コラム

2022年11月12日

【竹村公太郎】江戸最大の謎「赤穂浪士の討ち入り」(その2)-麹町の謎、黒幕をあぶりだす-

 忠臣蔵は書き尽くされている。八重洲ブックセンターの歴史コーナーに忠臣蔵関連本は常に20冊以上は並んでいる。専門家は数えきれない。名高い文筆家や作家も忠臣蔵の足跡を残している。
私の忠臣蔵の知識と関心はNHK大河ドラマのレベルであった。その私が忠臣蔵に自分を追い込んでしまった。きっかけは前号の「半蔵門とはなにか?」であった。
「江戸城の正門は半蔵門」としたため、赤穂浪士討ち入りの謎に迷い込んでいった。

半蔵門は江戸城の正門
 「半蔵門は江戸城の裏口ではない、半蔵門は江戸城の正門である」その根拠を簡単にまとめると、
① 東海道、甲州街道、中山道、奥州道、日光街道の江戸時代の五街道のうち、甲州街道だけが江戸城に直接結ばれている。
② 1590年、家康の江戸入城時に存在したのは甲州街道だけで、他の街道は江戸周辺の湿地帯の中で眠っていた。
③ 甲州街道今の新宿通りは、江戸城へ通じる尾根道であり、見晴らしがよく、浸水せず、上方から敵に襲われることもなかった。
④ 街道の王道が尾根道であり、その甲州街道から江戸城へ入る門が半蔵門である。
⑤ 正門と思われている二重橋・和田倉門そして大手門は日比谷に面している。日比谷は入江の埋めたて地である。少し雨が降れば水浸しになり、江戸城の正門であるわけがない。
⑥ 二重橋は江戸時代には木造の危うい橋で、石造アーチ橋になったのは明治以降である。
⑦ 家臣たちは和田倉門、大手門で馬を降り、徒歩で江戸城内の坂を上った。

以上が地形から見た「半蔵門は正門」の根拠である。この半蔵門はおかしな門であった。堀を渡ったのは橋ではなく土手だった。広重の一枚の浮世絵が記録していた。

不思議な土手
広重は「山王祭ねり込み」で掘りを「土手」で描いている。

      

(図―1)が広重の描いた半蔵門である。
堀は城の防御のためであり、堀を渡るのは橋と決まっている。ところが、半蔵門の堀は江戸時代から土手であった。

(写真―1)が上空から見た半蔵門の土手である。
土手は構造的に木橋より強い。しかし、土手は敵の攻撃に弱い。敵の攻撃を考えると土手は危険極まりない。堀を土手で埋めるなど常道ではない。家康が大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたのは城の堀を埋めたからである。世界の城を見ても、城の堀をわざわざ土手にしたなどとは聞かない。
徳川幕府はよほどの覚悟だったのだろう。その覚悟とは、絶対この土手は敵から守ってみせる、という覚悟である。

麹町の謎
 半蔵門の土手を守るにはどうするか。半蔵門への道、今の新宿通りの麹町周辺を守ればよい。江戸幕府は麹町を面的に防御する方法をとった。


(図―2)は嘉永(1840年)当時の江戸古地図である。麹町の入口周辺に徳川御三家や親藩の上屋敷が配置している。現在の紀尾井町である上智大学には尾張家、ホテル・ニューオータニには井伊家、赤坂プリンスホテルには紀伊家の上屋敷が配置され、内堀近くには松平家や京極家が配置された。
さらに、八万騎といわれた徳川家の親衛戦闘集団の旗本が、一番町、二番町、三番町と麹町一帯に住まわされた。現在、半蔵門周辺には麹町警察署があり、警察関係のマンションが広く占めている。皇居に面している半蔵門グランドアークは警察弘済会のホテルである。その南には最高裁判所が威容を示している。

(写真―2)と(図―3)は半蔵門周辺の建物位置図を示した。

(写真―3)はその建物群である。
半蔵門を控えた麹町一帯が、江戸時代には面的に保安警備されていた証拠である。
屋敷はオフィスビルやマンションに変貌し、半蔵門の傍の「平河天満宮」だけが江戸の姿を残している。インターネットで平河天満宮を検索して、ぱらぱらと雑多な情報を画面で流していると、ふっと画面に「赤穂浪士」という文字が見えた。
 「平河天満宮の近くに赤穂浪士が潜伏していた」という一行であった。
天満宮付近に赤穂浪士が潜伏していた?そのようなことがあるはずがない。江戸城正門の付近の天満宮あたりに赤穂浪士が潜伏するはずはない!
インターネットのフェイクの類だと思い寝床に着いたが、それが気になって寝つきは悪かった。
 翌日、八重洲ブックセンターへ行った。歴史コーナーに向かって、忠臣蔵関係本を次々と読むうちに、信じられない思いで一杯になった。
 どの本にも「麹町の平河天満宮周辺に赤穂浪士達が潜伏していた」と記されていた。
 赤穂浪士が麹町に潜伏していたなどありえない。唖然としてしまった。「半蔵門が正門だった」私の説は誤りだったのか。

赤穂浪士の潜伏先
 元禄15年(1702年)12月14日未明、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り上野介の首を取った。なお、本稿のデータは「元禄忠臣蔵データファイル」(元禄忠臣蔵の会(編)、新人物往来社発行)に基づく。
 討ち入り4ヶ月前の7月末、大石内蔵助は京都の丸山会議で討ち入りを宣した。その後、9月から10月にかけ浪士達は三々五々、江戸に潜入して行った。浪士達の潜伏先は忠臣蔵マニアによって綿密に調べ尽くされている。
 大石内蔵助らは日本橋石町をはじめ芝の浜松町、芝の源助町、本町、深川黒江町、南八丁堀湊町、本所林町、本所徳衛門町、本所二ツ目町、両国米沢町など2,3人単位でばらばらに潜伏していった。
ところが、麹町に赤穂浪士がまとまって潜伏していった。
麹町6丁目に原惣右衛門、吉田忠左衛門ら5名、麹町5丁目に冨森助右衛門、麹町4丁目に間瀬久太夫ら6名の浪士が潜んでいた。64歳の吉田忠左衛門は大石内蔵助の副官であり、原惣右衛門は武闘派急先鋒の代表格である。赤穂浪士の主要人物を含む三分の一にあたる総計16名の浪士が麹町に潜伏していたことになる。
この多人数の赤穂浪士の麹町潜伏にも驚いたが、それ以上に驚いたことは、どの忠臣蔵関係本も大勢の赤穂浪士が麹町半蔵門近辺に潜伏したことに疑問を抱いていないことだった。
何故、これに不審を感じないのか?
 半蔵門から紀尾井町にかけての麹町は郭内にあり、半蔵門から歩いて15分もかからない狭い地域である。ましてや、堀が土手で江戸市中で最も警戒が厳しかった地区でもある。
警戒が厳しい麹町に16名という多数の不逞の輩の浪士集団が潜んでいたという。今日の例でいえば、指名手配の過激派が警視庁のすぐ裏をアジトにしたようなものだ。
とうてい信じられない!

密偵の時代
 日本の歴史上、江戸時代は平和で安定していた。それは江戸幕府の圧倒的強権下での平和と安定であった。
各藩は江戸幕府に対して戦々恐々としていた。武家諸法度を少しでも犯せば、お家の取潰し、石高の召上げ、他所への移封が行われた。ある藩がふとどきをすれば、速やかで正確な情報把握システムで江戸幕府に伝わった。江戸幕府の力の源泉の一つは、情報把握システムの密偵配置、すなわちスパイ網システムであった。
スパイ網は全国各藩に張られていただけではない。大名とその家族が住む江戸市中こそスパイ網は密に張り巡らされていた。実在の火付盗賊改方・長谷川平蔵をモデルにした池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、次から次へと密偵が登場する。この小説の主人公は密偵であり、江戸を舞台にしたスパイ小説である。この小説の中でも、麹町5丁目の蕎麦屋「瓢箪屋」の亭主という人物が登場する。その亭主も元幕臣で今は密偵という設定になっている。
忠臣蔵研究者たちの書籍では、麹町、平河天満宮の賑わいの中に赤穂浪士は潜んだと記述されている。しかし、誰も麹町一帯の警備の厳重さに言及していない。どうやら麹町が半蔵門の近くにあったことは知っていた。しかし、その半蔵門が江戸城にとって重要な正門であったこと。かつ、半蔵門の堀は土手だったことに注意していないようだ。
江戸の中心は大手町から日本橋方面で、麹町は江戸城の裏側で潜伏しやすい場所と思い込んでしまったようだ。しかし、半蔵門が江戸城の正門だとすれば様子が異なってくる。

(図―4)が江戸市内における麹町の位置図である。
特に、四ツ谷見附から江戸城までの麹町は密偵の網が稠密に張り巡らされていた。その張り巡らされた密偵網の中に16名もの多数の赤穂浪士が潜伏していた。先ほど「指名手配の過激派が警視庁の裏をアジトにしたようなもの」と表現した。しかし、より厳しく表現するなら、「指名手配の過激派は警視庁内部の空き部屋をアジトにした」となる。

麹町潜伏の謎
 半蔵門が江戸城の正門で、この半蔵門付近に16名という多数の赤穂浪士が潜伏していた。これからある結論が導き出される。
ここでもう一度、確認した事柄を整理して、そこから導き出される結論を述べる。
①半蔵門は江戸城の大切な正門であった。
②江戸幕府は半蔵門の堀を建築上危うい木橋ではなく、安定した土手にした。
③半蔵門の土手防御のため、四ツ谷見附から江戸城までの郭内は御三家や親藩の屋
敷を配置し、かつ、戦闘集団の旗本達を住まわせた。
④賑わう麹町の商店には密偵がくまなく配置されていた
⑤江戸で最も警備が厳重なこの麹町に、副官の吉田忠左衛門、武闘派急先鋒の原惣
右衛門を始め16名もの赤穂浪士が潜伏していた。

以上から出てくる結論はひとつである。
「赤穂浪士は江戸幕府に匿われていた」である。
江戸幕府が赤穂浪士の麹町潜伏を見て見ぬ振りをした、という消極的な関与ではない。徳川幕府自身が赤穂浪士を匿った、という積極的な関与である。
もし、警視庁の空き部屋に過激派が潜んでいたら、警視庁が見て見ぬ振りをしたという生易しいものではない。警視庁が計画して、匿った事態となる。赤穂浪士の麹町潜伏はこのアナロジーが最も近い。
 では、誰がこのようなことを計画して実行したか?それは簡単に断言できる。江戸城内の幕臣たち以外にない。江戸城内の幕臣たちは旗本の子弟が占めていた。幕末の立役者の幕臣の勝海舟は、旗本小普請組の勝子吉の息子であった。
麹町で生まれ育った旗本の子弟たちは、悪戯盛り子供の時から成人になるまでこの麹町で育った。彼らこそ麹町の隅々まで、麹町の全ての住民を知り尽くしていた。麹町で何かを仕掛けるなら彼らしかいない。麹町で16名もの浪士を匿まえるのは、彼ら江戸城の幕臣以外にいない。

地形から見てここまでたどり着いた。ここまでくると「忠臣蔵」の物語が全く異なって見えてくる。(つづく)

 

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【竹村公太郎】江戸最大の謎「赤穂浪士の討ち入り」(その2)-麹町の謎、黒幕をあぶりだす-への2件のコメント

  1. 東京だヨお母さん より

    控えめに言って面白過ぎます!

    土手。そうですモグラやタヌキに穴を掘られただけても強度が失われてしまいますから、ゆめゆめ警戒怠ってはならない。

    忠臣蔵はコントやマンガで見る以外は好きになれず、さっきまで嫌いでしたが、先生の最高に面白い、いきいきとした内容を読んで、長年の考えを改めました。読書好き地理好きにはゾクゾクするような展開です!

    返信

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  2. ちょっとした 疑問 より

    半蔵門が 正門だとしたら、、

    なぜ 半蔵などという 下僕
    の名 を 冠したのか 不思議 。。。

    返信

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