From 佐藤健志
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●●強制徴用で騒ぐ韓国が仕掛けた罠とは?
月刊三橋の今月号のテーマは、「歴史認識問題」です。
https://www.youtube.com/watch?v=vGLmma-WA14&feature=youtu.be
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施光恒さんの新著「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる」が、集英社新書より刊行されました。
企業や学校をはじめ、現在の日本ではあちこちで、英語を公用語にしようとする動きが活発化しています。
これには「グローバル時代にふさわしい国際競争力をつけるため」などといった、うるわしい大義名分がついていますが、わが国にとって本当にプラスとなるかどうかは疑わしい。
むしろ〈言葉〉(つまり日本語)によって支えられてきたわが国の文化や伝統、あるいは人々の行動様式が破壊されてしまう恐れが強いのです。
英語を習得しないかぎり、進学・就職など、人生の選択肢が少なからず制限されるのは、日本人にとって幸せなのか。
だいたい専門的な仕事を、つねに外国語でやらねばならない状態で、創造力は発揮できるのか?
英語化の行き着く果て。
それは企業も学問も文化も(創造力の発揮が阻害されるせいで)国際競争力を失い、かつ〈英語のできる勝ち組〉と〈英語のできない負け組〉に社会が分裂するという、植民地や途上国さながらの状態である!
施さんの警告は明快、かつ的確なものです。
関心を持たれた方は、ぜひご覧ください。
イギリスの映画監督デレク・ジャーマンは1977年、荒廃した近未来の祖国を描いた「ジュビリー」という作品を発表しましたが、そこにはこんな台詞がありました。
「一つの国土で二つの言葉がせめぎあうとき、戦乱の種子がまかれる」
いずれ、日本もそうなってしまうかも知れません。
ちなみに。
言語がたんなる〈コミュニケーションのツール〉などではなく、文化や伝統、人々の行動様式の基盤となっていること、および多くの場合、人は母国語においてこそ創造性を発揮できることは、次のような事例を思い浮かべれば、いっそう明白となるでしょう。
先週の記事で紹介した、塚本晋也監督の映画「野火」(7/25より公開中)を思い起こしてください。
これは太平洋戦争末期のフィリピンを舞台に、総崩れとなった日本軍兵士たちの姿を描いています。
http://nobi-movie.com
塚本監督、「戦争による人間の破壊とはどのようなものか」を見せたくて、「野火」をつくったのですが・・・
かりに「世界市場で通用する競争力を持たせたい」とばかり、はじめから全編、台詞を英語にしていたらどうなったでしょう?
英語圏への売り込みは、たしかに容易になる可能性があります。
しかしそんなことをしたら、作品が根本から崩れるというか、まったくの別物になってしまう。
太平洋戦争末期の日本兵が、英語をしゃべって演技するんですから。
ついでに台詞が英語だと、身振りや表情なども、その影響を受けずにはいられません。
〈日本兵〉をリアルに演じるための手がかりまで、つかみにくくなってしまうのです。
そんなつくり方をしたら最後、「あの戦争は〈英語を話す側〉(つまりアメリカ)の視点に基づいて描くのが正しく、〈日本語を話す側〉の視点で描くのは間違いだ」という解釈だって入り込みかねないでしょう。
断っておけば、「野火」には英語字幕入りのバージョンがあります。
とはいえ、これは話がまったく違う。
日本語に基づいた演技(の言葉の部分)を、英語で説明しているだけです。
吹き替えたとしても同じこと。
その場合、画面に映る演技との間に、ずれというか、ギャップが必ず生じます。
裏を返せば、ずれやギャップの存在によって、〈本来の言葉は違う〉ことが浮き彫りになる。
先に紹介したデレク・ジャーマンは、この点にきわめて敏感でした。
彼の長編デビュー作「セバスチャン」(1976年)は、古代ローマ時代の聖人を描いたものですが、ジャーマンは英語で書かれたシナリオをわざわざラテン語に翻訳、全編ラテン語で撮影したのです!
公開時には英語字幕が入ったのですが、ジャーマンによれば、台詞をラテン語にしたことで作品の全体像が明確になったとか。
表現や創造性と、言語との間には、かくも密接な関連があるのです。
しかるに現在の日本には、シャレでも何でもなく、〈最初から英語で撮影された「野火」〉のような映画を奨励しかねない雰囲気があります。
「英語化は愚民化」でも言及された「スーパーグローバル大学創成支援」プロジェクトなど、英語で行う講義の比率を増やせば増やすほど、多額の補助金を出すというのです。
だったら「スーパーグローバル・シネマ創造支援」などと称して、英語で撮影する映画企画には多額の補助金を出す、というプロジェクトだって実現してしまうのでは。
三橋貴明さんは「先進国」について、〈国民の需要(とくに公共性の高いものや、安全保障に関わるもの)を、国民の供給能力によってまかなえる国〉という独自の定義を主張されていますが、ならば「文化国家」の定義はこうなるでしょう。
〈自国の言語に支えられた豊かな文化活動への需要(=経済的・時間的なゆとり、および教養や審美眼)と、それを満たす供給能力(=創造性)を、国民がともに持っている国〉
決して〈官民一体となって外国語による文化の供給に取り組み、海外市場のシェア拡大を狙う国〉ではないのです。
そう考えると、平松禎史さんの「イブセキヨルニ」も、台詞を全編英語にして日本語字幕を入れたら、もっと強烈だったかも知れませんね。
ではでは♪
**** メルマガ発行者よりおすすめ ****
強制徴用で騒ぐ韓国が仕掛けた罠とは?
月刊三橋の今月号のテーマは、「歴史認識問題」です。
https://www.youtube.com/watch?v=vGLmma-WA14&feature=youtu.be
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<佐藤健志からのお知らせ>
1)7月31日(金)、表現者シンポジウム「戦後70年 隘路(あいろ)にはまるか、日米同盟」にパネリストとして登壇します。
詳細は以下の通り。
会場 四谷区民ホール(18:30開場、19:00開演、21:00終演)
他のパネリスト 佐伯啓思さん、白井聡さん、中島岳志さん、富岡幸一郎さん、西部邁さん。
会費 1500円
参加ご希望の方は、お名前、ご住所、お電話番号、参加人数などをご記入のうえ、郵送、ファックス、メールのいずれかにて西部邁事務所までお申し込み下さい。連絡先は以下の通りです。
郵送の場合 〒157−0072 東京都世田谷区祖師谷3−17−22−303
ファックスの場合 03−5490−7576
メールの場合 hyogensha@gaea.ocn.ne.jp
なおメールで申し込まれる場合は、スパムと混同されないため、件名に「表現者シンポジウム参加希望」と明記して下さい。
2)戦後日本は「文化国家」をめざしたはずなのですが、どこで道を踏み外したのでしょうか?
謎を解くカギは、どうやら1980年代にありそうです。
「僕たちは戦後史を知らない 日本の『敗戦』は4回繰り返された」(祥伝社)
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3)お寺の法堂(はっとう)でロックバンドがライブをやるとき、音楽を周囲の環境になじませる条件とは?
本書の102ページをどうぞ。
「愛国のパラドックス 『右か左か』の時代は終わった」(アスペクト)
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4)「征服した相手をいっそう打ちのめし、抵抗する気力を奪うにはどうすればいいか。(中略)相手側の伝統をできるだけ根絶やしにすることである」(215ページ)
この手法をみずから実践する国があるとは。225年前の言葉は、ますます意味深長なものとなっています。
「〈新訳〉フランス革命の省察 『保守主義の父』かく語りき」(PHP研究所)
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5)「イギリスとアメリカには多くの共通点があります。英語という言葉も同じなら、法律も同じ。(中略)密接な関係を保つのは、自然の理にかなったことではないでしょうか?」(270ページ)
独立戦争反対派の主張に、トマス・ペインはどう答えたでしょうか。
「コモン・センス完全版 アメリカを生んだ『過激な聖書』」(PHP研究所)
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6)そして、ブログとツイッターはこちらです。
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