSでは「私ら」感覚がぶつかりあってネガティブな面が出てしまうのですが、これには情報過多、核家族化によるご先祖様意識の希薄化、東京一極集中、地方衰退、などが影響し、支えを失った「私」同士がぶつかり合ってしまう結果ではなかろうか。
ご先祖様意識が希薄になっても、西洋的な「私」をもてるわけじゃない。他の何かをご先祖様の位置にあてがうのだ。それがアイドルだったり、アニメだったり、政治家だったりする。それぞれを成り立たせている「支え」が現今にバラバラに存在する何かに分散しているのではないか。
誰だかわからないけど同じものを見て共有している、という親和的な意識が優勢な時は良いのですが、そうでなければ「共有していないよそ者」として攻撃し、排除しようとする。「私」ひとりが言ってても、「私ら」だと思って言うのですから、敵視した相手に、常に多勢意識を持てるのです。これは怖いですね。「匿名」はこの多勢意識を増幅しやすい装置だと思う。
私を支えている「ご先祖様」、つまり「過去」です。
中国文学者の高島俊男さんのことばとも共通します。
《過去と対話せず、現在と語るのみでも、生きるだけなら生きられる。しかしそれでは、自分がどこにいるのか、どういう道筋をたどってここにいるのかさえわからないではないか。
我々が、安心して、自信を持って現在に生きるには、現在の素性を知らねばならない。現在の素性を知るには、過去に話を聞いてみなければならない。》
10年とか100年程度の何かでは、「私」を支える共有意識にはならない。
日本人のアイデンティティを支えているのは過去の日本人のアイデンティティだ。そうやって古代までつながっている。それがファンタジーだとしても、共同体がもつファンタジーは非常に大事なものだと思います。
古代文学・伝承文学研究を専攻する三浦佑之教授が今月新刊を出されました。
『出雲神話論』です。
50余年におよぶ『古事記』研究の「最期の」仕事と位置づけられ、本文600ページを超える大著となっています。届いたばかりなのでパラパラとめくった程度なのですが、そこにも「ファンタジー」ということばが見えます。
「はじめに 古事記を読むということ」から引きます。
《現代のジャンルで言えば、古事記は歴史書というのがいちばん当たっていようが、われわれのいう歴史とはもっとも対極にあるといったほういいともいえる。ことに、描かれている神話を歴史的事実とみなすのはまったくもって無理だということはだれもがわかっているはずだ。そんなことを言い出すと、うっかりしたら戦前の思考にもどってしまう危険性さえある。しかし、そのファンタジーとも呼べる神話の背後には歴史が隠されていないとは言い切れないのも確かだ。》
また、こうもあります。「あとがき」から引きます。
《古事記に描かれてたオオクニヌシ(大国主神)の滅びの物語は、勝った側からではなく屈服した側の思いを抱かえ込みながら語られているとしか私には読めないのである。
古事記が、国家の正史としての日本書紀とはまったく別の経路をたどって生まれてきたことを強調するのはそのためだ。》
「抱かえ込みながら」というところが重要ですね。
ファンタジーを共有できなければ、見ず知らずの人が災害で酷い目にあった時、無事な地域が手を差し伸べることもできなくなります。見返りがあるからではなく、「支え」を共有している無意識的な感覚が生活の基礎になっているから、できるのです。多数決や論争で負けた側を排除したり対立を深めるのではなく、抱え込むことができるはずなのです。「おかげさま」の心がある。
…これ、そろそろ過去形で書かねばならないんでしょうね。
日々政治状況を見ていると、そのようなアイデンティティに関わる「支え」を破壊する政策が積み重ねられていくことに恐怖します。日本人の「支え」、過去の遺産や共有資産をどんどんビジネス化していく、海外に売り渡していく、これほど日本人の「支え」を破壊した政権は(古事記などを読んだ上で)有史以来ほかにないと思わざるを得ない。
あのような政治のせいで、職業や所得額や住んでいる場所や持っている車や趣味や交友関係などなどを、支えにしなければ「私」を支えられなくなった。「今だけカネだけ自分だけ」だ。
支えてくれるものはなにもないと絶望した時、人は暴発します。京都アニメーション放火殺人の青葉容疑者は、社会に対する恨みを、自分の世界であるアニメに、京都アニメーションという企業に向けた(向けざるを得なかった)のではないかと思える。25年前。オウム真理教の若者たちの反逆が社会に向かっていたことを考えると、日本人を支えるものはどんどん狭小化していってるではないかと思われます。
政治を転換し改善していく必要性を考えると、絶望的な状況が見えてきます。
日本人が余裕をもって、自信をもって生きるには、経済力を取り戻すことが大前提ですが、そのためには、自分を支えてくれるものは何なのかと、見直してみることが大切なのではないでしょうか。
◯コマーシャル
ボクのブログです。
https://ameblo.jp/tadashi-hiramatz/
【平松禎史】「霧につつまれたハリネズミのつぶやき」第六十三話:『何が「私」を支えているか』への3件のコメント
2019年11月30日 8:18 PM
憂国
三島の短編に あった かと
この国に対して
彼ほどの 念いが はたして
小生に あるのかと
朝日グラフに 載った
三島の 首を 見つめながら
おもふ 今日この頃で
ございます
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2019年12月1日 6:54 PM
先日、吉田松陰と三島由紀夫の命日でした。そこで思い出すのが、三島が亡くなった後に、小林秀雄と江藤淳の考え方の違いに大きな衝撃を受けました。それが小林は、それを歴史と位置づけて深みのある洞察力を披露して、一方の江藤は、当時、防衛長長官にあって媚びへつらう馬鹿曽根康弘と同じくそれを病気と指摘しておりました。それからのその後の両者は対象的な人生で幕を閉じられました。つまり江藤は一生その事に恥じらいを感じたようの不様な人生でした。
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2019年12月28日 11:21 AM
[…] そこから発展して読みはじめた臨床心理学の本からヒントを得たことです。 前回(https://38news.jp/column/15001)もとりあげた臨床心理学者河合隼雄さんの物語についての考察は、政策転換で […]
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